礼拝説教要旨


2010年3月28日
世の初めの物語(7)「神さまに似ているなんて」 田口博之牧師
創世記1章26~31節



神のかたちとして
  天地創造の第六の日、人間の創造の二回目です。先月の礼拝では、人間の自然界に対する責任、特に生き物との関わりという視点を中心に学びました。今日は、26節、27節に「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」とありますが、「かたどり」「似せて」という言葉を中心に御言葉に聞きます。
  わたしたち人間が、神さまにかたどり、似せて造られたということは、コンプレックスを抱きがちな自分にとって、大いに慰めとなる言葉ではないでしょうか。人と比較をして、時に優越感を抱いたり、なんてダメなんだと落ち込んだりする。そんな自分でも神さまにかたどられていると知るとき、横を見るのでなく顔を上に向けることができます。わたし自身、自意識の強い人間だったと自覚していますので、救われた言葉の一つです。
  そうは言っても、皆が手放しで喜べるわけではないでしょう。一体、こんな自分のどこが神さまに似ていると言えるのか、そう考える方もいると思います。人間だけが、二本足で直立歩行できるからなのか、動物にはない感情や理性、人格があるからなのか。キリスト教会の歴史の中でも、「神のかたち」を巡って、さまざまな議論が繰り広げられてきました。「神のかたち」をとる人間とは、一体何者なのか。人間論を語るときに、神さまのかたちと人間とを切り離しては考えることはできないのです。

我々、男と女
  26節に興味深い言葉が出てきます。それは「我々に似せて」という言葉です。神さまはお一人のはずなのに、「我々」とはどういうことでしょうか。キリスト教は多神教だったのか?とも取られかねない言葉です。この問題に関して、色々な人が色々なことを言っています。すべてを語ることはできませんが、もっともキリスト教的な説明はと言えば、三位一体の神だから、という考え方です。世の初めから、イエス・キリストは言なる神として存在していました。創世記の冒頭にあるように、神の霊も混沌の時より存在していたことを考えると理屈は通ります。しかし、「我々」という言葉を説くのに、旧約聖書からそのまま見出すことのできない、三位一体論を持ちだすことには無理があります。
  わたしが、もっとも適切だと考えていることを言えば、神さまはここで、自問自答されるかのように、人間を造ろうと決断していることです。英語で「さあ、行こう」を、Let,s  Goという表現しますが、このときのLet,sは、Let usです。わたしたちも、一人で自問自答した上で重要なことを決断したときには、Let us 我々的な決断となる。神さまは、熟慮を重ねられた末、重大な決意をもって、人間を創造されたのです。
  また、人間の創造で特徴的なのが、27節の「男と女に創造された」という言葉です。ただし、これも誤解を生みやすいところで、「男と女に創造された」ということは、男の神と女の神がいて、だから「我々」ではないかという批判もされるのです。しかし、そうした批判は論外です。日本で男女平等がうたわれたのは戦後、日本国憲法が出来てからです。それでも男性本位の社会は続いていますが、今から2500年以上も昔に書かれた創造物語で、神にかたどって人間は創造された、その人間は男と女であったということは、ここですでに、男女平等がうたわれている、と考えることができるのです。数に加えられなかったような女性であっても「神に似せて」造られたというのですから。

交わりの存在
  そして、男と女に造られた人間とは何者か、と考えた時に見えてくる大切なことは、人間は一人では生きていけない、交わりを必要とする存在だということです。さらに、交わりを必要とする人間を、神の似姿という点からとらえていく時に、神さまも交わりを求めておられるお方であることが分かります。わたしたちが手にしている聖書も、人間に向かって語られた神の言葉なのです。わたしたちに、どれほど可愛がっているペットがいたとしても、聖書の言葉は伝わりません。神さまはわたしたち人間を、ご自分の言葉が届く存在として、古い流行歌にもありますが、「あなた」と呼べば、「あなた」と答える。「あなた」、「わたし」という交わりを持てる存在、通じあえる関係を求めて、人間を創造されたのです。わたしたちは、今もこの礼拝で、「あなた」に届けられる神さまの言葉を聞いて、わたしたちの造り主であり、わたしを生かして下さっている神さまに向かって感謝の賛美を献げるのです。祈りも、ひとり言ではなく、神さまとの呼吸のようなものです。
  人間が「男と女に造られた」ということも、人間は互いに交わりをもって生きる存在であることを証する、具体的なしるしとして考えることができます。人間の交わりは、男と女にとどまるものではないことは言うまでもありません。男子校でも女子校であっても、共学と変わらない豊かな交わりを育むことができます。私たちは様々な場面で、自分とは違う人との交わりを持ちつつ、生きて行くのです。

神さまを中心とした交わり
  「人」という字の形がそうであるように、人は一人ではなく、人と人とは支え合って生きて行くものです。「人間」という字も、まさに「人と人の間」で生きていくを表します。けれども、人間は孤独では生きられない一方で、人間の中で生きることの難しさを感じるのです。一人の方が気楽にストレスなく生きていける面があるのです。大学でも人間健康学部とか人間関係学科やなど「人間」という字がつくところが増えています。人として健やかに生きるための人間関係が、学問の分野に入ってきていることになるのでしょうか。
  人間が関係性、社会性を持つということは、とても大切なことですけれども、聖書は人間についてもう一つ進んだ見方をしています。聖書は、人と人との関係の中に、神さまの存在を見ていくのです。人間は、神にかたどって創造されたにも関わらず、罪に堕ちてしまったことで、神さまの声を聞くことなく生きていく者となりました。我と汝、あなた-わたしと、呼びかけあう関係を損なってしまったのです。罪によって、「あなた」と呼ぶ声を聞こうとしない人間に、神さまなしで生きていくようになってしまったから、この世の中の人と人との間に争いが起こるようになりました。
  神さまは、そのようなわたしたちを救うために、イエスさまをお送りくださったのです。しかもイエスさまは、人として来られました。インマヌエル、わたしたちと共に生きてくださるお方として、罪深い人間のただ中に来てくださったのです。このイエスさまを通して、わたしたちは神の愛を知ることができます。イエスさまを通して知った神さまの愛によって、わたしたちは神を愛することを知り、神が愛される隣人を愛することを知ります。
  先ほどの「人」という字に、十字架の「十」を重ね合わせると「木」という字になります。支えあうといっても、寄りかかっているだけでは倒れてしまうことがありますが、十字架の主がいてくだされば、人と人との結びつきはしっかりしたものとなります。教会の交わりは、イエスさまを中心にした交わりです。十字架のもとにある神さまの木・ぶどうの木にしっかり繋がっていくことで、人間はまことの人として「神のかたち」を回復することができる。神さまに「あなた」と呼ばれる同士が、「あなた」と呼び合う交わりに生かされ、言葉の通じ合う交わりの中を歩んでいくことができるのです。

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