礼拝説教要旨


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10/29 「福音の力」  ローマの信徒への手紙 1章16〜17節  田中文宏 牧師

「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」(ローマ1章17節)

 ルターの宗教改革の発端になったのは免罪符の問題でした。当時のローマ・カトリック教会では、天国と地獄の間に煉獄の存在を教え、人は死後、煉獄で罪の償いをして天国へ行けると説いていました。免罪符は、この煉獄の罪の償いを軽減し、免除するものです。つまり、免罪符を購入することにより、私たちの魂は煉獄に行くことなく、天国に直行することができるのです。ルターは、このような教えが聖書の真理に基づいていないことを提起しました。このように宗教改革の出発点は、徹頭徹尾聖書の真理と人間の魂の救いの問題でありました。
 ところで、修道院に入会したルターは、他の誰よりも熱心に聖書を読み、修道院の戒律に従って生活しました。しかし、彼の心には常に恐れと不安がありました。その恐れや不安を打ち消すために、さらに熱心に聖書を研究し、修道院の戒律に精進します。ところが、恐れや不安はなくなるどころか、反対に大きくなって彼を苦しめたのです。

 このような祈りの苦闘の中で塔の体験と呼ばれる出来事が起こります。ローマ1章17節のみ言葉を黙想していたルターは、神の義の再発見をしました。それまではルターにとって神の義とは罪を裁く審判者としての神の義でした。しかし、祈りの苦闘の中でルターの神の義の理解は180度変わりました。それは神の義のどんでん返しです。つまり、神の義とは恐ろしい審判者としての義ではなくて、罪人を赦し、救う恵みとしての義であります。この救いの恵みとしての神の義がイエス・キリストの福音に啓示されたのです。この福音は、ユダヤ人という一民族だけでなく、信じるすべての者に救いを得させる神の力であります。このキリストの福音の力によって宗教改革の事業は進められたのです。




10/22 「天の国のたとえ」  マタイによる福音書 25章1〜13節  田中真希子 牧師

「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(マタイによる福音書25章13節)

 この譬え話は、「天の国は次のようにたとえられる」で始まります。「天の国」と「神の国」は同じです。教会が語る「神の国」は、神様が支配し、神様の御心が完全に行われるところです。そこに私たちを導くのはイエス様です。この譬え話では、結婚式の祝宴が「天の国」でしょうか。そこに導く花婿は、イエス様かもしれません。そして初代の教会では、乙女たちを信徒たちと理解していたようです。乙女たちは、予備の油を準備していた賢い5人と、準備のなかった愚かな5人です。愚かな5人は、あわてて油を買いに行き、もどってくると、家の扉はすでに閉められ、主人に冷たく締め出されてしまいます。この主人を神様と考えると、なんと厳しい、自分はどちらの乙女かと心配になります。それなら、締め出されないためには何が必要なのか、その答えを読み取ろうとします。賢いおとめが準備していた油とは何か。「信仰」「美徳」あるいは「よい行い」などと解釈されてきました。
 油が何を象徴するのか、そこにばかりとらわれると、この譬えは、天の国に入る資格、基準は何か、誰が排除されるのかという話になってしまいます。確かに、私たちは天の国に入るには相応しくない愚かで罪深い者かもしれません。しかし、イエス様と共に、天の国に入るとき、私たち個人の資格や条件は問題ではないはずです。それでも、天の国に入る喜びよりも、自分の罪が裁かれることを恐れ、自分からイエス様と離れてしまうかもしれません。そんな時は、イエス様の十字架にたち戻りたいと思います。イエス様の苦しみと死は、私たちの罪を赦すためであったのです。だからこそ、喜びと希望を持って、天の国を待ち望みことこそが、神様のみ心なのです。




10/15 「信仰による生涯」  ヘブライ人への手紙 11章17〜22節  田中文宏 牧師

「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。」(ヘブライ11章17節)

