【ともしび】 「律法の完成者」
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
主イエスは17節で、律法や預言者を廃止するためではなく、律法を完成するために来たことを宣言しています。主イエスが語る律法とは、モーセの十戒を土台として定められた聖書の律法です。当時のユダヤ教では、このような聖書の律法を成文律法と呼び、口伝の律法と区別していました。口伝律法は、成文律法を時代や社会の変化の中で、どのように守っていくかを詳細に定めた規則ですが、成文律法と同じ権威を持ち、人々に負いきれない重荷となっていました。その結果、律法の本来の意義が見失われ、枝葉末節の規則を守ることにとらわれていたのです。
18節には、律法の不滅性が強調されています。モーセを通して律法を授けられたイスラエルの民は神の民とされますが、その後のイスラエルの歴史は律法を守ることができなかったことを物語っています。神は次々に預言者を遣わしますが、イスラエルの民は神に立ち帰ろうとしませんでした。神はイスラエルを見捨てることなく、メシア、救い主を遣わすことを約束します。主イエスは律法の完成者として、この神の救いの約束を実現するために来られたのです
20節には、主の弟子たちの義と、律法学者たちの義が比べられています。しかし、両者の義には根本的な違いがあります。弟子たちの義とは、主の十字架の贖いによって成就された義であり、罪の赦し、救いの恵みです。これに対して、律法学者たちの義とは、口伝立法の一つ一つの規則を守ることによって達成される義ですが、そこには本来の律法の意義が見失われていたのです。主の贖いによって実現された神の義、罪の赦しと救いの恵みにあずかるところに天の国の祝福があります。(1/31 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「わたしの愛する子」
「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(マタイによる福音書3章17節)
マタイによる福音書3章1節以下には、洗礼者ヨハネがユダヤの荒れ野で悔い改めの洗礼を宣べ伝えたことが記されています。これはイザヤの預言の成就であります。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」(3節)ヨハネは、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を受けることにより、神に立ち帰るように呼びかけたのです。
イエス様も多くの民衆と同様に、ヨハネから洗礼を受けるためにヨルダン川にやってきました。ところが、ヨハネはそれを思いとどまらせようとしたのです。実は、ヨハネは自分の後からもっと優れた方が来られ、自分はその履物を脱がせる値打ちもないこと、その方は聖霊と火で洗礼を授けることを示されていたのです。
ところが、イエス様はお答えになりました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(15節)本来、神の御子であるイエス様は、罪の赦しを得させる洗礼を受ける必要はないのです。それでもなお、ヨハネから水の洗礼を受けることが正しいこと、神の御心に適ったことだと言うのです。ここには救いの御子が、私たち罪人と同じところまで降りてきてくださり、罪人の一人として私たちと連帯して下さった救いの御心が示されています。ここに主の救いにあずかる洗礼の恵みがあります。
イエス様が水から上がられると、天が開いて神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になり、天から「わたしの愛する子」との声がありました。ここにはイエス様が神の愛する独り子であり、天の父の御心に適う者であることが宣言されています。私たちも主イエスを信じて洗礼を受けることにより、神の愛する子どもとされているのです。(1/10 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「神は我々と共におられる」
「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイによる福音書1章23節)
マタイによる福音書1章18節以下には、イエス・キリストの誕生の次第が記されています。マリアはヨセフと婚約していましたが、二人が一緒になる前にマリアが身重になっていることが明らかになりました。身に覚えのないヨセフは、マリアが不貞を犯したのではないかと疑いました。もしそうであれば、マリアは石打の刑と言う厳罰に処せられます。しかし、ヨセフは激情に駆られて事を荒立てるような人ではありませんでした。ヨセフは正しい人であり、ひそかにマリアを離縁しようと考えたのです。ここには、ヨセフがマリアとお腹の赤ちゃんの命を守ろうとしたことが示唆されています。
やがて、夢の中でヨセフに事の真相が明らかにされます。主の天使は、ヨセフに恐れずマリアを妻として迎えるように語りました。そして、マリアは聖霊によって身重になっていること、生まれてくる子をイエスと名づけること、イエスがイスラエルの民を罪から救い出す方であることを告げたのです。
救い主イエス・キリストの誕生は、イザヤの預言の成就であります。この預言は、紀元前734年に北イスラエルがアラムと同盟を結び、南ユダ王国に攻め寄せてこようとした国家存亡の危機に語られました。危機的な状況の中で与えられる救い、それは奇跡的な神の救いの御業に他なりません。この一年、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大に伴い、世界中が先の見えない不安と恐れに閉ざされてきました。このような暗黒の只中に、救い主イエス・キリストは希望の光として降誕されたのです。クリスマスは、神が我々と共にいてくださることを祝うときです。今も我々と共にいてくださる主を喜び、共に賛美しましょう。(12/20 クリスマス礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「預言者は故郷では敬われない」
「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである。」
イエス様は、ガリラヤのカファルナウムを拠点にして宣教を始めました。これはイザヤの預言の成就であります。「・・・異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(マタイ4:14−16)そのときから、イエス様は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17)と言って、福音を宣べ伝え始めました。
イエス様は、故郷のナザレに帰り、会堂で教えました。人々は、イエス様の教えに驚いて言いました。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。・・・」(55、56節)故郷の人たちは、イエス様を素直に信じることよりも、イエス様が教えや力をどこから得たのかを問題にしたのです。このように、人々はイエス様につまずきました。
ところで、聖書には偽の預言者も登場します。偽の預言者は王や民に忖度し、気に入られるような言葉を語りますが、真の預言者は王や民に対して厳しく悔い改めを迫り、時には王や民から反発や迫害を受けることもあります。故郷や家族の人たちにとって、イエス様は大工の息子であり、いわば肉親のような存在でした。たとえイエス様がどれだけ素晴らしい教えを語り、奇跡を行なったとしても、神から遣わされた預言者として受け入れ、信じることはできなかったのです。そこに人間の弱さや罪の問題があります。しかし、イエス様は愛する家族や故郷の人たちをも救うために十字架に命をささげられました。十字架と復活を通して、母や家族の人たちも悔い改めに導かれ、イエス様を救い主と心から信じて、信仰に生きる者に変えられていくのです。(12/6 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「復興の預言」
「・・・・わたしは彼らを羊のように囲いの中に 群れのように、牧場に導いてひとつにする。彼らは人々と共にざわめく。」
預言者ミカは、王国分裂の時代に、南王国ユダで預言活動をしました。小さな村出身の貧しい農民であったとも言われています。ミカの時代、アッシリヤ帝国という外敵の脅威にさらされていました。また、国内では貧富の差が広がる一方、指導者たちは不正や物欲に支配され、また偶像礼拝がはびこるといった状況でした。そのため、ミカは神様との契約に立ち帰れ、さもないと神様の審判による滅亡が迫っていると預言しました。実際、紀元前721年に北王国イスラエルは滅亡し、ユダ王国はアッシリヤの属国となりかろうじて存続しました。
さらにミカ書が今の形にまとめられたのは、ミカの活動から数世代を経た捕囚期以後です。2章12、13節は、そのような捕囚と国を奪われた民の不遇の時代が反映されています。ここでミカは、散らされた民への復興の希望を預言として語ります。「残りの民」とは、神の憐れみによって残された少数者を指します。主の憐れみによって、救いの希望が与えられた者たちです。散らされた羊を囲いに集め、守る羊飼いの姿は神様の救いのイメージです。新約聖書では、主イエスは「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。……こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(ヨハネ10:16)と言われます。
今年、世界中が、新型ウィルスの流行と言う予想もしなかった混乱の中にあります。聖書は必ず訪れる復興の時、希望の時を示しています。来週から、アドベントに入ります。希望のしるしとしてこの世に来られる主イエスをお迎えする準備の時です。その希望の光をこの世に向かって示すことが、教会に託された神の言葉ではないでしょうか。(11/22 主日礼拝宣教要旨 田中真希子牧師)
【ともしび】 「モーセのような預言者」
「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。」(申命記18章15節)
神はホレブ山の麓でモーセに呼びかけ、奴隷として苦役をなめていたイスラエルの民を乳と蜜の流れる約束の地カナンに導くように命じました(出3:6以下)。神はエジプト脱出を通して、イスラエルの民を苦難から解放するだけでなく、アブラハムと結んだ祝福の約束を実現しようとしたのです(創世記15章)。
