礼拝説教要旨


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2017 礼拝説教要旨




5/27 「神の子とする霊」 ローマの信徒への手紙8章12〜17節  田中真希子 牧師

「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(ローマの信徒への手紙8章15節) 
 私たちは、日本基督教団信仰告白で「聖書において証しせらるる唯一の神は父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。」と告白します。父なる神と子なる神、そして聖霊は別々の3つの存在ではなく、実体は一つであることを示すのが、「三位一体」の教理です。聖書の中には「三位一体」という言葉はありませんが、随所で、三つの姿を持ち、しかも唯一である神様の存在を語っています。神様は、父として、子として、聖霊として様々な形で私たちの日々の歩みに深く入り込んで来られる存在ということです。
 
パウロは言います。キリストを信じる信仰において私たちは奴隷ではなく、神の子とされるのです。つまり神様を信じて生きることは、神という主人の奴隷として、いつも主人の顔色を伺いながら生きるのではなく、神の子とされて、神様に愛されている者として生きると言うことです。神の霊によって、私たちは、イエス様と共に神様を「アッバ、父よ」と呼ぶことが許されていると言うのです。
 「アッバ」という言葉は、子供が父親を親しく呼ぶアラム語の言葉です。当時の庶民が日常的に使っていた言葉です。神様にそのような俗な言葉で呼びかけることは、ユダヤ人たちには考えられないことでした。だからこそ、「アッバ」という言葉がそのまま聖書に残されたのです。罪人にすぎない私たちも、イエス様の十字架と復活によって、親しく神様を「アッバ、父よ」と呼びかけることが赦されるのです。「アッバ父よ」と祈るときに、三位一体の神様と私たちが、どれほどすばらしい形で結ばれているかを知ることができるのです。



5/20 ペンテコステ礼拝 「聖霊に満たされて」  使徒言行録2章1〜13節  田中文宏 牧師

「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2章4節)
 主イエスの復活から50日目(ペンテコステ)、聖霊が弟子たちに降りました。これは偶然の出来事ではなくて、復活の主の約束によるものです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)このように聖霊降臨の出来事は、主の約束の成就を待ち望む弟子たちの祈りの中で起こったのです。

 使徒言行録2章1節以下において、聖霊降臨の出来事は、風や炎によって劇的に描写されています。聖書では風や炎は聖霊を象徴するものです。まさにペンテコステに弟子たちの集まっていた部屋を吹いた風は、弱く、臆病であった弟子たちに新たな命と勇気を与える神様の愛の働きに他なりません。そして弟子たちが聖霊に満たされていろいろな国の言葉で語り始めます。それは、イエス様の十字架と復活によって成就した神の大いなる救いの業でありました。十字架の主イエスの復活を大胆に語ること、それが聖霊の働きであります。
 ところで、聖霊降臨日は教会の誕生日と言われます。桜山教会も聖霊降臨の果実として生まれました。今年の聖霊降臨日は5月20日です。実は桜山教会の現在の会堂が奉献されたのも、1930年5月20日でした。その後、戦禍による焼失を免れ、88年の長きにわたり、桜山の地で聖霊の器として宣教のみ業のために豊かに用いられてきました。今後も十字架の主を共に仰ぎつつ、主の栄光が現されるように祈りを合せていきたいと思います。



5/13 「イエスの祈り」  ヨハネによる福音書17章1〜13節  田中文宏 牧師

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」
(ヨハネによる福音書17:3)

 イエス様は天を仰いで、「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」(1節)と祈りました。「時が来ました」とは十字架の時です。ヨハネによる福音書では一貫して、イエス様が十字架に挙げられる時こそ神様の栄光が現され、神様の救いが成就する時であると教えています。
 イエス様は3節で、永遠の命とは何かを明快に語ります。それは不老不死や死後の命ではありません。唯一のまことの神と、神から遣わされたイエス・キリストを知ることです。「知ること」は、信じることと同義語です。天地を創造し、無から有を生み出す全知全能の神への信仰、この神から遣わされた独り子であるイエス・キリストを信じることです。キリストは、私たちの罪を贖うために十字架に命をささげ、死と罪の支配から私たちを救ってくださいました。キリストの復活は、信じる者すべてに永遠の命を与えるのです。
 イエス様は、11節で、「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」と祈ります。イエス様は、残される弟子たちが直面する試練や迫害を予見していました。それゆえ試練の中においても、「天の父よ」と祈りをささげ、試練や迫害から守られるように祈ったのです。さらに、残される弟子たちが、互いに分かれ争うことなく、共に唯一の天の父なる神を仰ぎ、主に結ばれて互いに神の子としてひとつになるように祈りをささげたのです。