 ヘブライ11章17節以下には、アブラハム、イサク、ヤコブと言った旧約の族長の名が列挙されています。彼らは今から四千年近く前、日本から遠く離れた中近東の世界で生きた人たちです。現代に生きる私たちは、四千年の歴史の隔たりを越えて、神様への信仰というただひとつの接点によって彼らと結び合わされているのです。
 ところで、ヘブライ11章には「信仰によって」という言葉が繰り返し用いられています。これは信仰が、スマホのような文明の利器のように生きていく上で便利な手段や道具であるということではありません。むしろ、文明の利器が時には人類を滅びに至らせる危機を秘めているのに対して、信仰は、私たち人間を神様に結びつけ、人と人、人と自然の関係に平和と一致を創り出すのです。
 聖書の中で、アブラハムは信仰の父と呼ばれ、イスラエルの民だけでなく、世界のすべての民の祝福の源になりました。アブラハムの生涯の中で最大の試練は、モリヤの山で愛する独り子イサクを焼き尽くす献げものとしてささげなさいとの神様の命令です。しかし、アブラハムの信仰は揺るぎませんでした。この試練の出来事は、「主の山に、備えあり」(創世記22:14)との摂理の信仰を教えています。
 モリヤの山の出来事は、ゴルゴダの丘のイエス様の十字架をさし示しています。イエス様の十字架は、この世の不条理と矛盾を象徴するものです。しかし、神様は十字架の主を捨ておくことなく、主イエスは復活されました。主の十字架と復活の出来事は、私たちの信仰の核心であります。十字架の主のもとに導かれるところに、罪のゆるしと愛に生きる私たちの人生の祝福の源があるのです。




10/8 「仕事と人生」  テサロニケの信徒への手紙二 3章6〜13節  田中文宏 牧師

「兄弟たち、・・怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。」(テサロニケ二3章6節)

 テサロニケ教会の人たちは明日にもキリストが再臨し、世の終わりが来ることを熱望していました。その時にはこの世の生活や一切がリセットされます。結果的に、この世の生活や仕事に対して何の意味も見出すことができなくなり、毎日何もしないで怠惰な生活を送る人たちが現れてきたのです。パウロは誤った信仰理解による怠惰な生活を厳しく戒め、落ち着いて仕事をするように勧めました。
 聖書は仕事や労働についてどのようにおしえているのでしょうか。創世記2章15節には、「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」とあります。すなわち神様は、私たち人間を働く存在として創造したのです。ここで「耕す」という言葉は、仕えるという意味です。土を耕す労働は、人間にとって神さまのみ旨に仕えること、つまり仕事であるということです。
 これに対して、創世記3章17節以下には、神様との約束を破り禁断の実を取って食べたアダムの罪が厳しく罰せられています。アダムは、死ぬまで苦しみの中で額に汗して働くのです。そこには働くことの喜びや祝福はありません。
 仕事と人生を考える時、私たちの人生そのものが仕事、仕える事といえます。三浦光世さんの「死という大切な仕事」という本の中に、最も大いなる「死ぬ」と言う大切な仕事を成し遂げたのが、キリストの十字架であると記しています。キリストは私たちに仕える者となり、罪の赦しの道を開くために十字架の苦しみを耐え忍ばれました。私たちの信仰生活は、キリストの赦しの愛に仕えることです。この主の愛に仕えることの中に、私たちの人生の究極の目標があり、真の慰めと喜びがあるのです。




10/1 「愛によって歩みなさい」  エフェソの信徒への手紙 5章1〜5節  田中文宏 牧師

「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」(エフェソ5章2節)

