礼拝説教要旨


2015年7月12日
日本基督教団信仰告白
(13) 「この変わらざる恵みのうちに」 田口博之牧師
エフェソの信徒への手紙2章1節〜10

 

 

@なぜ今、日本基督教団信仰告白か

日本基督教団信仰告白を主題とする宣教を続けていますが、なぜ礼拝で日本基督教団信仰告白を取り上げているのかをあらためて確認しておきたいと思います。一つには、わたしたちの信仰の教理的な骨格を固めておきたいという目的です。これを学ぶことをとおして、わたしたちは何を信じているのか、どのようにして救われたのかを確かめたいのです。それは求道中の方にも役立つことです。救いの確信がなければ、わたしたちの信仰はどこか宙に浮いたものとなってしまいます。喜んで信仰生活をし、喜んで伝道に励むためにも、また教会を造り上げていくためにも、日本基督教団信仰告白に言い表されている信仰に拠って立つということは、重要なことです。

もう一つは、わたしたちの教会がつながっている日本基督教団が、どのような信仰に立っているかを知ることにあります。日本基督教団は合同教団です。積極的な見方をすれば、神の奇しき摂理により、いくつかの教派が合同して成立したのですが、消極的な見方をすれば、戦時下に発令した宗教団体法により、国家権力によって合同させられた、そのような面があることは拭えません。教団成立を罪責ととらえる教会は、戦後まもなく教団を抜けて、旧教派に戻ったり、新しい教派を形成したりしました。戦後何年経っても、信仰告白を持てないことが大きな問題にもなってきました。

結局、日本基督教団信仰告白が成立したのは、1954年の教団総会、教団が設立して13年、戦後9年経ってからでした。時間はかかりましたけれども、日本基督教団信仰告白は、とてもすぐれた告白文になっています。教団に残ったどこの教派も受け入れることのできる幅の広さがあります。扇が左右にぐっと広がったような美しさがあるのです。その扇の要の役割を果たすのが、日本基督教団信仰告白なのです。幅の広い教団の多様性が、バラバラなものではなく豊かさとして一致していくためにも、とても重要な役割があるのです。とりわけ、「この変わらざる恵みのうちに」は、合同教会を形づくる上で、重要な一句になったといえます。

 

A罪の赦しの恵み

「日本基督教団信仰告白」が1954年に制定されるにあたり、起草の責任を担ったのは、北森嘉蔵先生でした。戦後すぐ30歳の若さで著した「神の痛みの神学」は、何か国語にも翻訳され、世界的に著名な神学者となりました。北森先生は、ご自身が著した『日本基督教団信仰告白解説』の中で、「教団の信仰告白の最も画期的な点は、赦しから潔めへの展開をつなぐ一句として『この変わらざる恵みのうちに』という言葉を入れたところにあるのであります。」と語っています。「赦しから潔めへ」とは、これまで用いてきた言葉で言い変えれば「義認から聖化へ」です。

一体、何が画期的なのかといえば、「救いの確かさはあくまでも罪の赦しにあることを明らかにする」ためであると語っています。潔めへと向かう前に、救いの確かさとは、罪の赦しである。このことを明らかにする必要があったというのです。

どういうことか、もう少し丁寧にひもといておくと、「この変わらざる恵みのうちに」の「恵み」とは、直接には「我らの罪を赦して義としたもう」を受けています。罪が赦され義とされた救いの恵みです。もう少し広げて、第3段落の「神は恵みをもてわれらを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ」すべてととらえることもできるでしょう。エフェソの信徒への手紙1章4節には、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」とあります。人間は変わりやすく、移ろいやすいものなのですが、わたしたちを選び、信仰を与え、罪を赦し義としてくださる神の恵みは、天地が造られる先より変わらざるものなのです。

 

B変わらざる「恵みのうちに」

今日はエフェソの信徒への手紙の第2章1節から10節を読みましたが、ここに恵みという言葉が繰り返し出てきます。5節では、「あなたがたの救われたのは恵みによるのです。」と、一人の人間の救いを「恵み」という言葉で言い表しています。7節には「こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。」とあります。

さらに8節から9節で、「事実あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは自らの力によるのでなく、神の賜物です。行いによるのではありません。」と語ります。先月学んだとおり、救いは信仰により、神からの恵みの賜物として与えられるのだと言うのです。

日本基督教団信仰告白は、救いの恵みを「この変わらざる恵みのうちに」と確かめた上で「聖霊は」と続けるのです。「聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したもう」と、「聖化」を語るのです。主語となるのは聖霊です。わたしたちのうちに潔めが起こるのは、わたしたちの努力ではなく聖霊によるのです。わたしたちが霊の果実を実らせるのでなく、聖霊が実らせてくださるのです。

「聖化」という言葉は、あまり語られないではないかと思われるかもしれません。理由は、聖化という言葉自体、聖書に出て来ない教理の言葉だからです。同じように、義認という言葉も説教で語ることは少ないでしょう。しかし、義認も聖化も、その内容からすれば、普段の礼拝でいつも語っていることなのです。しかも、どちらかに比重を置いて語っているのでもありません。また、義認から聖化へとステップアップするような捉え方もしていないのです。

ステップアップでなければ、どう捉えているのかといえば、「この変わらざる恵みのうちに」なのです。救いの恵みのうちに、「聖霊は我らを潔めて義の実を結ばしめ」と言い表されるように、聖化はあるのです。「うちに」あるからと言って、恵みと聖化は同じではなく区別されるべきものです。しかし、切り離すことはできないのです。したがって、恵みによって救われるのが第一段階であり、聖化へと向かうのが第二段階、ということではないのです。

 

C善い業を行って歩む者へと

北森先生は、「この変わらざる恵みのうちに」という言葉が入っていることによって、救いの確かさは聖化によって得られるのでなく、罪の赦しと義認によって与えられていることが確認されている。そのような趣旨の言葉を語っています。この表現は、「第二の恵み」としての聖化を強調するウェスレー的信仰の立場からすれば、不十分といえるでしょう。

しかし、「この変わらざる恵みのうちに」あるわたしたちの信仰生活は、おのずから感謝の生活に向かうのです。義認で完結することなく、聖化へと向かうベクトルを持っているのです。神と応答し、神の栄光を現せる生き方を求めてゆくようになるのです。

パウロは、エフェソの信徒への手紙2章9節で、「行いによるのではありません。」と語った後で、「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(10節)と語ります。行いによらないといいながら、善い業を行って歩むとは、不思議なように思えるかもしれません。しかし、10節で語られている「わたしたち」は、すでに神の恵みによって救われ、恵みのうちに歩む新しい人間を指しています。

他方、救われる前の古い人間はどうであったかといえば、2節で「過ちと罪を犯して歩んでいました。」と語られています。そのような人間が、イエス・キリストにより罪赦されたがゆえに、恵みに生きる者とされるのです。過去に歩んできた歩みとは変えられてしまうのです。救われたことのあまりの素晴らしさに「善い業を行って歩む」者とされるのです。

それは強いられた歩みではないのです。どこまでも救ってくださった神の恵みに生かされて歩むのです。キリストに罪赦され義とされた人は、新しく創造された者なのです。聖霊が「善い業を行って歩む」人生へと導いてくださるのです。

 

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