礼拝説教要旨


2009年6月28日
世の初めの物語() 「光あれ」 田口博之牧師
創世記115



初めに、神は天地を創造された。

聖書は、「初めに、神は天地を創造された。」という言葉によって始めています。様々なことを思いめぐらす1節です。たとえば、今日も礼拝後に行われる「分かち合いの時」などでの話しを聞いて感じることは、両親がクリスチャンで小さな頃から教会に来ていたという方は、神さまが天地を造られたということを、当たり前のように受け入れているということです。ところが、わたしなどもそうですが、中高生や大人になってはじめて聖書を開いたという人は、当たり前とは思いません。以前「聖書には『初めに、神は天地を創造された。』と書いてあるけれども、誰もそのときの様子を見たことがないのに、そんなことを言ってしまっていいのか。」と問われたこともあります。もっともその人は、批判的な思いだけで言われたのではなく、こういうことを信じなければならないのであれば、キリスト教の信仰を持つことはできないという問いかけでした。ところが、そういう疑問は、乗り越えて信じなければならない類のものではないのです。

また、「初めに、神は天地を創造された。」という言葉から分かることは、聖書は神さまが存在するかどうかについては、答えようとしていないということです。わたしたちは、神さまは本当にいるのだろうか。神さまがいるなら何でこんな理不尽なことが起こるのか、神さまがいるならその証拠を見せてくれなどと言うことがあります。しかし、聖書の御言葉を引くことで、それらの問いに答えることはできません。聖書は、神は存在することを前提とし、「初めに、神は天と地を創造された」と語るからです。聖書は冒頭で、神さまは創造されるお方なのだ、生きて働かれる方なのだということを言い表しているのです。

 

どちらが正しいかではなく

 よく「科学か信仰か」という二者択一的な考え方がされることがあります。かつて、夜の祈祷会にどこかの教会に通っている青年が来られ、「日本基督教団では進化論に対してどのような態度を取っていますか、何か声明を出していますか」と尋ねました。自分が通っている教派では、聖書の言葉は一字一句正しいと考えるから、進化論は間違いだという表明していると言うのです。わたしは、日本基督教団がこうした問題に対して統一した見解を出せるはずがないと思いつつ、「どう考えるかは、それぞれの教会・牧師の信仰的判断に任されているんですよ。」そのように答えたことを覚えています。

実際に、進化論自体が、ダーウィンが唱えたものから随分と進化しており、今もまだ決定的なものとなっていないと理解しています。また、聖書の創造論が進化論に代わる教科書とはなり得ないこともまた事実です。しかしそれは、聖書に書いてあることなど科学的にナンセンスで信じるに値しないと言うことではありません。あるいは、聖書に書いてあることを言葉どおり信じることが信仰なのか、というとそれも違います。信仰と科学では、扱っている事柄が違うので、二者択一で考えること自体に無理があるのです。

以前の説教で、聖書はこの世界や人間がどのように造られたかではなく、神さまはなぜこの世界や人間を造られたか、その存在の意味を問うのだという話しをし、目の前にある講壇のマイクを例に取りました。このようなマイクをどのようにして作るのか、どうすればより音が拡声していくのか、そのメカニズムを追究するのが科学の領域だとすれば、聖書はそのようなことは問題としていません。ここにマイクが用意されているのは、会堂の後方や二階にいる方たちにも、説教の声が聞こえるためであるというように、物事が存在する意味と目的を明らかにするのが聖書なのです。確かに進化論と聖書の創造物語は全く衝突しないわけではありませんが、それを言うならば、聖書に二つの創造物語が書かれてあることの矛盾を、先に解決せねばならなくなるでしょう。

 

存在を与える神さま

聖書で語られている神は「創造する」神であると言いましたが、「創造する」と訳されたヘブライ語は「バーラー」という言葉が使われています。これは「存在を与える」という意味の言葉であって、神さまが主語の時にしか使われていません。何か物を創作するとか組み立てるという場合には、「アーサー」という言葉が使われるのですが、1節で「バーラー」が使われているのは、神さまはすべてのものに「存在を与えるお方」だということが語られている。そのような信仰が言い表されていると考えてよいのです。神さまは、わたしたち自身も、自然や生き物すべてを必要なものとして、そこに存在すべきもの、意味あるものとして創造してくださったのです。余計な者、要らない人なんて誰一人いないのです。

わたしたちは「あんな人いなければよいのに」とか、「こんな自分なんて生きている必要があるのか」などと考えることがあるでしょう。しかし、必要のない人は一人もいません。わたしたちの周りにいる人たちの中には、苦手な人がいるかもしれないけれども、その方が自分のそばにいるということには、必ず意味があるのです。こういう子どもが自分に与えられたこと、こんな人が自分の親でなければと思うことがあるかも知れないけれども、この親がいなければ自分が存在しなかったように、大きな意味があるのです。

そのようなことは、科学では説明できないのです。確かに科学は、この世界がどのようにして成り立つのかを解明しようとしますが、その成り立ちに意味とか目的を問うことはないのです。偶然の積み重ねの結果から、何らかの法則を導き出すのが科学です。もし科学で生きる意味を問えるのだとすれば、科学者が信仰を求める必要があるでしょうか。科学的に問えば済むのですから。しかし、そのようなことはしないし、まさにその意味でも、聖書は非科学的だから信じられないと考えること自体が、おかしなことであることに気がつきます。 

 

光あれ

さて、神さまの最初の業として聖書が語るのは、神さまが「光あれ」と言われたことで「光」が与えられたということです。この光について、5節に「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」とありますので、この光は「太陽の光」として考えるのが自然のように思います。ところが、太陽や月と星の創造は、14節以下、第4の日の創造の業として出てきますので、自然の光ではないのです。ここでの「光」は、わたしたちが生きていくための根源的な力です。わたしたちの人生を導き、この世界が保たれるために必要な「光」を神さまは与えられたのです。

 この11年連続で、日本において一年に3万人以上の自殺者が出ています。それほど生きにくい時代です。実際に死ぬことがなくても、死のうと試みた人、一度でも死にたいと考えた人は、計り知れません。この世には闇があるからそう考えるのです。闇という言葉で象徴される、悪とか罪、悩み、病気、死、そのような力が私たちを覆います。わたしたちが闇に迷い込むことは、神さまの御心ではないのです。闇に迷うことなく、しっかりと立って歩めるようにと、神さまは世に光を与えてくださいました。すると「光」は与えられるものであって、わたしたちが自分で造りだせるものではないことが分かります。自分のやる気とか頑張りよって光を見出そうとしても、一時的なものであって限界が来るのです。光は神さまから与えられるものなのです。わたしたちに存在を与え、生きる意味と目的を与えてくださる神さまの光なる言葉が、わたしたちを命へと招いてくださるのです。

神さまが「良し」とされた光は、闇に対しての光であり、悪に対しての善であり、絶望に対しての希望、罪に対しての救いと言うこともできます。そして「わたしは世の光である」と証しされたイエス・キリストのことであると、言うこともできるでしょう。わたしたちを闇から光の世界へと移してくださるイエス・キリスト。この光によって、わたしたちは罪から救い出され、死から命へと導かれるのです。

 

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