 エフェソ5章1節には、「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」とあります。2節は、1節を言い換えたものです。つまり、キリストが私たちの罪の贖いとしてご自身を十字架に献げてくださったことにより、私たちは神の子どもとされたのです。それゆえ神に倣う者となることは、キリストの愛によって歩むことに他なりません。
 3節には、「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。」と勧めています。むしろ感謝の言葉こそ(4節)、神に愛された子どもにふさわしいのです。私たちが神の子として生きていく上で大切な言葉が二つあります。ひとつは、「ありがとう」という感謝の言葉であり、もうひとつは「ごめんなさい」という赦しの言葉です。これは人間関係だけではなくて、神様との関係にもあてはまります。「ありがとう」と神様に感謝をささげると、神様の愛が心に溢れます。また、「ごめんなさい」と神様に赦しを祈ると、心の重荷から解き放たれるのではないでしょうか。
 10月第一主日は世界聖餐日です。桜山教会は聖餐を大切にしてきました。宗教改革以来、プロテスタント教会では聖餐を見える御言葉、説教を見えざる御言葉として教会の土台にしてきました。キリストは国境や人種の壁を越えて、すべての人を聖餐の恵みへと招いてくださっています。主の十字架の贖いの恵みにより一つとされていることの恵みを覚え、互いにゆるしあう信仰の道を歩みましょう。




9/24 「新しい人を身につける」  エフェソの信徒への手紙 4章17〜24節  田中真希子 牧師

「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェソ4章22,23節)
パウロは、「もはや、異邦人と同じように歩んではなりなせん。」と言います。ここで言う「異邦人」とは、神様から離れた状態にある人、またそのような思いに囚われている人を指しています。神様を忘れ、自分の思い、自分の欲望に引きずられ、その結果、自分自身や隣人を傷つけてしまう、そういう状態を示しています。
パウロは、古い人を脱ぎ捨て新しい人を身につけるようにと勧めます。私たちを惑わす情欲から自由になる為には、霊において信仰において、心が新しくされることが大切です。私たちは自分の力で、古い人を脱ぎ捨てることはできません。それができるなら、キリストの十字架の救いは必要ありません。「神にかたどって造られた新しい人を身に着け」とあります。「神にかたどって造られた新しい人」とは、神様が特別な思いで創造された人の姿です。それは神の独り子、主イエス・キリストのことです。パウロは「主イエス・キリストを身にまといなさい」(ロマ13:14)とも表現しています。キリストを着ることによって、私たちは「真理に基づいた正しく清い生活を送る」ことができるのです。神様が私たちを、ご自分の似姿に創造された特別な存在として愛し、神様の子どもにふさわしい姿に私たちを整えていって下さるのです。誘惑の多いこの世界に生きる私たちにとって、古い人を完全に脱ぎ捨てるまで、行きつ、戻りつ、の歩みかもしれません。しかし、私たちの身に着ける新しい人、主イエス・キリストはいつも私たちの傍ら、手の届くところにいて下さるのです。




9/17 「礼拝の喜びに生きる」  テサロニケの信徒への手紙一 5章12〜17節  田中文宏 牧師

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケ一5章16-18節)

 テサロニケ一5章12、13節には、教会の中で信徒たちの信仰生活を戒め、導き、労苦する指導者たちを愛をもって尊敬するように勧めています。教会の牧師、長老、信徒の関係は、上司の命令は絶対というような上下関係ではありません。むしろ、神様から与えられた働きや務めとして愛をもって尊敬するのです。
 次に、14、15節には問題を抱えている信仰の仲間に忍耐強く接するように勧めています。パウロは手紙の中で、再臨信仰を誤解して、怠惰な生活をしている人には、落ち着いた生活をして仕事をするように教え、さらに、再臨を待たずして亡くなった信仰の仲間が、決して救いに漏れることはないことを丁寧に諭しています。
 今年度の年間主題は「礼拝の喜びに生きる」です。教会の第一の業は主日の礼拝です。私たちの信仰生活は教会生活であり、教会生活は礼拝の生活です。礼拝に出席することは決して規則でも義務でもなく、喜びであり、感謝であります。なぜなら、私達は礼拝を通してキリストの十字架の贖いと永遠の命の恵に生きる者とされるからです。
 先日、教会のロッカーを整理していましたら、戦中、戦後の古い週報を見つけました。紙は黄ばんで文字も薄くなっていました。桜山教会は喜びの時も、悲しみの時も毎週の主日礼拝を刻みながら歩んできました。今後の桜山教会の歩みも毎週の礼拝を刻んでいくところに道が備えられます。先に召された天上の信仰の先達と共に礼拝を捧げていることを覚え、喜びと祈りと感謝をもって信仰の道を歩みましょう。