聖書の預言者とは、将来起きることを予言する人ではなく、神の言葉を預かって、それを伝える者です。この意味で旧約聖書の最大の預言者はモーセです。彼はシナイ山で十戒を刻んだ石の板を神から授かり、イスラエルの民に神の律法を伝えました。モーセは、奴隷として苦役を課せられていたエジプトの国からイスラエルの民を解放し、約束の地カナンへと導きますが、それはモーセに特別の能力があったからではありません。むしろ、エジプト脱出と言う旧約聖書最大の神の救いの御業は、徹頭徹尾、神の言葉によって成就されたのです。そこに預言者としてのモーセの信仰があります。
ところで、エジプトからカナンまでは徒歩で二週間ですが、イスラエルの民は40年間、荒れ野を旅しました。それはイスラエルの民にとって、神の民となる訓練の時であったのです。エジプトから脱出した後、イスラエルの民は事あるごとにモーセにつぶやき、反逆を企てました。モーセは、その都度神の御心を聞きます。神とイスラエルの民の間に立ち、神の言葉を取り次いだモーセの中に苦難の預言者としての姿を示されます(出32:7−14)。そこには、民の罪を背負い、自らの命を犠牲にして救いの御業を成就された主イエスが証しされているのです。使徒ペトロは、主イエスこそ、モーセのような預言者であり、約束された救い主であることを説いています(使徒3:12以下)。(11/15 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「アブラハムの選び」
「あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」(創世記13章9節)
神との出会いは、私たちを新たな人生の旅立ちへと導きます。アブラハムは生まれ故郷、父の家を離れて神が示す地へ旅立ちました。その時、アブラハムは75歳、妻のサラとの間に子どもはなく、甥のロトを伴い、財産を携えて神の示すカナンの地へ向かったのです。
神を信じて旅立ったアブラハムの歩みは、必ずしも順風満帆ではありませんでした。創世記13章には、ロトとの別れが記されています。エジプトからカナン地方に戻ってきたアブラハムは、非常に多くの家畜や金銀を持っていました(1、2節)。ところが、財産が多くなるにつれて、双方の僕たちの間に争いが起こるようになり、もはや互いに行動を共にすることができなくなったのです。
人生の岐路に立って、アブラハムはロトに別れを提案し、ロトに選択の優先権を譲ります(9節)。ロトが選んだのは、よく潤っていたヨルダン川の流域の低地でした(10、11節)。そこには繁栄した町があり、豊かな土地がありました。これに対してアブラハムに残されたのはカナンの山地であります。この世の目から見れば、ロトの選んだ方が豊かな土地と映ります。しかし、実際はそうではなかったのです。この後ロトは天幕をソドムに移しますが、ソドムの町は道徳的に堕落し、遂には神の審判によって滅びるのです。ここに人の選びと神の選びの違いを示されます。人は目に見える繁栄や富を選びますが、それらの行きつく先は滅びであると言うことです。これに対して、神の選びは目に見えない祝福の約束に基づいているのです。そしてアブラハムを通して与えられた祝福の約束は、主イエス・キリストの十字架の贖いと復活の命の恵みによって成就されました。
【ともしび】 「信仰による義」
「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」
パウロは21節で、「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」と述べています。ここで「ところが今や」という言葉は、主キリストによってもたらされた救いの時の到来を告げています。人間の罪悪によって堕落した絶望的な世界の只中に、救いの光、希望の光として神の義がもたらされたのです。
「神の義」とは、神の一つの属性ではなくて、人間との正しい関係を表す言葉です。聖書によれば、神は人を神の似姿に造られました。神と人間の間には人格的な愛の関係が結ばれていたのです。しかし、人間は神との約束を破り、禁断の実を食べた結果、神と人間の関係は罪によって破綻しました。聖書が説いているのは、この人間の罪を神がどのようにして救われたかと言うことです。神は主キリストの十字架によって人類の罪を贖い、死の力に打ち勝って復活の命を賜りました。この主キリストの十字架と復活の福音こそ、神の義であります。この神の義は、ユダヤ人にもギリシャ人にも、信じる者すべてに分け隔てなく、しかも神の一方的な恵みとして無償で与えられるのです。
パウロは28節で、「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」と述べています。「人が義とされる」とは、正しい立派な人になることではありません。もしキリストを信じて正しい人にならねばならないとすれば、それはキリスト教の信仰ではありません。私たちが主キリストを信じるのは、死の恐れ、罪の重荷から救われるためです。私たちは主キリストの福音を信じることによって義とされ、神の救いの恵みを無償で賜るのです。(11/1 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「目標をめざして」
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」
パウロが12節で得ようとしているのは、キリストによって与えられる救いの恵みです。それを捕らえようとしているパウロは、自分がキリストに捕らえられていると語っています。捕らえようとしている者が、キリストに捕らえられているところにキリスト者の信仰生活の奥義があります。つまり、キリストの愛、聖霊に捕らえられているからこそ、天にある救いの恵みを得ようと祈り求めるのです。
パウロは13、14節で、「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」と勧めています。ここには、宣教者パウロのひたむきな信仰の姿勢が示されています。それは賞を得るために粉骨砕身の努力を払い、ゴールを目ざしてつんのめるようにして走る競技者の姿です。
実はパウロは生まれながらのユダヤ教のエリートであり、サラブレッドでした(フィリピ3:5、6)。ところが、パウロの人生はイエス様との出会いにより180度方向転換します。迫害のためにダマスコへ向かっていたパウロは、その途上、復活の主にとらえられ、信仰の目を開かれます。それまで金科玉条のように大切にしていた律法によっては神の義、神の救いの恵みを勝ち取ることはできないことを示されたのです。むしろ、それまで神の律法に反するとして迫害していたキリストの十字架と復活によって、神の義、救いの恵みが与えられることを確信し、福音の宣教者としての喜びに生きる者とされました。
【ともしび】 「神の富と知恵」
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」
パウロは11章25節で、「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。」と述べています。「秘められた計画」とは、まず神が祝福の約束の起点としてアブラハムとその子孫であるイスラエル人を選ばれたことです。次に、キリストを信じようとしないかたくななイスラエル人の代わりに異邦人に救いがもたらされたことです。しかし、異邦人全体に救いがもたらされたときには、全イスラエルが救われて神の救いが完成するのです。
パウロは33節で、神の富と知恵と知識の何と深いことかと、神をたたえています。山上の説教の中で、イエス様は、毎日の生活に思い悩む私たちに、空の鳥、野の花をよく見なさいと言われました。天の父は空の鳥を養い、栄華を極めたソロモン以上に野の花を装ってくださるのです。この世の富や栄華は、いつかは朽ちていくものであり、なくなっていきます。しかし、神の国の富は無限大であり、無尽蔵であります。
パウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Tコリント1:18)と述べています。つまり、十字架の言葉は神の知恵であり、神の力であると言うことです。私たちは神を見ることはできませんが、主イエス・キリストを通して神の愛、その恵みの豊かさを示されます。主キリストは十字架にご自身を捧げることにより、私たち人類の罪の一切を贖ってくださいました。それは信じようとしない者には愚かなことですが、救われる者にとっては神の知恵であり神の力であります。
【ともしび】 「キリストの愛を知る」
「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェソの信徒への手紙3章18,19節)
エフェソ3章14〜21節は、パウロがエフェソの教会の信徒たちのことを思って祈る執り成しの祈りです。内容は、大きく2つに分けることができます。16節、17節と18節、19節です。16節から17節では、「内なる人」が神の霊によって強められるようにとの祈りです。「内なる人」とは、キリストの十字架の救いにあずかり新しくされた人ということです。罪赦され新しい命を頂いたエフェソの人たちが、聖霊を与えられさらに力強くされるよう祈っています。力強くなるとは、信仰によって心の内にキリストを住まわせ、愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者になるということです。
次にパウロは、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」を理解し、「人の知識をはるかに超えるこの愛」を知るようにと祈ります。「広さ、長さ、高さ、深さ」とは天地すべての空間を指しています。それは、人間の知恵によって測ることのできないものです。キリストの愛は、そのように「人の知識をはるかに超える愛」なのです。
その愛は、御子キリストをこの世に贈り、すべての人を罪による滅びから救おうとされた神様の救いの御業によって、私たちすべての人々に注がれているのです。私たちが、その愛の豊かさにあずかるには、御子キリストによる救いの業が、自分のためであることを知り、受け入れることによるのです。その時、私たちはキリストの愛の大きさを知ることができるのです。パウロは、すべての人々がその愛に気づいて欲しいと祈っているのです。