5/6 「礼拝に生きる神の民」  コリントの信徒への手紙一3章1〜7節  田中文宏 牧師

「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(1コリント3章6節)
 礼拝とは神様と私たちとの出会いです。教会の歴史は礼拝から始まります。日本キリスト教団信仰告白の教会の項には「公の礼拝を守り」とあります。家庭礼拝、学校礼拝、職場での礼拝など、様々な礼拝が行われていますが、「公の礼拝」は主の日に教会で行われる礼拝であります。この公の礼拝において福音が正しく宣べ伝えられ、洗礼と聖餐の聖礼典が正しく執り行われるのです。
 まだ駆け出しの牧師であった頃、礼拝をテーマにした地区の青年会の集会に参加しました。教会の長老が、主日礼拝に出席するメリットとデメリットについて話しました。デメリットは、日曜日の貴重な休みの時間や、家族・友人との交わりの機会が失われること、献金や人間関係の負担、聖書や宣教が理解できないことなどが挙げられました。これに対して、デメリットを凌駕する礼拝の恵みと喜びを力説されました。礼拝に出席することにより一週間の信仰生活が整えられ、礼拝を通して霊的な命が養われるのです。十字架の主を仰ぎ、罪を赦されることにより、家族や友人との交わりが豊かにされます。また献金を通して神様の賜物を献げることにより神様の業に仕えることが出来るのです。教会のすべての働きは礼拝を中心に整えられ、私たちの人生に豊かな実りを与えます。
 ところで、コリント教会の基礎を据えたのはパウロであり、水を注いで教会の成長に貢献したのはアポロです。ところが、教会内にパウロ派、アポロ派といった派閥が生じ互いに分かれ争っていました。パウロはこのような事態を憂慮し、両者は神様から遣わされた働き人にすぎないと語り、成長させてくださった神様に信仰の目を向けるように教えました。




4/29 「わたしはまことのぶどうの木」  ヨハネによる福音書15章1〜11節  田中真希子 牧師

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ福音書15章5節)
 イエス様は、私たちとの関係をぶどうの木と枝に譬えます。枝は木にしっかりとつながってこそ生きるのです。枝が木の幹から離れるのは、枯れてしまった時か、あるいは、風などの強い力で引き離される時です。それでも、イエス様は木につながることの大切さを教え、木であるイエス様が、枝をはなさないと言われるのです。それは、信仰の本質を表現しています。信仰生活では、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」このことが、何より大切です。私たちは、ひとたびイエス様のぶどうの木の枝となれば、どこまでも、このまことのぶどうの木から離れては成長しないのです。まことのぶどうの木であるお方から、いっときでも離れてしまっては、もはや信仰は養われない、実を結ぶこともなくなってしまうのです。そして、私たちにとって、目に見えるぶどうの木は、イエス様の身体である教会ということになります。たとえ教会の場所に足を運ぶことが困難になったとしても、私たちは、ぶどうの木である教会につながっています。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」と主は言われます。そうすれば、農夫である神様が豊かに実をむすぶように、手入れをして下さるのです。
 このぶどうの木の譬えの後で、「わたしの愛にとどまりなさい」(9節)と、互いを結ぶ愛の掟について教えられます。イエス様の巧みな譬えから、神様とイエス様と私たち相互の関係について、一番大切なことは何かという深い教えへと導かれるのです。



4/22 「互いに愛し合いなさい」  ヨハネによる福音書13章31〜35節  田中文宏 牧師

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ福音書13章34節)
 イエス様は、ユダが出て行くと、人の子の栄光について語りました(31、32節)。イエス様が語る栄光とはこの世の栄光ではありません。この世の栄光が愛する価値のあるものを愛する栄光であるとすれば、イエス様の受ける栄光は愛する価値のない者を愛する栄光です。つまり、愛するに値しない罪人を愛し、そのために十字架に命を捨てることによって与えられる栄光であります。
 ところで、イエス様は33節で「子たちよ」と呼びかけます。イエス様の目には大人の弟子たちも小さな子どものような存在として映っているのです。この後、イエス様は十字架の死を遂げられます。弟子たちから離れ、弟子たちがついていけないところに行くのです。小さな子どものような弟子たちを後に残していくことは、イエス様にとっても大きな心の痛みを覚えることでした。ある人が、「子たちよ」との呼びかけから始まるイエス様の教えは、十字架の死を前にしたイエス様の遺言だと言いました。そこには弟子たちを最後まで、とことん愛し抜かれたイエス様の愛が証されています。
 イエス様は34節で互いに愛し合うようにと、新しい掟を教えました。神への愛と隣人愛は、旧約聖書でも教えられています(レビ19:18)。イエス様の愛の掟の新しさは、愛の基準にあります。つまり、愛の基準は自分自身の愛ではなくて、イエス様の愛にあるのです。イエス様の愛は愛に値しないものを愛する愛であり、敵を愛し、罪を赦す愛であります。それゆえ、イエス様が遺言として教えられた新しい掟は、互いに罪をゆるしあい、互いを大切にし、互いを愛する愛であります。ここにキリストの愛に生きる弟子の道があります。



