礼拝説教要旨


2010年4月25日
世の初めの物語(8)「七日目の完成」 田口博之牧師
創世記1章31~2章4節a



完成の日はいつ?
  第一の日、「光あれ」の言葉によって、神さまは天地万物を創造されましたが、その中で繰り返し登場したのが「良しとされた」という言葉でした。そして131節には、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」とあります。造られた部分を一つずつ「良し」と確かめられた神さまは、最後にお造りになったすべてを振り返って「それは極めて良かった」と自答されたのです。
  21節に「天地万物は完成された。」とあります。聖書の章と節は、後の時代に付け加えられたものですので気付かないところですが、続けて読めば、第六の日に天地万物は完成されたと、読むことができます。ところが2節では、「第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、」とあります。これは矛盾ではないでしょうか。六日間かけて天地万物を創造され、最後に人間を創造されて全体をながめた神さまは、「極めて良かった」と満足なさった。そこで「完成された」のです。それなのに、「第七の日に、神はご自分の仕事を完成され」とはどういうことでしょう。完成したと思った後で、やり残した仕事があったことに気がつき、七日目に仕上げをしたということなら分かります。ところが、聖書はそうは言っていません。「第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。」とあります。第七の日には、神さまは仕事をなさらなかったのです。仕事を休んだことで、完成したということなのでしょうか。

わたしたちのための安息
 誤解してならないことは、神さまは六日間働き詰めに働いて、睡眠もとっていない。オーバーワークで疲れてしまったから、もう休もう!と思ったのではないということです。神さまはまどろむこともなく、眠ることもないお方です(詩編1214)。けれども、時を創造された神さまは、休みの日、「仕事を離れ、安息する日」そのような時を創造することを必要とされたのです。それは、「神さまが」ではなく「人間にとって」休むことが必要だからだと、考えることができます。
 もう一つは、「第七の日を神は祝福し、聖別された。」(3節)とあるとおり、神さまがこの日を祝福し、聖別されるためです。「聖別する」というのは「聖なるものとする」ということですが、神さまが「ご自分のものとする」ということです。それは子どもたちが、「このおもちゃは僕のもの」、「わたしのもの」と、自分のものにしようとすることとは違います。神さまは相手のために、ご自分が向き合う相手として造られた人間のために聖別するのです。私たちがよりよく生きていくために、神さまと特別に向き合える日を取り分けられたのです。ですから、安息の日は、自分の好き勝手に使う日とせずに、神さまを礼拝する日、神様との交わりに生きる日とするのです。神さまから愛されている、大切な存在として生かされていることを確かめて、神さまと向き合う日とするのです。それが聖別されたことの意味です。
  もう一つは「祝福」です。神さまの祝福というのはこれまでにも出てきましたが、それは命と深く関わっていることが分かります。神さまは、生きていくことを肯定されるのです。言いようのない苦しみにあっても「死んでもいい」とは言われません。祝福は命を与えること、「あなたは生きていい」「あなたに生きていてほしい」。これが神の祝福です。この祝福の御言葉が与えられているから、この世でどれほど辛いことがあっても、乗り越えていけるのです。
  そうすると、神が祝福し、聖別されて、創造の仕事を完成された第七の日というのは、体を休めるという肉体の安息に加えて、わたしたちが神さまに向き合うことで、尊い命をいただいていることを確かめる日、霊的な安息にあずかる日だと言えます。わたしたちが、霊肉ともに神さまの安息にあずかることができる第七の日が造られたことで、天地創造のお仕事が完成されたのです。この日がわたしたちのために備えられていることを知るならば、「礼拝なんて自分とは関係ない」などとは、言っておられなくなります。そして、第七の日については、第一から第六の日のように「夕べがあり、朝があった。」とは、語られません。すなわち、永遠につながる日なのです。

「終わりの日、目標の日」
  聖書で「完成」という言葉が使われるとき、そこには「終わり」とか、「目標」という意味があります。「目標」というとらえ方をすると、それまでの六日間は、第七の日を目標とした備えの日となります。スポーツでも、一生懸命に厳しい練習を重ねるのは、練習のための練習ではなく、試合を目標とするからでしょう。また、完成を「終わり」と考えた時、わたしたちの人生の終わりが死であったとするなら、それは祝福されているといえるでしょうか。私たちの一生は、死に向かっているのではなく、死の先にある命に向かって行くのです。永遠の命を望み見て、今を生きていくことができるとすれば、私たちはもう永遠の命の祝福に生かされていると言えるのです。
  信仰を持って生きている者と持っていない者の違いは、ゴール(終わり、目標)を明確にしているかどうか、だと言えます。豊かな望みを持つことができるなら、この世でどんなに辛いことがあっても、乗り越えることができるのです。ですから教会は永遠につながる日、イエス・キリストがよみがえられた週の始めの日曜日を、聖別し礼拝をするのです。この日は主の復活の日、命の光が差し込む日です。わたしたちの世界で死者がよみがえる、ということはありませんけれども、終わりの日に起こるのです。そのことを、イエスさまは二千年前に見せてくださっているのです。
  考えてみると、人間が創造されたのは第六の日でした。すると、人間が初めに迎えた日は、第七の安息の日だったことになります。人間は主の安息にあずかることから、一週を始めるのです。週の終わりの土曜日ではなく、週の初めの日曜日にスタートする。そこで神さまと向き合い、生きていく力が与えられて、一週間を始めていくのです。
  讃美歌206番、「七日の旅路」を歌いましたが、これは、月曜から土曜日の旅路の歌ではないかと、勘違いして捉えていたことがあります。しかし、そのように数えると日曜日は六日の旅路になってしまいます。この讃美歌は、日曜から始まる七日の旅路を守られ歩んだ者たちが、今日またここに集まり祈る日なのです。わたしたちは、そのようにして、生きていくのです。週の始めの日ごとに、神さまとも御言葉を聞き、神さまに祈り、神さまを賛美し、神さまと向き合う。そのようにして、神さまの安息にあずかる七日の旅路を重ねながら、完成の日に向かって生きていく。それがわたしたちの生き方だということが、七日目の創造の完成ということをとおして、告げられているのです。

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