【ともしび】 「神の僕として生きよ」
「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。」
ペトロは11節で、「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」と勧めています。キリスト者にとって人生は旅であり、この世はあくまでも仮住まいの身であるということです。神の約束を信じて、行く先を知らないで旅立った信仰の父アブラハムを覚えます。また、詩編90編のモーセの祈りの言葉が心に響きます。モーセの祈りは、私たちの人生の旅路を導き、私たちの生死を御手におさめている創造主である神への信仰を告げています。
ペトロは12節で、「また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」と勧めています。異教社会の中で立派な生活をすることは、善良な市民として生きることです。これは初代教会の大切な教えです。宣教の開始以来、キリスト教に対して様々な偏見や中傷が後を絶ちませんでした。厳しい迫害や困難の中で使徒たちを支えた信仰は、「訪れの日」の希望です。「訪れの日」とは、神が歴史に介入するキリストの再臨の日です。その日には、異教徒もキリスト者の立派な生活をよく見て、神を賛美するようになるのです。
ペトロは16節でキリスト者の自由を説いています。それはキリストの十字架によって贖い取られた自由です。キリストは、私たちを罪と死の奴隷から解放してくださいました。この自由は、政治的な制度に従うことによって失われるものではありません。むしろ、愛による奉仕へと導きます。自由は神の救いの賜物であり、神の僕として生きる道を備えます。(9/20 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「わたしたちは知っています」
「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」
ヨハネは14節で、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」と勧めています。イエス様は私たちの救いのために十字架にご自身をささげられました。イエス様こそ、何にも代えがたい神の救いの賜物です。救い主イエス様を賜った神が、どうして私たちの願いを聞いてくださらないことがありましょうか。私たちは、祈りの最後を、「主イエスの名によって祈ります」と結びます。イエス様が、私たちの願いや祈りを天の父にとりなしてくださるのです。
ヨハネは16節で、「死に至らない罪」と「死に至る罪」について教えます。「死に至らない罪」とは、私たちが日々の信仰生活の中で陥る罪です。罪とは的外れの意味ですが、どれだけ努力し、注意を払っても、私たちは罪に足を取られてしまいます。それゆえヨハネはキリストに結ばれた兄弟姉妹として、互いにとりなしの祈りをするように教えているのです。これに対して、「死に至る罪」とは主の十字架と復活を通して成就された神の救いを否定することです。これは、自ら命の道を否定し、結果的に死に至るのです。
ところで、18節の「神から生まれた人」とはイエス様をメシアと信じた人であり、「神からお生まれになった方」とは御子キリストであります。「罪を犯しません」とは、イエス様が神の御子であることを否定しないと言うことです。なぜなら、すべて神から生まれ、神の子とされた者は、御子イエス・キリストに結ばれ一つにされているのです。たとえ悪い者がやってきて、御子キリストから引き離そうとしても、御子キリストが守ってくださるのです。ここに信仰の真理があります。(9/13 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「時をよく用いなさい」
「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」(エフェソ5章18、19節)
パウロは15節で、「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。」と勧めています。パウロが語る賢い者とは、主イエスに結ばれた人であり、光の子とされた人であります。5章8節には、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」とあります。主に出会うまでの私たちは罪と悪に満ちた暗闇の中を歩んでいました。そこには先の見えない不安や恐れ、明るい希望のない空しさが満ちています。しかし、主イエスに結ばれることにより、私たちの人生は闇から光へと導かれるのです。
パウロは16節で、「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。」と勧めています。ここで用いられている「時」とは、繰り返される通時的な「時」ではありません。キリストの十字架の愛によって贖い取られた一回限りの恵みの時であります。「時をよく用いなさい」とは、ギリシャ語では時を贖いなさい、買い取りなさいと言う意味です。つまり、私たちの罪を贖うために十字架に命をささげられた主キリストの御心に適うように時を用いるということです。
詩編102編19節には次のように在ります。「後の世代のために、このことは書き記されねばならない。主を賛美するために民は創造された。」ここには神の民とされた私たちの人生の目的が告げられています。それは主を賛美することです。私たちは、時には主を忘れ、主の御言葉に背いてしまいます。しかし、そのような私たちを、主イエスは恵みの座に、主の日の礼拝に招いてくださるのです。主を賛美すること、それは礼拝であります。つまり、主を礼拝するために私たちは創造されたのです。教会は礼拝共同体であり、賛美の共同体であります。(9/6 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「主の晩餐」
「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」
コリントの教会の集会には、パウロにとって看過できない問題がありました。裕福な人たちが各自持ち寄った食べ物を自分たちだけでたいらげてしまい、貧しい人たちが集まってきたときには酔っぱらい、主の晩餐を守ることができなかったのです。日々の食べ物にも事欠くような貧しい人たちにとっては、集会で食べ物を分かちあうことは神の愛の証しでありました。ところが、集会に行っても食べ物はなく、主の晩餐を守ることも出来ず、空腹を抱えて惨めな思いをしていたのです。そこには真実な礼拝はなく、主の晩餐の本当の意義が見失われていました。
パウロは23節で、「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。」と語り、主の晩餐の意義を明らかにしています。主の晩餐は、何よりも主イエスご自身によって制定されたものであり、弟子たちや初代教会が作りだした儀式ではありません。主の晩餐において、パンはキリストの体、杯はキリストの血潮をあらわします(23−25節)。すなわち、主イエス・キリストの十字架の贖いの死を通して新しい契約が立てられたのです。それは神の無償の愛であり、赦しの恵みであります。私たちは主の晩餐を通して、現臨される主の赦しと恵みにあずかるのです。
ところで、説教は十字架と復活の救いの恵みを説き明かしますが、それを具現化しているのが聖餐であります。つまり、説教によって語られた神の言葉、救いの出来事を、聖餐を通して目に見える仕方で体験し、主の救いの恵みを味わうのです。代々の教会につながる桜山教会も、聖餐を通して主の死と復活を告げる聖餐共同体として歩んできました。(8/9 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「破局からの救い」
「こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。」(使徒言行録27章35節)
ユダヤ人たちの陰謀によって捕えられ、裁判にかけられたパウロは、ローマ皇帝に上訴し、囚人としてローマへ護送されることになりました。しかし、その途上、乗っていた船が暴風雨に巻き込まれ、助かる望みも失われたかに見えました。その中で、ただ一人希望を失わなかったのがパウロです。彼は船の人々を励まし、神に祈り、共に食事をすることにより生きる希望を与えたのです。
パウロは伝道の中で出会った試練や困難について、次のように記しています。「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。」(2コリント11:24−25)様々な試練や迫害の中で、パウロの伝道の旅を導いていたのは主イエスご自身でした。パウロはキリストの愛に導かれて、ひとつひとつの危機から救われたのです。
ところで、聖書にはノアの箱舟、暴風雨の海に投げ込まれたヨナのお話など、舟に関わる物語が少なくありません。イエス様も伝道活動の中で舟を用いました。突風のために沈みそうになって大騒ぎをしている弟子たちには、舟の艫で眠っているイエス様のことがすっかり忘れられていました。否、むしろ眠っていたのはイエス様ではなくて、弟子たちの信仰ではなかったでしょうか。イエス様は、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と問われました(ルカ8:25)。逆風に漕ぎ悩む弟子たちは、イエス様を舟に迎えることにより救われたのです(マルコ6:51)。絶望的な嵐の中で、パウロが教えているのはともにいます御子イエス様です。まさに破局的な状況からの救いは、御子イエス様を私たちの心にお迎えし、私たちの教会に迎え入れるところにあるのです。(7/26 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「パウロの弁明」
「しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。」(使徒言行録24章14節)