4/15 「わたしは良い羊飼い」  ヨハネによる福音書10章11〜16節  田中文宏 牧師

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ福音書10章11節)
 羊の習性はとても人間と似ています。羊は単独行動を好む山羊とは異なり、群れをなして行動します。私たちも、ひとりで行動するよりも集団で行動することが多いのではないでしょうか。また羊は極度の近視と言われます。遠目がきかず、近いところしか見えないのです。その結果、目の前の草を食べることに熱中し、知らず知らずのうちに群れから離れ、迷子になってしまうのです。私たちも、ともすれば目先の利益や楽しさに心を奪われて、長い目で物事を見通すことの大切さを忘れてしまうのではないでしょうか。
 イエス様は、このような羊の習性をよくご存じの上で、失われた一匹の羊のたとえを語りました(ルカ15:1以下)。それは、99匹の羊を残して迷子の一匹の羊を捜す羊飼いのお話です。この世の論理からすれば、99匹が大丈夫であれば一匹ぐらい失われても仕方がないと考えられます。しかし、イエス様は一匹の羊のかけがえのなさを誰よりもご存知です。イエス様は盗人や狼が襲ってくると逃げてしまう雇人の羊飼いではありません。失われた魂を救うために命を捨てる良い羊飼いであります。
 羊は一見頼りない存在ですが、実はとても良い耳をもっています。自分の羊飼いの声を聞きわけるのです。盗人がやってきても、その声を聞きわけてついていかないのです。自分の羊飼いの声を聞き分け、従っていく羊の中に、イエス様と私たちとの愛と信頼に満ちた人格関係を示されます。イエス様は、良い羊飼いとして、その身を十字架にささげ、私たちの罪を贖い、死を超える永遠の命の救いを与えてくださいました。このイエス様に聞き従う信仰の道を共に歩みたいと思います。




4/8 「トマスの信仰」  ヨハネによる福音書20章19〜29節  田中文宏 牧師

「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」(ヨハネ福音書20章29節)
 復活されたイエス様が最初に弟子たちに現れた時、トマスはその場にいませんでした。イエス様の十二弟子のひとりに選ばれたトマスは、イエス様と生死を共にすることに命を賭けていました(11:16)。ところが、トマスも他の弟子たちと同様にイエス様を見捨てて逃げたのです。十字架の死を遂げたイエス様は救い主かどうか、トマスの心は疑いと迷いに満ちていました。
 また、天の父の家に至る道についてイエス様が語られたとき、トマスはどこへ行くのかと問いました(14:6)。トマスにとって、目に見えない世界は不確かなものとして信じるに値しませんでした。それゆえ、他の弟子たちが復活したイエス様を見たと言ったときも、ただ見るだけではなくて、手の釘跡、脇腹の槍の跡に手を入れてみないと信じないと言い放ったのです。
 ところがイースターの翌週の日曜日、復活したイエス様が再び弟子たちに現れ、トマスに名指しで言いました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27節)復活されたイエス様は、トマスの不信仰を頭ごなしに責めるのでなく、むしろトマスの疑いと迷いを100%受けとめ、ただ釘跡や槍の跡を見るだけでなく、手を当てて見なさいと言われたのです。復活されたイエス様の圧倒的な臨在と愛にふれて、トマスの疑いと迷いは取り去られました。十字架の死から復活されたイエス様との出会いを通して、イエス様こそ真の救い主であり、「わたしの主、わたしの神よ」(28節)との信仰告白へと導かれたのです。