9/10 「勝利を賜る神」  コリントの信徒への手紙一 15章50〜58節  田中文宏 牧師

「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(コリント一15章57節)

 聖書の中で復活信仰ほど理解しがたい事柄はないと思われます。パウロがアテネで伝道した時もそうです。アテネの人たちは当時ギリシャ世界で受け入れられていた霊魂の不滅を信じていました。しかし、復活信仰は霊魂の不滅ではありません。私たちは、毎週の礼拝の中で、「体のよみがえり、永遠の命を信ず」と告白するのです。
 勿論、どのような復活の体が与えられるかは誰も見たことはありません。パウロは15章35節以下で、復活の体を地に蒔かれた種にたとえています。種は土に蒔かれて一度死にますが、やがて復活して種とはまったく異なる形に変わるのです。神様は、信じる者に朽ちることのない、輝かしい霊的な復活の体を与えてくださるのです。
 ところで、パウロは、51節において、「わたしはあなたがたに神秘を告げます」と語り、キリストの再臨において私たちに与えられる朽ちることのない復活の体について語っています。そして、54、55節において、次のように死に打ち勝つ勝利を語ります。「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』」そして、57節で主イエス・キリストによって勝利を賜る神さまの救いを宣言しています。
 桜山教会にとって最も大切な福音を宣べ伝える宣教の業は、時には困難を極め、徒労と思えるようなこともあります。しかし、主に結ばれているならば、どんなことも決して無駄になることはありません。必ずや勝利を賜る神様を仰ぎ、共に主のみ業に仕えていきたいと思います。



9/3 「忍耐して待ち望む」  ローマの信徒への手紙 8章18〜25節  田中文宏 牧師

「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマの信徒への手紙8章25節)
 パウロは、ローマ8章18節で「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」と記しています。「現在の苦しみ」とは、信仰生活や宣教活動にともなう迫害や試練のことです。使徒言行録には、初代教会の誕生と、その後のペトロやパウロたちの伝道の働きが綴られていますが、それは同時に迫害と苦難の歴史でもありました。
 しかし、パウロにとって苦しみは約束された将来の栄光、救いの歓声にあずかるために通らなければならない道でした。それは十字架の道を歩まれたイエス様がいつも共にいてくださる歩みでもあったのです。パウロは、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(フィリピ1:29)と記しています。ここには、パウロの伝道者としての信仰の真髄が語られているのではないでしょうか。
 ところで、パウロは現在の苦しみをはるかに凌駕する将来の栄光について語ります。23節では、「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」と記しています。ここには、神様の造られた被造物全体を含めて、神の子とされる時を待ち望む信仰が力強く証されているのです。
 今朝、私達は主の晩餐である聖餐の恵みに預かります。聖餐は、主の十字架の贖いの恵みと永遠の命の祝福に預かる聖礼典です。私達は主日の礼拝において主の聖餐の恵みに養われつつ、来るべき主のみ国の救いを待ち望む信仰に生きるのです。




8/27 「主があなたと共に」  マルコによる福音書 6章45〜52節  野村和男 教師

「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。」(マルコ福音書6章48節)
@主イエスは強いて弟子たちだけで夕方にガリラヤ湖へ漕ぎ出させられます。元々この湖の漁師だった弟子たちは、夕方から夜にかけて突風が吹き荒れる慣いを知っていただけに不安があった筈です。しかし、主の言葉に従って漕ぎ出したのです。
A彼らの不安は適中し、案の上湖の真中で突然の嵐に見舞われ、おじまどいます。何故主イエスは弟子たちをこの様な目に遭わせられるのだろう。主はどこに行ってしまわれたのか……。信仰は危機の中で問われます。やがて水の上を歩いて近づく主イエスのことを幽霊としか思えず、主イエスのことが全く現実の中で力を持たない絵空事でしかなくなります。信仰の危機です。
Bしかしこの出来事の中心は、そういう彼らでなく、主イエスにあるのです(48節)。彼らが嵐の中で主イエスを見失ない恐れている時にも、主は「見て」おられ、彼らの所へ「行き」、そのそばを「通り過ぎよう」、とされるのです。通り過ぎるとは、そ知らぬ顔で行ってしまうことでなく、彼らの傍らに立ち、戦いをその身に引き受けて導くこと(過ぎ越し)を意味します。どんな時にも主は共に居られ全責任を負って支えておられるのです。
C信じるということは、この世の不安や恐れの中で、しかしそこに主イエスが共に立ち共に戦っていて下さることに気づき、立ち帰り、この主への信頼をとりもどさせて頂くことなのです。今、この一つのこと――この一つのことだけが、桜山教会の牧師と長老、信徒に求められているのです。