使徒言行録24章は、ユダヤ教の大祭司たちに訴えられたパウロが、カイサリアにおいてローマのユダヤ総督の前で裁判を受ける場面です。大祭司たちの告発は2つの事柄です。第一に彼が世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしているということです。パウロが、ローマ帝国の支配地であるユダヤ、小アジア、ギリシャに住むユダヤ人たちにイエス・キリストを宣べ伝えていることを指しています。彼がローマ帝国にとっても危険人物であると訴えたのです。第二にパウロが「ナザレ人の分派」の一味だという訴えです。それは、ナザレ人イエス様こそ救い主・キリストと信じるキリスト教会のことです。ローマ帝国も認めるユダヤ教ではなく、ローマ帝国によって十字架にかけられた人物を信じる危険な教えをひろめているとの訴えです。
これらの告発に対するパウロの弁明は、エルサレムで自分が騒動を起こすのを見た者はいないはずだし、証拠もないときっぱり否定します。しかし、信仰の問題については、自分が信じているのは、彼らが『分派』と呼んでいるこの道だと認めます。しかしけっして新しい別の神様を信じているのではなく、同じ天地を創造された唯一の神様を信じ、「律法」や「預言書」も大切にしていることを主張します。彼は、自分の信仰についてはたとえ不利になっても、自分に新しい命を与えて下さったイエス様の福音をしっかりと証ししています。パウロの力強い弁明は、この後の福音宣教の大きなステップになりました。
神様は、私たちの日々の信仰の証しを用いて下さり、主の御業の計画を進めて下さるのではないでしょうか。
(7/19 主日礼拝宣教要旨 田中真希子牧師)
【ともしび】 「キリストはわたしたちの平和」
「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」
エフェソの教会は、パウロたちの伝道によって教会の土台が据えられ、小アジアの宣教の拠点として大切な役割を果たしました(使徒19章)。パウロとエフェソの教会は深い信頼関係で結ばれ、ミレトスにおける訣別の説教にはエフェソの教会と長老たちに対するパウロの深い愛と万感の思いが込められています(使徒20:17以下)。
パウロは11節で、「あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。」と記しています。エフェソの教会には多くの異邦人がいて、ユダヤ人と異邦人が一つの教会を形成することが問題となっていたのです。ユダヤ人は律法の規定により異邦人との交わりを一切禁じられていました。両者の間には割礼や律法と言う乗り越えられない巨大な障壁があると考えられていたのです。
パウロは14節で、「実に、キリストはわたしたちの平和であります」と宣言しています。私たちはこの御言葉に差別や憎しみを越えて、互いに一つになる道を示されます。差別や憎しみの根っこにあるのは、人間の罪の問題です。キリストは、十字架によって敵意と罪を滅ぼし、二つの者を一つにしたのです。十字架の主イエス・キリストを仰ぐところに、和解と平和の道が備えられるのです。
15、16節には、キリストの体としての教会が示唆されています。教会は民族や人種の違いを越えて、老若男女の別なく、キリストを信じるすべての人が集う神の家族であります。キリストの体である教会は十字架の愛に結ばれた贖いの共同体であり、和解の共同体でもあります。(7/5 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「御国を受ける」
「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。」
「御国」とは神様が臨在される場所と考えることができます。
18節から24節では、神様が臨在された場所としてのシナイ山とシオンの山が比較されています。イスラエルの民が神様から律法を授かった場所シナイ山は、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」(出19:13)ほど恐ろしい光景で、モーセですら「わたしはおびえ、震えている」(申9:19)とあります。「律法」は、人間が罪深く自分の力では神に従えないことを自覚させるために与えられたのです。
一方で、あなたがたが近づいたのは、シナイ山ではなくシオンの山であることが語られます。シオンとは、エルサレムの別名で、神の臨在を象徴する「天のエルサレム」つまり「神の御国」のことです。その御国は、近づくことのできない恐ろしい場所ではありません。そこは、「無数の天使たちの祝いの集まり」であり、天に登録されている信仰の先達たち、そして私たちと神様の仲介者であるイエス・キリストがおられる所です。22節の「あなたがたが近づいた」という言葉は、完了形ですでに起こった決定的なことを意味しています。つまり、イエス様の十字架のあがないを信じるものにとって、すでに御国は約束されたところなのです。それが、神様の愛による新しい契約です。
まだこの地上で、悩みや苦しみ、困難のなかに生きる私たちにも、御国はすでに約束され、近くにあるのです。この約束を確認するために、日々主の祈りで「み国を来たらせたまえ、みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と私たちは祈るのです。
【ともしび】 「反キリストを問う」
「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。」(ヨハネの手紙一 2章22節)
ヨハネは18節で「子供たちよ、終わりの時が来ています。」と呼びかけています。「終わりの時」とは、この世界の終焉ではなく、神の救いが完成する時であります。つまり、反キリストの教えに終止符が打たれ、神の救いが成就する新しい時が到来するのです。
ヨハネの教会で問題になっていた反キリストは、ギリシャ語でアンチ・キリストと言います。アンチには二つの意味があります。ひとつは、公然とキリストに敵対することです。もうひとつは、教会の中で狡猾にキリストの地位を乗っ取ろうとする偽教師の出現です。イエス様も、このような偽教師が現れることを教えています(マルコ13:6)。また、パウロはエフェソの長老たちへの訣別の説教の中で、反キリストが現れることを警告しています(使徒20:29、30)。
イエス様と神は御子と御父という絶対無比の関係で結ばれています。父なる神と御子イエスは一体であり、イエス様を信じる者は父なる神を信じるのです。これに対して、イエス様がメシアであることを否定する者たちは偽り者であると厳しく断じています。彼らはこの世界や物質を悪とみなし、霊魂だけを善と考えました。そのためにイエス様の肉体や人間性を悪とみなし否定したのです。彼らにとって大切なのはキリストの霊だけであり、イエス様の受肉を否定し、イエス様がメシアであることも否定したのです。
ヨハネは24節で、「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。」とキリストの福音にとどまることを勧めています。それを可能にするのは御子によって注がれる油、すなわち聖霊であります(27節)。聖霊は私たちを偽りの教えから守り、福音の真理に生きる者とするのです。(6/21 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「香油を注がれた主」
「イエスは言われた。『この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。』」
ヨハネ福音書11章では、イエス様が病気で死んだラザロを生きかえらせる奇跡が語られています。12章1節からは、そのラザロと姉妹のマルタ、マリアの家での話です。ラザロはイエス様たちと食事をし、マルタは給仕をしています。そして、マリアは純粋で非常に高価なナルドの香油をイエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。マリアの行動は、まわりの人たちを驚かせます。しかし、イエス様は「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」と言われます。当時、葬りのとき遺体に香油をかける習慣があったようです。また、救い主を指す「メシア」という言葉は、「油注がれた者」という意味です。
11章で、イエス様は、マルタに「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(11:25、26)と問いかけます。マルタはすぐに、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と答えました。マルタは、言葉ではっきりとイエス様をメシアであると信仰告白をしたのです。一方マリアは、行いによって「この方こそメシアである」と、告白したのではないでしょうか。彼女たちは、イエス様をメシアと告白し、最後まで従いました。イエス様の生涯、十字架、復活に向き合った多くの女性たちを代表しているのです。
ご自分の命を十字架で捧げて下さったイエス様に、マリアは香りに満ちた香油をささげました。私たちは、何を捧げることができるのか、考えつつこのレントの時を歩みたいと思います。
【ともしび】 「永遠の命の言葉」
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」(ヨハネによる福音書6章68節)
ヨハネ福音書6章60節以下には、多くの弟子たちがイエス様に躓いて去って行ったとあります。なぜでしょうか。そこには異教のローマ帝国の過酷な圧政からの救いを熱望する人々に対して、自分はそのような政治的メシアではないとのイエス様の御心が示されています。ご自分を天から降った命のパンであると語り、イエス様の肉を食べ、血を飲む者は永遠の命を得ることができるとの言葉は、ユダヤ人たちの間に激論を引き起こし、到底理解できないひどい話と思われました。イエス様の言葉の背後には、初代教会の聖餐式が考えられます。つまり、聖餐のパンは十字架で裂かれたイエス様の御体、杯は十字架で流された血潮を表します。聖餐にあずかることにより、十字架の罪の贖いと永遠の命の救いが与えられるのです。
弟子たちの多くが去っていく中で、残されたのはイエス様が選ばれた12弟子だけになりました。イエス様は、「あなたがたも離れて行きたいか」(67節)と問われました。ペトロは弟子たちを代表して、イエス様こそ永遠の命の言葉を持つ方であり、神の聖者であると信仰告白をしたのです。ここには、どんなことがあってもイエス様に従っていくとの決意と覚悟が込められています。しかし、ペトロの信仰告白は単に自分の意思や決意を表したものではありません。むしろ、ペトロを信仰告白に導いたのはイエス様の選びの恵みの賜物であり、それは神のみ業でありました。