4/1 イースター礼拝 「復活の希望」  マルコによる福音書16章1〜8節  田中文宏 牧師

「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」(マルコ福音書16章6節)
 マグダラのマリアたちは、週の初めの日、つまり日曜日の朝早くイエス様の墓に急ぎました。彼女たちの思いはただひとつ、十字架の非業の死を遂げたイエス様をお慰めすることでした。神様は、この女性たちをイエス様の復活の最初の証人として選ばれたのです。ここに世の知恵ある者や力ある者ではなくて、数に足らぬ者、小さな者を選ばれる神様の一方的な恵みの選びが証しされています。

 ところで、イエス様の墓を封印していた大きな石は生と死を分断する障壁でした。たとえ、どれだけ人類の科学や技術が進歩しても、誰も決して超えることのできない障壁です。ところが、墓に着いたとき、すでに大きな石はとりのけられていたのです。ここに復活の出来事の意義があります。つまり、人間の力では超えることのできない生と死の障壁を、神様が一方的にとりのけてくださったのです。

 神の使いは、彼女たちにイエス様の復活を伝えました。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(7節)ガリラヤは、弟子たちがイエス様に出会い、宣教活動に従ったところです。そこにはエルサレムの都にあるような壮麗な神殿もなければ、権力争いに執着するユダヤ教の当局者たちもいません。そこには誰もが営む日常の生活がありました。復活したイエス様がガリラヤで弟子たちに出会うと言うことは、まさに泣き、笑い、悲しみ嘆く私たちの日常の営みの真ん中で出会ってくださるということです。ここに私たちが復活の主イエスと出会う希望があるのです。



3/25 「ゲツセマネの祈り」  マルコによる福音書14章32〜42節  田中文宏 牧師

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ福音書14章36節)
 イエス様と弟子たちは、最後の晩餐を終えてゲツセマネの園にやってきました。深夜、オリーブの木に囲まれた園は、十字架の死を目前にしたイエス様にとって、天の父との静謐な最後の祈りの場でした。イエス様は祈りの中で苦難の杯を取りのけてくださいとの願いと、天の父の御心に適うことが行なわれますようにとの二つの思いによる心の葛藤に、悲しみもだえ苦しまれました。
 苦難の杯を取りのけてくださいとの願いは、決して不信仰な、情けない祈りではありません。むしろ、天の父は、私たちの心の奥底の思いをすべてご存じであり、包み隠さず祈ることをよしとしてくださっているのです。率直に苦難の杯を取りのけてくださいと心を注いで祈ったからこそ、最後には「アッバ、父よ」と天の父の御心に適ったことを行なわれますようにとの信頼と信仰の祈りへと導かれたのです。
 主の祈りの中で、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」とあります。この「みこころ」とは、ゲツセマネの祈りの中でイエス様が祈られた「御心」と同じです。つまり、、十字架の苦しみの杯を受けることが、天の父の御心であり、それによって私たち人間の罪が贖われ、救いのご計画が成就されるのです。イエス様がゲツセマネの園で祈り、私たちが主の祈りによって祈る天の父の「みこころ」とは、イエス様の十字架による罪の贖いと復活による永遠の命の救いであります。
 イエス様の祈りとは対照的に眠りこけていた弟子たちは、弱く躓きに満ちた姿を露呈しました。しかし、この弟子たちの信仰がなくならないようにイエス様は執り成しの祈りをされたのです(ルカ23:31、32)。十字架に躓いた弟子たちは、復活の主と出会い再び立ち上がりました。弟子たちだけでなく、今、ここに生きる私たちの信仰も主イエスの祈りに支えられているのです。




3/18 「皆に仕える者」  マルコによる福音書10章32〜45節  田中真希子 牧師

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ福音書10章45節)
 イエス様がエルサレムでの受難と死を予告された後、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、イエス様に「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)とお願いします。つまりイエス様に次ぐポストを求めたのです。弟子たちは、イエス様は受難と死の時にメシアとしての栄光を示されると期待していました。するとイエス様は、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と問われます。彼らは「できます」と答えています。それは最後まで従う覚悟を表明したのです。しかし実際はイエス様が捕えられた時、弟子たちは皆逃げだしました。人は自分の努力と覚悟で神様の栄光を受ける者ではなく、ただ神様の一方的な恵みによって栄光を受けることができるのです。
 二人の願いに対して、他の弟子たちは腹を立てました。彼らも同じことを考えていたのです。イエス様は「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と教えます。しかし、多くの人は、そんなことはできません。イエス様は、互いに罪ある者、弱い者として支えあうことを求めておられるのです。そして、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と言われます。イエス様が私たちに仕え、命を献げるというのです。私たちにとって、すべての人に分け隔てなく仕え、僕となり、命を捧げて下さるイエス様と共に歩むことが、最大の恵みであり、喜びであり、栄光ではないでしょうか。