8/20 「苦難の共同体」  使徒言行録 20章28〜35節  田中文宏 牧師

「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。」(使徒言行録20章32節)
 使徒言行録20章28節以下は、パウロのミレトスでの訣別の説教の最後の部分です。パウロがあえて長老たちをミレトスに呼び寄せたことには理由がありました。それは、もう二度とお互いに生きて会うことはないと覚悟していたからです。パウロは、聖霊によってエルサレムで自分を待ち受けているのは苦難と投獄であると示されていましたが、そこに神様の御心を信じていたのです。
 ところで、パウロは自らの熱い心情を吐露しながら、28節で長老たちに、「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」と語っています。ここには教会が御子イエス・キリストの十字架の血によって贖いとられた神の教会と言われています。つまり、教会とは人間の所有物ではなくて神のものであり、キリストの体であります。長老は、神の教会の群れの世話をする務めを与えられているのです。ここに群れの監督を託された長老の務めの光栄があります。
 パウロは、ひとつの警告を発します。それは、パウロが去った後に、残忍な狼どもが教会へ入り込んで来て群れを荒らすことです。残忍な狼とは、誤った教えを語る教師たちです。また、教会の内部からも邪説を唱える者が現れます。その結果、十字架の福音が捨て去られ、自分に都合の良い教えや作り話に取りこまれていくというのです。パウロの心配は的中します。ヨハネの黙示録2章1節以下には、初めのころの愛から離れてしまった教会に悔い改めが求められています。初めのころの愛とは、十字架の愛です。この愛に立ち帰るところに真の悔い改めがあります。




8/13 「サウロの回心」  使徒言行録 9章26〜31節  田中文宏 牧師

「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。」(使徒言行録9章26節)
 初代教会の中で、神様が異邦人伝道の器として選んだサウロは、エルサレムから遠く離れたキリキヤのタルソスで熱心なユダヤ教の家庭に生まれました。また生まれつきローマの市民権を有していたことからも世界に開かれた心の持ち主であったと思われます。彼は成長してエルサレムの律法の教師であったガマリエルの門下となり、ユダヤ教に精進しました。

 ところで、なぜサウロは教会の迫害者になったのでしょうか。そこにはサウロが生涯忘れることのできない体験がありました。それは初代教会の最初の殉教者ステファノの殺害に賛成し、その現場に立ち会ったことです。熱烈で筋金入りの律法主義者であったサウロにとって、十字架の福音は受け入れがたいものでした。なぜなら十字架に架けられた者は、律法によれば神に呪われた者です。十字架のイエス様を救い主として信じるだけでなく、その教えに殉じて命をささげると言うようなことは断じて許せなかったのです。それは、サウロの信仰と存在の土台を覆すことでした。

 ダマスコ途上での復活の主との出会いは、サウロに何を示したのでしょうか。それは、罪をゆるし、敵をゆるす愛であります。復活の主は、サウロに一言も恨み言を言いません。ただダマスコで神様の御心が告げられると語ったのです。まさに人生の盲目状態に置かれたサウロに、アナニヤという主の弟子が遣わされ、サウロに神様の御心を伝えます。それはサウロが十字架と復活の証人として、宣教のみ業に用いられることでした。サウロにとって神様の呪いであった十字架は、サウロの罪をゆるし、敵をゆるす愛に生きる十字架となったのです。


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