ペトロの信仰告白の後、イエス様は12人の1人が悪魔であり、イエス様を裏切ることを告げます。裏切り者のユダを、なぜイエス様は選ばれたのか。そこには人間の浅はかな思いを越えた神の救いのみ業、十字架の贖いによって成就される救いの計画が示されているのです。 (3/15 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「ファリサイ派の人々の罪」
「イエスは言われた。『見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。』」(ヨハネによる福音書9章41節)
ヨハネによる福音書9章には生まれつき目の見えない人が、イエス様によっていやされた物語が記されています。ところが、この人を待っていたのは見えない時よりも過酷な現実でした。周囲の物見高い視線にさらされ、ユダヤ当局から厳しい取り調べを受けることになりました。いやしの業が安息日に行なわれたからです。この人は親からも見放され、イエス様を神のもとから来られた方であると言ったために、会堂から追放されたのです。
イエス様は、外へ追い出された人と出会い、「あなたは人の子を信じるか」(35節)と問いました。「人の子」とは来るべきメシアを意味します。目の前にいるイエス様がその方であることを知った時、この人は「主よ、信じます」(38節)とひざまずいて礼拝しました。イエス様が語られた「神の業」(9:3)とは、ただ目が見えるようになることではありません。主イエスを信じ、「霊と真理」(4:23)をもって真の礼拝をする者とされることです。
イエス様は39節で、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」と言われました。イエス様が裁くために来たと言うことは意地悪をするためではありません。むしろ永遠の命を与えるために来られたイエス様を信じない者は、結果的に自分に裁きを招くことを意味するのです。ファリサイ派の人々は見えると言い張り、自分たちは神の言葉を守り、神の前に正しい者だと自負していました。そこには自らの弱さや罪を謙虚に認める心がありませんでした。彼らには自分の罪を悔い改めて、神のゆるしを求める信仰がなかったのです。(3/8 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「五つのパンと二匹の魚」
「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」(ヨハネによる福音書6章11節)
イエス様は、荒れ野の誘惑で「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と悪魔の誘惑を退けられました(マタイ4・4)。この言葉は、申命記8章3節の神様の教えの引用です。聖書は人が生きるためには、神様の言葉が何より大切であると教えます。同時に神様は主の祈りで、「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と教え、命に必要な糧を得るためにも配慮されます。
この奇跡物語は、イエス様のこのような人々の命への配慮から始まります。弟子たちは5千人(男性のみ)の人々に食べ物を与えるように言われたとき、とうてい不可能だと考えました。しかし、主は少年の持っていた「パン5つと魚2匹」で、すべての人を満足させたのです。何が起こったのか、誰にもわかりません。少年だけでなく、人々が次々に食べ物を差し出して分け合ったと説明されることもあります。確かに、「分かち合う、助け合う」、「共に生きる」は、教会の大切な姿勢です。だとしても、人の力には限界があります。
弟子たちは、後にこのイエス様の奇跡の大切な意味を知ります。主は「わたしが命のパンである。」(6・36)と言われます。イエス様こそが、神様から与えられた「命のパン」なのです。このことを信じる者は、神の民として心身ともに満たされ、恵みの内に生きることができるのです。イエス様は、命のパンとしてのご自分を人々に分け与えられ、その恵みは地域や時を越えて、すべての人が分かち合うことのできるものとなりました。弟子たちは主の十字架と復活を体験した後にその意味を知ります。「命のパン」として私たちを養って下さる主の恵みを多くの人と分かち合うこと、それが教会に託された大切な宣教の業なのです。(2/23 主日礼拝宣教要旨 田中真希子牧師)
【ともしび】 「真理はあなたたちを自由にする」
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
(ヨハネによる福音書8章32節)
イエス様は御自分を信じたユダヤ人たちに、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」(32節)と言われました。イエス様の言葉とは、神の国の福音であり、イエス様のご生涯、十字架と復活によって成就された救いの出来事です。イエス様の言葉にとどまることは、イエス様との人格的な愛の交わりに生きることを意味します。毎日聖書を読むこと、祈ること、神を賛美することも御言葉にとどまることです。私たちは、主日の礼拝で、愛する兄弟姉妹と共に信仰告白を唱えます。これは私たちが救い主イエス様の言葉にとどまり、本当の弟子であることを証しているのです。
今、世界を支配しているのは巨大なIT企業と言われ、将来はAIと呼ばれる人工知能が社会の様々な分野に進出すると予想されます。確かに科学技術の進歩により私たちは多くの自由を獲得しましたが、同時にもろ刃の剣として様々な問題の原因にもなっています。そこには人間を隷属させる罪の闇があります。イエス様が教える真理とは、十字架と復活によって成就された神の救いの恵みであります。それゆえ、真理を知るとは客観的、知的な知り方ではなく、神の御子イエス様との愛の交わりを意味するのです。私たちは神の御子イエス様の御言葉にとどまり、救いの御子との交わりを通して、罪をゆるされ、この世の支配と縄目から解き放たれて真の自由をあたえられるのです。
ユダヤ人たちは、自分たちがアブラハムの子孫であり、誰の奴隷でもないと反論しました。しかし、イエス様は、「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(34節)と語り、神の御子であるイエス様が私たちを罪から自由にすると教えました。それは、私たちを根本から束縛している罪の支配から解き放ち、主の愛に生きる者とすることです。(2/9 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「わたしの父の家」
「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネによる福音書2章14節)
ユダヤの最大の祝祭である過越祭に事件は起こりました。イエス様が神殿の境内で両替をしている人たちの台をひっくり返し、縄の鞭で犠牲の牛や羊を境内から追い出したのです。境内は大混乱です。ここには父なる神の家としての神殿に対する熱い思いとともに、その神殿を商売の家としている人間の欲望と罪に対するイエス様の断固とした厳しい姿勢が示されています。
ところで宮清めと呼ばれるイエス様の行為は、ユダヤの当局者たちにとって決して看過できることではありませんでした。なぜなら、神殿の秩序を乱し、神殿を牛耳っていた大祭司たちの権威を失墜させたからです。実は、イエス様の宮清めは自分をメシアと称するほどの大変な行為でした。そこでユダヤの当局者たちは、このようなことを行なうからにはと、神からのしるしを求めたのです。しかし、人々はしるしや奇跡を見ながら、最後にはイエス様を裏切り、見捨てて逃げて行きました。そして十字架につけられたイエス様を嘲弄し、十字架から降りて来たら信じようと言ったのです(マルコ15:29以下)。これに対して、パウロは、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」(1コリント1:22、23)と、福音の真理を教えています。
イエス様は19節で、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と言われました。この言葉は、神聖な神殿を冒涜する罪として、イエス様を死へ追いやる原因になりました。しかし、この言葉はイエス様の十字架と復活によって新しく立てられるご自分の体を証しているのです。つまり、イエス様の十字架の贖いにより、もはや神殿で不完全な犠牲をささげる必要はなくなったのです。神はイエス様の十字架の犠牲により、私たちの罪を完全かつ永遠に贖ってくださいました。それは神の無償の愛による一方的な救いの恵みです。(2/2 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「カナでの婚礼」
「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。」(ヨハネによる福音書2章11節)
ヨハネによる福音書2章1、2節には、ガリラヤのカナで婚礼があり、イエス様の母、そしてイエス様と弟子たちも招かれたとあります。カナは、イエス様が育たれたナザレの北方にある小さな村です。聖書の時代、婚礼は村の共同体の一大イベントであり、婚礼の宴会は一週間にわたって盛大に行われました。聖書には神とイスラエルの関係が婚姻にたとえられ、メシアの到来の喜びが婚礼の宴会にたとえられています。イエス様が、カナでの婚礼で最初のしるしを行なわれたことは、メシアの時代の到来の喜びを証ししているのです。
ところで、宴会のブドウ酒が足りなくなったことを母から告げられた時、イエス様は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。」(4節)と答えました。これは冷ややかで、突き放した言葉に聞こえますが、必ずしもそうではありません。むしろ、ブドウ酒のことは、イエス様自身の自由な意思で何とかするので心配する必要はないことを語っているのです。
ユダヤ人が清めに用いる水がぶドウ酒に変えられたことは、ユダヤ教に代わる新しいメシアの時代の到来を示しています。旧約聖書では、神とイスラエルが夫婦の関係にたとえられ、神に背き、神から離れて行ったイスラエルに対して、主に立ち帰るように教えています(エレミヤ3:1以下)。イエスさまも、断食についての問答の中で、自分を花婿にたとえ、自分の宣教活動をメシアの時代の婚礼にたとえています(マルコ2:18以下)。イエス様が水をブドウ酒に変えられたことは、イエス様の宣教を通して、今や喜びのメシアの時代が始まったことを表しているのです。そして4節で「わたしの時はまだ来ていません。」と言われたように、イエス様の救いが成就するのは十字架と復活の時であります。(1/26 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「最初の弟子たち」
「彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、『わたしたちはメシア――“油を注がれた者”という意味――に出会った』と言った。」
1章35〜51節には、イエス様の最初の弟子となった5人の話がでてきます。 初めに、洗礼者ヨハネの弟子二人が従います。そのうち一人がアンデレです。もう一人は名前が書かれていません。アンデレは「わたしたちはメシアに出会った」と、自分の兄弟のシモンに伝え、さらに彼をイエス様のところに連れて行きます。イエス様は、シモンに「岩」という意味の「ケファ(ギリシャ語でペトロ)」と名付けます。将来、教会の土台を担う彼の働きを暗示すると言われています。続いてイエス様は、ガリラヤに行く途中で、フィリポに「わたしに従いなさい」と声をかけ、彼は従いました。フィリポはナタナエルに、「モーセの律法と預言者が記している方」つまり「救い主」に出会ったと告げます。そして、ナタナエルをイエス様のところに連れていきます。彼にイエス様は、「偉大なことをあなたは見ることになる。」と言われました。
この5人はそれぞれにイエス様と出会いました。その出会いは特別なものでした。人生の進むべき方向を一瞬にして変えてしまう決定的な出会でした。彼らは、メシア・神の子と信じるにたるお方と出会ったのです。そして、彼らの「イエス様こそ救い主」という率直な告白の言葉が、次の人を動かしていきます。しかし、イエス様は彼らが自分のところに来る前から、すでにご存知で、「私のもとに来なさい。」と招いて下さっているのです。今に至るまで、このイエス様の招きに応えて歩んだ多くの信仰者がいます。その人たちの信仰の声が、私たちをイエス様の所へと導いてくれるのです。私たちも主の招きに応じ、「救い主に出会った」と家族や隣人に伝えることができたらと願っています。(1/19 主日礼拝宣教要旨 田中真希子牧師)
【ともしび】 「見よ、神の小羊」
「『その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』」
(ヨハネによる福音書1章29節)
ヨハネによる福音書1章29節以下には、洗礼者ヨハネの証言が記されています。彼は、イエス様を指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました。彼は、来るべきメシアの道を備える役割を担い、荒れ野で呼ばわる声に徹しました。迫り来る神の怒りを語り、悔い改めにふさわしい実を結ぶように罪の赦しを得させる悔い改めのバプテスマを宣べ伝えたのです。証言とは自分の信仰を自慢することではなくて、神の赦しと恵みを語ることです。
かつてイスラエルの民は、エジプトで奴隷の苦役をなめていました。神はモーセを遣わしてイスラエルの民を奴隷の地から解放します。その時、神の使いがエジプトの国のすべての初子を撃ちましたが、イスラエルの家は鴨居と入口の二本の柱に塗られた小羊の血を見て過ぎ越されました。その後、エジプトを脱出したイスラエルの民は、神の救いの恵みを記念して過越しの祭を祝うようになります。過越しの祭に犠牲としてささげられる小羊は、神の民であるイスラエルを奴隷の苦役から贖われた神の救いの恵みを証ししているのです。ヨハネは、イエス様を過ぎ越しの小羊にたとえました。つまり、イエス様は、世の罪を取り除く神の小羊としてご自身の命を十字架にささげたのです。
ヨハネは、イエス様が神の子であり、聖霊によって洗礼を授ける方であると語っています(33、34節)。ヨハネが授ける水の洗礼は罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼ですが、イエス様が授ける聖霊の洗礼とは、神の愛を授けることです。聖霊の洗礼を授けられることにより、たとえどれほど罪深い者であっても、神は愛してくださっていることを信じる者とされるのです。そこには愛されて生きる喜びと感謝があります。聖霊の洗礼は、十字架の贖いによって罪をゆるされた者として、私たちをキリストの愛に生かしてくださるのです。(1/12 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「イエスはまことのぶどうの木」
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネによる福音書15章5節)
イエス様は15章1節で、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」と語り、それに続いてイエス様と私たちの関係をぶどうの木とその枝にたとえています。ぶどうは、聖書の舞台となっているパレスチナを含む地中海世界において、オリーブ、イチジクと並ぶ最も代表的な果実です。旧約のイザヤ書5章1−7節には、ぶどう畑の歌が記されています。そこには神が丹精をこめてつくったぶどう畑にイスラエルの家をよいぶどうの木として植えたのに、実ったのは酸っぱいぶどうであったとあります。ここには神の愛に対するイスラエルの家、ユダの人たちの背信と罪が厳しく問われています。預言者イザヤが活動したのは、国家が危機に直面した時代でした。その中でイザヤが語ったのは、どんな時でも神に立ち帰り、静まって神の言葉に聞くことでした(イザヤ30:15)。
イエス様の時代、神の祝福はユダヤ人の血すじに属し、しかも一握りの金持ちや特権階級の人たちに限られていると考えられていました。これに対して、イエス様はご自分をまことのぶどうの木であると宣言したのです。つまり、イエス様につながる人、イエス様を信じる人は誰でも神の祝福の恵みにあずかることができるのです。そこには人種や民族、社会的な地位や身分と言った差別はありません。イエス様は、ユダヤ人だけでなく、世界のすべての人たちを救うメシア、真の救い主として神から遣わされたのです。
今年は桜山教会の創立90周年、会堂の献堂90周年にあたります。桜山教会は、まことのぶどうの木であるイエス様につながる教会として歩んできました。これまで主に結ばれた多くの信仰の先達が宣教のみ業に励み、教会形成に仕えてきました。今年も「礼拝に生きる神の民」として、共に祈りを合わせ、主のみ業に仕えていきたいと思います。(1/5 新年礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「シメオンの賛美」
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」
(ルカによる福音書2章29、30節)
ルカによる福音書2章では、ベツレヘムの馬小屋で生まれた神の御子が生後8日目に割礼を受けて「イエス」と命名されたこと、清めの期間である40日が過ぎたとき、マリアとヨセフが幼子イエス様を連れてエルサレム神殿で礼拝をささげたことが記されています。それは幼子を主に献げるためであり、モーセの律法の定めに従って犠牲をささげるためでした。彼らは鳩を犠牲としてささげましたが、これはイエス様が貧しい家庭に生まれたことを示しています。
ところで25、26節には、「エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」とあります。シメオンとは、「彼は私の苦労を耳にした」という意味です。つまり、神は私たちの人生の労苦に耳を傾けてくださり、必ず聞いてくださるのです。明日をも知れぬ命の中で、信じて待ち続けるシメオンの祈りに神は応えてくださったのです。そこには神の時があり、神の備えられた幼子との出会いがありました。
シメオンは幼子イエス様を腕に抱き、神をたたえます。「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(31、32節)イエス様はイスラエルだけでなく世界のすべての人々の救い主として賛美されています。さらにシメオンはマリアにイエス様を待ち受ける受難を告げます。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(35節)との言葉は、私たちの罪を贖う救い主として生まれたイエス様の十字架の死をさし示しています。(12/29 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「言は肉となって」
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネによる福音書1章14節)
ヨハネ福音書1章14節は、救い主イエス・キリストの降誕を告げています。「言」とは神の御子キリストを表し、「肉となって」とは神の御子が、私たちと同じ肉体を有する人となったことを表しているのです。この短い言葉に聖書全体のメッセージが凝縮されています。神が最愛の独り子を、私たちの救い主としてこの世に遣わしてくださったのです。何のためでしょうか。それは神の約束が成就されるためです。世界のすべての人たちが神の家族となり、兄弟姉妹として互いに愛し合うのです。そこでは肌の色で差別をしたり、宗教の違いで憎みあうことはありません。社会的に弱い立場に置かれている女性や障がい者、高齢者や幼い子どもたちの人格や権利が尊重されるのです。それは聖書が約束したメシアの時代の到来を証ししています。
ところで、この福音書の著者はイエス様の愛弟子ヨハネと言われてきました。晩年、ヨハネは周りの弟子たちの協力によりヨハネによる福音書を編纂します。信仰の試練や苦難を乗り越え、百歳近い年齢に達したヨハネの魂に映るキリストは、天の父の独り子としての栄光に満ちた方であり、恵みと真理に満ち溢れた救い主でした。このキリストを証ししたのが先駆者として遣わされた洗礼者ヨハネであります。
神の戒めとしての律法はモーセを通して与えられましたが、恵みと真理は御子イエス・キリストを通して与えられました。人となられた神の御子は、私たちを世の罪の支配から解き放ち、死に打ち勝って永遠の命を与えるために十字架の道を歩まれたのです。ここに私たちの救いのために最愛の独り子を賜った神の愛、天の父の栄光があります。このクリスマスの恵みと喜びを感謝し、共に賛美したいと思います。