3/11 「山上の変容」  マルコによる福音書9章2〜13節  田中文宏 牧師

「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』」(マルコ福音書9章7節)
 イエス様は側近の弟子たちを伴って、祈るために高い山へ登りました。聖書では山は神様の顕現されるところです。モーセが神から十戒を中心とする律法を授かったのはシナイ山でした。また、エリヤは預言者のチャンピオンともいうべき人物ですが、たった一人で、異教のバアルの預言者たちを打ち負かしたのはカルメル山でした。
 ところで、山上で祈られるイエス様のお姿が真っ白に光り輝いたことは、弟子たちにも強烈なインパクトを与えました。ペトロは自分でも何を言っているのかよくわからないような状態で、三つの仮小屋を建てましょうと提案します。すると、雲が弟子たちを覆い、その中から神様が語りかけるのです。「これはわたしの愛する子、これに聞け。」これはイエス様が洗礼を受けた時に天から語られた言葉と符合します。洗礼を受けた時には、イエス様だけが聞いた言葉を、ここでは弟子たちも直接に聞いたのです。しかし、イエス様はご自分が復活するまでこの出来事を話さないように命じました。
 ペトロたちは山上の変容の出来事を通して、異教の帝国の圧政からユダヤの民を解放し、神の国を打ち立てる栄光のメシア、それがイエス様だと確信しました。しかし、イエス様は弟子たちが期待するような栄光のメシアではありません。むしろ、受難のメシアです。モーセとエリヤとイエス様が語りあっていたのは、エルサレムで遂げる十字架の死です。そして、この受難と十字架の道こそ、律法と預言を成就する神の救いのご計画であります。山上でイエス様のお姿が光り輝きました。それは、十字架のイエス様こそ、復活と栄光のメシアであり、罪のゆるしと救いを与えるメシアであると言うことを証しているのです。



3/4 「受難の予告」  マルコによる福音書8章31〜38節  田中文宏 牧師

「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」(マルコ福音書8章31節)
 イエス様は、ペトロの信仰告白の後、弟子たちに受難の予告を語り始めました。これを聞いたペトロは、イエス様をわきへお連れしていさめたのです。するとイエス様は、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(33節)と、ペトロを厳しく叱責しました。
 ペトロを筆頭とする弟子たちは、イエス様をメシアと告白しました。しかし、イエス様の受難予告は、彼らの待ち望むメシアとは相いれないものでした。弟子たちは、イエス様がローマ帝国の圧政を打ち破り、理想のダビデ王国を再興することを期待したのです。これに対して、イエス様の受難予告は、苦難のメシアを教えています。つまり、イエス様の死と復活によって、私たち人間の罪が贖われるのです。ここに人間の思いを越えた神の救いのご計画があります。
 イエス様は、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(34節)と言われました。自分の十字架とは、私たちが背負う罪の重荷を意味します。私たちには、自分の罪の重荷をひとりで背負うことは到底できません。しかし、自分中心の生き方を捨て、イエス様に従うならば信仰の道へ導かれるのです。私たちの前を歩むイエス様が背負っている十字架は、誰のための十字架でしょうか。それは私たちの罪を贖う十字架であります。イエス様に従う信仰の道は、背負いきれない罪をゆるされ、罪の重荷から解き放たれる救いの道です。



2/25 「主の霊によって」  エゼキエル書37章1〜14節  田中真希子 牧師

「そのとき、主はわたしに言われた。『人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。』わたしは答えた。『主なる神よ、あなたのみがご存じです。』」(エゼキエル書37章3節)
 イスラエル民族存亡の危機の時代、いわゆる「バビロン捕囚」の時代に、預言者エゼキエルは活動しました。37章には、神様に導かれて見た幻が語られています。彼は、主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされます。そこは、枯れた骨でいっぱいでした。箴言に「喜びを抱く心はからだを養うが、霊が沈みこんでいると骨まで枯れる」(17:22)とありますが、イスラエルの民は「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と嘆きます。
 3節は、神様とエゼキエルの問答です。彼は、「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えました。その応答は神様を「あなた」と呼び、「神様あなたがそうお望みなら、その通りに実現します。」という神様のへの信頼が含まれています。そして、命じられたとおりにエゼキエルが骨に預言し、主の霊が吹くと、骨は生き返ります。
 この幻は、バビロン捕囚の苦しみの中で、イスラエルの民に神様が与えて下さる救いの預言です。しかし、骨を枯らすような魂の憂いを覚えながら日々を生きているのは、イスラエルの民だけではなく、私たち時代の嘆きでもあります。エゼキエルに与えられた預言はすべての時代、すべての人々への預言でもあります。み言葉が語られ、主の霊が吹くことによって、枯れた骨のような命が生き返り、自分の足で立ち、非常に大きな集団となるのです(10節)。それは、キリストの十字架の死と復活によって罪から解放され、聖霊によって神様に応答する新しい神の民である教会の姿です。主は「あなたはすべてをご存知です。」という私たちの応答を待っておられます。



2/18 「主は見守ってくださる」  詩編121編1〜8節  須藤茂明 牧師

「主はあなたを見守る方。あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。」(詩編121編5節)
 「目を上げて、私は山々を・・。」山々が間近に迫る地で暮す人々にとって、実感を持って感じられる詩でしょう。豊かな自然に生きる人にもそうかも知れません。しかし何処に居ようと、都会でPCや書類の前で忙しい人こそ、「目を上げて」この詩の語る慰めに、助けとなってくださる方に、信仰の目を上げたいと思うのです。
 121編は「エルサレム神殿巡礼の詩」です。当時の旅には危険が伴います。舗装されていない道を徒歩で向かい、足を挫きます(3)。遠くから眺める風光明媚な山々ではなく、陰に強盗が潜んでいるかも知れない「危険な丘」をいくつも越えます(1)。強い日差しは旅人の体力を奪い、熱中症の危険があります。当時は月の光に当たると、熱病やてんかんになると信じられていました(6)。巡礼は様々な危険が伴いました。
 この詩はエルサレム神殿への巡礼者の困難を語り、それ以上に確かな「守り」も、語っています(3〜8節に「見守る」が6度ある)。しかしまたそれだけでもないでしょう。この詩から私たちは、現代の教会に生きる信仰者への守りを、重ねて聞かないでしょうか。困難に身を晒して生きる私たち「現代の巡礼者」に向け、この詩は確かな守り(守ってくださる方)を、教えていませんでしょうか。
 慌ただしさに翻弄され乱れた心で、私たちは目を上げます。今私たちは、信仰の「目を上げて」、教会の主イエス・キリストを、「仰」ぎます(1)。無力な己からも目を離し、目に見えずとも、今もあなたをまどろまず見守っておられる主に、目を上げましょう。
  ≪祈り≫主よ、行く末を遠く見ることは出来ません。でも、あなたの見守りを信じ、この先の導きをもお委ねして、歩む私たちとしてください。



2/11 「突風を静める主」  マルコによる福音書 4章35〜41節  田中文宏 牧師

「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。』」(マルコ福音書4章40節)
 イエス様と弟子たちを襲った突風はガリラヤ湖の地形と深く結びついていました。湖は海面より200m余り低く、周囲を取り巻くヘルモン山から直滑降のように吹き降ろす風がヨルダン渓谷を伝って湖に突風を引き起こすのです。この突風のために湖は荒れ狂い、舟は木の葉のように転覆の危機にさらされました。
 弟子たちの中にはペトロたち漁師がいました。彼らは湖の自然現象を十分に熟知し、これまでにも同様の経験をしたことがありました。しかし自然の脅威は彼らの力をはるかに凌駕するものでした。転覆の危機に瀕した時、弟子たちの目に飛び込んできたのは、舟の艫でぐっすりと眠っているイエス様の姿でした。弟子たちは必死になってイエス様を叩き起こして助けを求めます。すると、イエス様は立ち上がり、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われたのです。すると、驚いたことに風はやみ、すっかり凪になりました。
 イエス様は粛然としている弟子たちに、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と、彼らの信仰を問いました。つまり、たとえ嵐の中でもイエス様が共にいてくださるならば怖がることはないと語りかけているのです。ここには天地を創造された神の御子としてのイエス様の権威と力が証されています。
 イエス様と弟子たちの乗った舟は、私たちの教会を象徴しています。紛争や突然の災害の続く世界の中で、教会は時代の荒波と突風に翻弄されてきました。しかし、今も十字架と復活の主は教会の真中に立ち、「黙れ。沈まれ」と力強く語りかけています。ここに教会の揺るぎない信仰の土台があります。私たちと共にいてくださる主のみ言葉に導かれて信仰に励みましょう。



2/4 「罪をゆるす権威」  マルコによる福音書 2章1〜12節  田中文宏 牧師

「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」(マルコ福音書2章5節)