(12/22 クリスマス礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「預言者の声」
「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」
救い主の誕生を覚えるクリスマスの時期を迎えました。私たちは、救い主がこの世界にお生まれになったことを知っています。しかしヨハネの時代の人々は、メシアがどのような姿で来られるのか知らないままに、その到来を待ちわびていました。
ヨハネが活動を開始すると、人々は彼がメシアではないかと期待しました。しかし、彼は「わたしはメシアではない」と言います。「あなたは自分を何だと言うのですか。」との質問に、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」とイザヤ書を引用して答えました。
彼は、ヨルダン川河畔の荒野で神の国が近づいたことを人びとに伝え、悔い改めるよう迫り、悔い改めのしるしとしての洗礼を授けました。「罪の悔い改め」とは、個人の心の回心だけではなく、神の民として選ばれながら神さまを見失ったイスラエルの民が回心し、救い主を迎えるにふさわしい神さま中心の生き方へ転換することを求めるものでした。ヨハネはイエスさまの登場と宣教活動の開始を準備する役割を与えられていたのです。
私たちにとっては、イエス・キリストはすでに来られた方であり、今も見えない形で、私たちと共におられ、教会の業を完成させて下さるお方です。今年のクリスマス、一人でも多くの方を教会にお招きするために、それぞれが自分の賜物に応じて奉仕し、準備しつつも、すべてを主に委ね祈りつつアドベントの時を歩みたいと思います。(12/15主日礼拝宣教要旨 田中真希子牧師)
【ともしび】 「イエスについての証し」
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」
(ヨハネによる福音書5章39節)
イエス様は、「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。」(31、32節)と教えています。イエス様の時代、自分をメシアと称する者が次々に現れ、人々を扇動し騒乱を起こしましたが、最後は当局に鎮圧されました。また、「偽証してはならない」との十戒の厳しい掟もあり、ユダヤの裁判では二人以上の証言が一致しないと有効な証言と認められませんでした。たとえイエス様であっても、自分についての証しは真実とは言えなかったのです。
イエス様はご自分がメシアであることを証しする者として、まず洗礼者ヨハネを挙げています。33節には、「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。」とあります。真理とはイエス様を指しています。ヨハネは燃えて輝くともし火として、真の光であるイエス様を証ししたのです(35節)。次に、イエス様はヨハネの証しにまさるものとしてご自分の行っている業を挙げています(36節)それは水をブドウ酒に変えたり、病を癒すしるしです。さらに神さまご自身がイエス様を証ししていると教えます(37、38節)。イエス様は天の父の独り子として遣わされました。そこには父と子の深い愛の交わりと一体性が証しされているのです。
イエス様は39節で、聖書に永遠の命があると研究している人たちに、聖書はイエス様を証ししていると教えています。この場合、聖書とは旧約聖書です。つまり、旧約聖書はイエス様がメシア、来るべき救い主であることを証言しているのです。ルターは、「聖書はキリストの伏しておられる馬舟である」と言い、聖書の真理を見事に言い当てています。(12/8主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「主の来臨の希望」
「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。」
(ヨハネによる福音書7章29節)
ヨハネによる福音書7章には、イエス様が仮庵祭にエルサレムの都に上られたことが記されています。仮庵祭はユダヤの三大祭のひとつで、かつて奴隷の地エジプトを脱出した後、40年の荒れ野の旅を仮庵を結んで生活したことを記念し、神の恵みに感謝する祭でした。神殿ではゼカリヤ書14章が朗読され、メシアの到来の預言、世界を統治するメシアの支配が宣言されました。
祭が最も盛大に祝われる終わりの日に、イエス様は立ち上がって大声で言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(37、38節)イエス様は、魂の渇きをいやす命の水を求める者を公然と招かれました。そして、イエス様を信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出ると教えたのです。生きた水とは私たちを生かす聖霊のことであります。
イエス様の教えは、祭に集まった多くの人々に強烈なインパクトを与え、群衆の間に対立が生まれました。イエス様をメシアではないかと見る人もいましたが、メシアはダビデの子孫としてユダヤのベツレヘムで生まれると信じられていたので、ガリラヤ出身のイエス様はメシアではないと言う人たちもいました(27節)。これに対してイエス様は、ご自分はガリラヤの出身ではあるけれども、本当の出身は父なる神様であると教えたのです(28、29節)。すなわち、イエス様は、氏素性のわからない神秘的な存在ではありません。むしろ、ベツレヘムの馬小屋で生まれ、ナザレでお育ちになりました。神様は、最愛の独り子を私たちと同じ人としてこの世にお遣わしくださったのです。この救い主の来臨を待ち望むのがアドベントであります。(12/1 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「やがて来られる方」
「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」
ヨハネの黙示録は、1世紀のローマ帝国によるキリスト教への迫害の時代に書かれました。黙示録はこの世の終りについて語りますが、同時にそれは神の国へ招かれる希望の時として描かれます。迫害の中にある教会とキリスト者への励ましのメッセージでした。
「やがて来られる主」つまり再臨のキリストは、終末の近づく時、この世に再びこられ、人々を神の国へと招かれます。3節には、「…これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。」とあります。迫害が迫るなか、この黙示録が語る神のメッセージを聞くことが大切だと言うのです。
この書には「礼拝」の場面が幾度も登場します。地上での礼拝だけでなく、天における礼拝の場面も、ヨハネの見た幻として語られています(4章)。迫害の中でも主の日ごとにささげられた礼拝、そのとき、同じくして天上でも礼拝がささげられている。それは、迫害の中の信仰者たちが、礼拝を守り続けるための励ましと勇気を与えられたはずです。
次週から主の降誕を待ち望むアドベントを迎えます。クリスマスは、主イエスの誕生を記念する日です。つまり、旧約の時代の約束、「やがて来られる方」救い主の到来の時です。神の救いの御業が始まるときです。その時から現代まで、教会は神の国の完成を待望し、週ごとに礼拝をささげてきました。しかし、その時は神のみ心の内です。私たちは、ただ毎週礼拝をささげ、今・私たちと共に歩み続け、そして、再び来られ、わたしたちを神のみ国へ招いて下さるお方の存在を確認するのです。
(11/24 主日礼拝宣教要旨 田中真希子牧師)
【ともしび】 「わたしたちこそ神の家」
「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」(ヘブライ人への手紙3章6節)
神の家とはエルサレム神殿に代表されるような建物を意味しません。たとえどれだけ壮麗な神殿であっても永遠に続かないのです。むしろ神の家とは、アブラハムの選びの恵み、祝福の約束によって結ばれた神の家族であり、旧約のイスラエルの民は神の民と呼ばれました。
モーセは神の家全体の中で忠実でした(2節)。彼はエジプトで奴隷の民とされ、苦役をなめていたイスラエルの民を解放し、約束の地へ導きました。彼はシナイ山で神から十戒を刻んだ石板を授けられ、神の民として守るべき定め、律法を教えたのです。
主イエスは、モーセ以上にご自身をたてられた神に忠実でした(2節)。神の祝福の約束は、主イエスを通してイスラエルという民族の垣根を越えて、信じるすべての人にもたらされたのです。主イエスの伝えた神の国の福音は、人種や民族の隔てを超えて、すべての人を神の家族、神の民とする祝福へと招いているのです。
1節に、「だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」とあります。「天の召し」とは神からの呼びかけ、祝福の約束への招きです。これは神の一方的な恵みです。主イエスは、この救いの恵みの福音を宣べ伝える使者として神から遣わされるだけでなく、私たちの罪をとりなす大祭司でもありました。祭司という言葉には、橋を架けるという意味があります。つまり、深い罪のふちによって隔てられた神と私たち人間の間に橋を架けてくださったのが主イエスです。神の独り子がご自身を十字架にかけてくださり、それによって神との愛の交わりが回復しました。主イエスの罪の贖いにより、私たちは天の神を父と仰ぐ神の家族、神の民の一員に加えられたのです。(11/17 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「永遠の命を得るために」
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(ヨハネによる福音書3章16節)
ヨハネによる福音書3章には、イエス様とニコデモの出会いが記されています。ニコデモはファリサイ派の議員でした。ユダヤ教に熱心に精進するエリートの信仰者であるとともに、71名で構成されるユダヤの最高法院の議員でもありました。彼は真夜中に人目をはばかってイエス様を訪ねます。イエス様が神から遣わされた教師であると信じていたからです。この後、彼はたった一人最高法院でイエス様の無実を弁護し(7:51)、アリマタヤのヨセフと共にイエス様の埋葬に尽力しました(19:39、40)。