 カファルナウムの家でみ言葉を語るイエス様のもとに、四人の男が中風の人を運んできます。ところが、群衆に阻まれてイエス様に近づくことができませんでした。すると彼らは家の外付けの階段を上り、屋根に穴をあけ、イエス様の前に病人の寝ている床をつり降ろしたのです。ここには困難な現実にあきらめることなく、この世の誤った常識の壁を打ち破る信仰の力があります。この信仰の力はキリストの体なる教会共同体に与えられているのです。
 イエス様は中風の人に罪の赦しを宣言しました。「子よ、あなたの罪は赦される。」病の苦しみと、罪の力に打ちひしがれていた中風の人に、神の子とする救いの恵みと深い慰めが与えられたのです。ところが、この言葉が波紋を引き起こしました。その場に座っていた律法学者たちは、イエス様が神を冒涜していると考えたのです。なぜなら、神おひとりのほかは、だれも罪を赦すことはできないからです。
 イエス様は律法学者たちの心を見抜いて、問い返します。そして、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(10節)と言って、中風の人を起き上がらせたのです。イエス様の言葉は、口先だけの神を冒涜する言葉ではありません。むしろ、権威ある言葉です。それは罪を赦し、病を癒す力ある言葉であります。
 それではイエス様の罪を赦す権威はどこにあるのでしょうか。それは十字架にあります。イエス様は、「人の子」として、苦難の主の僕として、十字架の道を歩まれました。イエス様は、中風の人だけでなく、私たちすべての者の罪を赦すために十字架にご自身の命を献げられたのです。イエス様の十字架の贖いの恵みにこそ、罪を赦す権威があるのです。



1/28 「いのちの糧」  マルコによる福音書 4章1〜9節  田中文宏 牧師

「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」

(マルコ福音書4章8節)
 イエス様は会堂だけでなく、ガリラヤの湖畔や丘でも教えました。そこには会堂の厳粛で整った礼拝はありませんが、煩瑣な規則にとらわれない生きた礼拝がありました。それはイエス様がサマリアの女性に教えた霊と真理をもって行うまことの礼拝ではないでしょうか。
 イエス様は湖畔に集まった人たちに、舟の上から教えました。聞いている人たちは年齢、性別、人生経験も千差万別です。このような状況に最も適しているのがたとえ話です。神の福音の真理を短く、ワンポイントで語るのです。福音書には50のイエス様のたとえ話が記されています。まさにイエス様はたとえ話の天才と言えます。
 イエス様は種蒔きのたとえの中で四つの種について語ります。当時のパレスチナでは、直まきが行われていました。まず畑に種を蒔いてから耕すのです。畑の中には足で踏み固められた道がありましたので、道端に落ちる種もありました。蒔かれた種の中には石地や茨の中に落ちる種もあったのです。イエス様は、このたとえ話を語ると、「聞く耳のある者は聞きなさい」(9節)と大きな声で言いました。
 私たちは信仰生活の中で四つの種を経験します。熱心にみ言葉に聞き、信仰に励む時期もありますが、時には信仰の喜びを失い、礼拝から遠ざかってしまうこともあります。しかし、イエス様の種蒔きのたとえは、み言葉の絶大な力、そのいのちの豊かさを教えています。たとえ、み言葉に関心を失い、礼拝から遠ざかり、この世の誘惑に押しつぶされそうになっても、神様の言葉に信頼し、み言葉に聞き続けるならば、私たちの想像を超える豊かな恵みといのちの祝福が与えられるのです。




1/21 「わたしについて来なさい」  マルコによる福音書 1章14〜20節  田中文宏 牧師

「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。」(マルコ福音書1章17節)
 ヨハネから洗礼を受けたイエス様は、荒れ野のサタンの誘惑を敢然と退けます。そしてヨハネが投獄されると、いよいよ神の福音宣教を開始されたのです。イエス様は、「時が満ち、神の国は近づいた」と宣言されました。この場合の「時」はギリシャ語でカイロスと呼ばれ、何時何分と言う通時的な時間ではなくて、まさに神様の救いが始まる決定的な時を意味したのです。
 イエス様が宣教を始めて最初に行なったのは、弟子たちの選びでした。イエス様は宣教を共に担う弟子たちを切実に必要とされたのです。たとえ神の御子としてオールマイティと思えるイエス様も、ひとりでは宣教活動を行うことはできないのです。換言すれば、福音宣教はひとりのワンマンプレーではなくて、信仰を同じくする者によって、互いに協力しながら進められるのではないでしょうか。
 イエス様はガリラヤ湖で網を打ち漁をしていたペトロとアンデレ、また網の手入れをしていたヤコブトヨハネを最初の弟子として召されました。律法学者やファリサイ派の人たちでなく、無学でただの漁師たちを弟子とされたことは、神様の選びの恵みを証ししています。神様は、この世で小さくされている者を選び、弱く、躓きに満ちた者を宣教のみ業に用いてくださるのです。ここに召命の原点があります。
 イエス様についていくことは、牧師や伝道者になることだけを意味しません。英語で職業を表すボケイションという言葉には「天職」という意味もあります。つまり、天から授かった職業と言うことです。神様からいただいたそれぞれの賜物を活かした職業や仕事を通して、神様と隣人に仕えていくことの中にも、主に従う道があるのではないでしょうか。




1/14 「わたしの愛する子」  マルコによる福音書 1章9〜11節  田中文宏 牧師

「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(マルコ福音書1章11節)

 洗礼者ヨハネの活動は、異教のローマ帝国の圧政の下で、民衆のメシア待望の機運が大いに高まっていた時期に始まります。ヨハネの洗礼は、宗教一般に見られる穢れを清める儀式ではなく、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼でした。それまでの自分中心の生き方から、神様を中心とした生き方へと180度人生の方向転換をするのです。罪の赦しは一時的なご利益ではありません。それは宗教や政治的な立場を超えて、すべての人が求める根源的な救いです。この根源的救いをもたらす救い主の道備えをしたのがヨハネの洗礼でした。
 本来、罪のない神の御子イエス様は洗礼を受ける必要はありません。それでは何故ヨハネから洗礼を受けたのでしょうか。それは罪に悩み苦しむ私たちと同じ身の上となるためです。そうしなければ、罪に悩み苦しむ私たちの心に寄り添い、その痛みや苦しみを我が身のこととして受けとめることができないからです。ここにイエス様の愛があります。この愛は十字架に至る罪を贖う愛であります。

 イエス様は水の中から上がるとすぐ、天が裂けて聖霊が鳩のように自分に降って来るのを、御覧になります。これは、イエス様がへりくだった僕として仕える道を歩まれること、柔和で慰めに満ちた平和の主であることを証します。11節の天からの声は、父・御子・聖霊の三位一体の神の現臨を示しています。罪人の一人のようにしてヨハネから洗礼を受けられたイエス様こそ、「わたしの愛する子」であり、このイエス様に聞くようにと宣言されているのです。私たちはイエス様に倣い自分の罪を告白して洗礼を受けます。それは、私たちもイエス様と同じように神様から愛されている子として生きることを意味するのです。



1/7 「わたしの父の家」  ルカによる福音書 2章41〜52節  田中文宏 牧師

「すると、イエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』」 (ルカ福音書2章49節)
イエス様は12歳の時、両親と共に過越祭にエルサレムへ行きました。ユダヤの社会では男の子は12歳になると「律法の子」と呼ばれ、成人男子として律法を守ることが義務づけられたのです。これに従って両親はイエス様をエルサレム神殿の礼拝に連れて行きました。
ところが、祭の期間が終わり、エルサレムからの帰路、両親は道連れの中にイエス様がいないことに気づき、あわてて親類や知人の間を捜しながら都に引き返していきました。過越祭は内外から多くの巡礼の人々がやってくるユダヤでは一番大きな祭です。愛国心が高揚し、しばしば騒乱も起こりました。イエス様は事件に巻き込まれたのではないか、両親は心配でたまりませんでした。
三日後、両親は神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、対等に論じ合っているイエス様を見つけて驚きました。マリアは、親に心配をかけたことを叱責しますが、イエス様は自分の父の家にいるのは当たり前だと答えたのです。ここにはイエス様と父なる神との特別な人格関係、父なる神の御子としての自己証言があります。イエス様にとって、神殿は単なる礼拝の場所ではなく、父なる神が臨在されるところです。

この時から20年余、イエス様はろばの子に乗ってエルサレムへ入城します。そして神殿の境内で商売をしていた人々を追い出し、神殿を「わたしの家」(ルカ19:46)と呼び、その父の家を盗賊の巣にしているとユダヤの指導者たちを厳しく批判しました。神の御子イエス様にとって、神殿はすべての人の祈りの家であります。幼子も高齢者も、すべての人が魂の憩いと安らぎを与えられる父の家、そこに私たちの教会があります。



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