イエス様は言いました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3節)「神の国」は「永遠の命」と同義語であり、当時のユダヤの人たちが一番祈り願っていたものです。ところが、ニコデモはイエス様の言葉を理解することができません。律法の教えを守ることによって神の国に入ることができると信じていたからです。イエス様とのかみ合わない対話や、ニコデモのとんちんかんな答えがそのことを物語っています。一口で言うと、新しく生まれるとは、神の力によって神の国に入ることを意味します。人間の知恵や力ではなくて、神の一方的な愛によって神の国の恵みを与えられるのです。それまでの古い罪ある自分が死に、主イエスの十字架の贖いによって罪が赦され、新しい自分が生まれるのです。
宗教改革者ルターは、16節の言葉を小聖書と呼びました。この聖句に聖書全体の神の愛のメッセージが込められているのです。最愛の独り子をお与えになるほどに世を愛された神の愛。この愛によって罪に滅ぶべき魂が救われて、永遠の命の恵みを賜るのです。ルターは、臨終の枕元でこの聖句が朗読されるのを聞きながら救いを確信し、神の御もとへ召されたと伝えられています。
(11/3 召天者記念礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「信仰の完成者」
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。・・・・」(ヘブライ人への手紙12章1、2節)
「競走を忍耐強く走り抜こう」とすすめられています。信仰者の人生を、陸上競技に譬えています。この手紙は、迫害の時代に信仰的危機に直面している人たちを励ますために書かれました。多くの試練や苦難に出会った時、人は疲れ果て、信仰の喜びさえ失ってしまいます。そんな人たちに、歩みを止めることなくゴールを目指し、忍耐して走り抜くことを勧めています。
11章では、信仰の歩みを走り抜いた旧約時代の人たちの物語が語られています。彼らは神を信じ、神に認められる、信仰の生涯をまっとうしました。しかし、望みつつ手に入れることができなかった約束があると、11章39節で語られます。それが、救い主、イエス・キリストです。その約束は、新約の時代そして現代の教会へとバトンタッチされたのです。
そして、新しい信仰のレースが始まりました。その先頭を切るのは、他でもなくイエス・キリストです。主イエスが私たちの信仰のレースをしっかりと導いてくれるのです。「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」身軽になることが勧められています。私達の信仰のレースの模範であるイエスさまは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍ばれ、復活され、今は神様のもとにおられます。この主イエスの十字架の姿、信仰の完成者であるイエス・キリストの姿をとおして、私たちの信仰のゴールを見ることがゆるされるのです。
【ともしび】 「金持ちとラザロ」
「しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。』」(ルカによる福音書16章25節)
ルカによる福音書16章19節以下には、金持ちとラザロのお話が記されています。毎日贅沢に遊び暮らしていた金持ちと、全身をできもので覆われた貧しいラザロの境遇は、死によって逆転します。ラザロはアブラハムの宴席のそばに、特別な客として連れてこられますが、金持ちは陰府の炎の中でもだえ苦しむのです。
イエス様が宣べ伝えた神の国の福音は、当時の宗教的な指導者たちの教えとは根本的に異なるものでした。律法学者たちは、律法の掟を守ることによって神の国に入ることができると信じ、そのように民衆に教えました。ところが、そこに落とし穴がありました。律法を守り、自分の力で神の国に入ることができると思い違いをするようになったのです。そしてラザロのような貧しい人たちや、罪人と呼ばれている人は神の救いの外に置かれ、神の国に入ることは出来ないと考えたのです。これに対して、イエス様は神の憐れみ、一方的な神の恵みの賜物として神の国に招かれると教えました。ラザロは、この神の憐れみにより救われたのです。
アブラハムは、陰府の炎の中で助けを求める金持ちに真実な悔い改めを迫ります。生きている間、金持ちは良いものをもらいながら、モーセと預言者の言葉に耳を傾けようとしませんでした。門前に横たわるラザロを見て見ぬふりをしていたのです。そこには無関心の罪が問われます。貧しい人に施しをすることは、断食、祈りと並んで律法で教えられていた善行の一つでした。神の言葉に謙虚に耳を傾けることにより、神の憐れみと恵みに生かされる者とされるのです。(10/13 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「共に喜び、共に泣く」
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」
(ローマの信徒への手紙12章15節)
ローマの信徒への手紙で、パウロが自分自身の罪を深く洞察し、キリストの十字架を信じ、罪から解放されたことを熱く語っています。そして、12章9節からは、十字架によって罪ゆるされた者の新しい生き方について具体的にまとめられています。その基本は、他の人たちとの関係、つまり隣人との関係のあるべき姿です。兄弟愛、迫害する者への祝福を祈る、すべての人と平和に暮らす等です。特に、15節の言葉は、よく教会の年間聖句や標語に使われます。しかし、どれも簡単なことではありません。
教会では、悲しむ人には、慰めの言葉をかけます。「祈っています」と言います。また、喜ぶ人には、「私も嬉しいです」と喜びの言葉をかけます。その言葉にうそはないはずです。しかし、その人の悲しみの重荷を、弱い私たちが一緒に担うことはできません。一緒に喜んでいても、その喜びの背後にあるそれまでの苦労や努力などを知らないことも多くあります。また心のどこかで、嫉妬することもあります。「共に喜び、共に泣く」ことは、簡単なことではないのです。それでも教会がこれらの言葉を掲げるのは、、私たちは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」と招かれるイエスさまの生き方を知っており、共に重荷を担って下さる主が、私たちを新しい関係へと導いてくださると信じるからです。
パウロ自身も互いに思いを一つにし、平和に暮らすことがいかに困難なことか知っていました。だからこそ、同時に「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」とも教えています。私たちも主にあっていつも平和な関係を築くよう祈りつつ歩みたいと思います。
(8/18主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「義のために苦しむ人の幸い
「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」(ペトロの手紙一 3章15節)
ペトロの手紙は、紀元64年7月19日に発生したローマの大火に端を発したクリスチャンへの迫害の中で書かれた手紙と言われます。皇帝ネロは、大火の責任をクリスチャンに負わせ過酷な迫害を行ないました。ペトロ自身、この迫害の下で逆さ十字架の刑によって殉教の死を遂げたと伝えられています。しかし、ペトロはキリストによって与えられている希望、信仰に生きる勇気を伝えるためにこの手紙を記したのです。
8節には、「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」とあります。まことに簡潔な信仰生活の要諦です。9節以下の勧めは、イエス様の山上の説教と分かちがたく結びついています。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」(9節)「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」(10、11節)復讐ではなく、むしろ敵を愛する心こそ、神の子の祝福に生きる信仰の道であります。
14節には、「しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」とあります。ペトロは、皇帝ネロによる過酷な迫害の中で、山上の説教にあるように神の御心である義のために迫害される人の幸いを語っています。それは罪のゆるしと永遠の命の恵みにあずかる幸いであります。この幸いは、迫害によって決して奪われることのない救いの希望です。(8/11 主日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)
【ともしび】 「義のために苦しむ人の幸い」
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
パウロは、「主において常に喜びなさい」(4節)と勧めます。この手紙は、喜びの手紙と呼ばれ、何度も「喜ぶ」という言葉が使用されています。パウロは、自分が牢獄に監禁されたことを通してキリストが宣べ伝えられていることを喜びます(1:18)。また、たとえ殉教の死を遂げても喜ぼうと語り、フィリピの教会の人たちも共に喜ぶようにと勧めています(2:17、18)。パウロにとって、生きるにも死ぬにも、自分の身を通してキリストが証され、崇められることこそ一番の願いであり、喜びでした。
パウロは5節で、「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」と勧めています。広い心とは、規則や法律に杓子定規にとらわれない愛の心です。フィリピ2章6、7節のキリスト賛歌にあるように、神の子であることに固守することなく自分を無にしてへりくだり、十字架の死に至るまで僕の道を歩まれたイエス様の御心こそ、拾い心なのです。
パウロは6、7節で、私たちを祈りの恵みへと招いています。祈りは神様の御心を聞くことから始まります。これに対して、自分の思い煩いにとらわれていると、神様の御心が聞こえてきません。それゆえ、思い煩いはイエス様にお委ねして、まず神様の御心に聞くのです。神様に祈ることにより、私にとって何が一番大切なのかが示されていきます。パウロは、神様の御心を祈り求めることにより、人知を超える神の平和が私たちの心を満たすと教えているのです。(8/4 平和聖日礼拝宣教要旨 田中文宏牧師)