礼拝説教要旨


2009年9月27日
世の初めの物語() 「混沌から秩序へ 」 田口博之牧師
創世記1章1~10節



混沌の中から

創造物語を読む時、1節と2節の関係が問題とされることがあります。それは、「初めに、神は天地を創造された。」(1節)「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(2節)とありますが、この通りの順序で創造の業が行われたと考えたときに、初めに、神さま創造されたときの地は混沌であった。混沌では人が住めないから、神さまは「光あれ」(3節)という言葉によって、天地創造の仕切り直しをされたのだ。そのような読み方ができるのです。もっとも、大方の読み方はそうではなく、2節は括弧でくくるようにして、地が混沌であったとは、天地が創造される前の状態であったと考えた方が妥当です。そうすると、よく言われる「無からの創造」という言い方よりも、「混沌の中からの創造」が正しいといえるでしょうか。

ただし、どちらが正しいかを論じることは小さなことです。全能の神は無から有を創り出される方でもあり、混沌の状態を秩序づけるお方でもあるのです。聖書は初めに、「神様は天地を創造されるお方だ」という根本を語るのです。神さまは壊すお方でなく、創り出されるお方です。殺すお方ではなく、命を与えられるお方なのです。

 

分けられ、呼ばれる

「混沌」という言葉を辞書で引くと、「天地がまだ分けられてない状態、天と地がどちらでもいい状態」とありました。そのように「分けられていない状態」のなかで、神さまは「光あれ」と言われて、闇と光とを分けられたのです。つまり神さまは、「分ける」という働きをなさる中で、秩序を与えられたのです。闇さえも、神さまのご支配、秩序の中に組み込まれていくのです。それゆえ、わたしたちは、生きていく中で真っ暗闇のような状態、八方ふさがり前に進めない状況に置かれたとしか思えない時であっても、神さまは光を与えてくださる。闇の中にあっても希望を持つことができるのです。

そして、「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。」(5節)とあります。「呼ばれた」とは、「分けられた」と同じく大切な言葉で、「呼ばれる」とは、「神の名付け」と言われます。あるものに名前を付けるということは、名前を付けたものは、付けられたものの上に立つということを意味します。誰一人として、自分で自分の名前を付けた人はありません。子どもの名前は、親がつけるのが筋です。私たちは、自分の名前が気に入らなかったとしても、与えられた名前で生きていくことになります。勝手に名前を変えることができないということは、人間は自分勝手には生きてはいけないことを意味するのです。

闇も同じです。神さまがここで闇を闇と名付けられたということは、闇は混沌の状態の時とは違って、神さまの支配下に置かれたのです。それゆえ、私たちがどれほど困難な状況にあっても、色んな問題を抱えて苦しもうとも、闇で終わることは絶対にない。「夕べがあり、朝がある」のです。明けない夜はない、闇が光に勝つことはないのです。イエスさまが十字架で死なれた時、全地は闇に包まれ、闇が世界を支配したかのように思われました。けれどもイエスさまは三日目によみがえられたのです。「人間は死んだら終わり」と、誰もが思うけれども、死はこの世の支配者ではなくなった。死を超えた命というものをイエスさまは与えてくださいました。これが復活の信仰です。

 

住む場所の創造

神さまが「分けられる」、また「呼ばれる」という行為は、これだけでは終わりません。神は「水の中に大空あれ。水と水とを分けよ。」と言われます。そして「神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。」(78節)とあります。第一日目では、世界はまだ水の中だったのです。それでは人は住めませんから、大空が造られたことで、大空の上と下とに水が分けられました。さらに、天の下の水を分けられたことによって、人が住める陸地が与えられることになるのです。

今日は創世記を10節までで区切りました。三日目の創造の途中ですけれども、創世記は10節で大きな区切りがあると考えていいのです。なぜなら、神さまの「名付け」は、これ以降は出てきません。ここまでに、わたしたち人間の、そして鳥や動物や魚、植物が生きていくための環境づくりがされている。混沌の中から、生き物が生きていけるような秩序が創られたことが語られているのです。わたしたちが今、どれだけに生きにくい状況にあったとしても、神さまは生きていける環境をくださっているのです。

今日の礼拝には、CSの生徒も集っています。これから将来について、どういう仕事を目指そうかと悩むことがあるでしょう。そのことを考えることは大切だけれども、必要以上に悩んだり落ち込んだりする必要はないのです。大切なことは、神さまは私たちがどんなことをしても生きていける場所、環境を整えてくださっていることを知ることです。神さまは、生きていくための場所を与えてくださっているのです。

伊勢湾台風から50年を迎えました。生活の基礎を成すのは衣食住ですが、災害の時には色んな人の助けによって、食べるものと着るものは何とか与えられていきます。しかし、最後まで問題となるのは住む場所なのです。この問題が解決しないことには本当に生きるしるしにはならないのです。しかし、神さまを知る者は、生きる場所、あなたがここに居ていいという場所を与えてくださっています。それが教会です。その意味で、桜山教会が神の恵みのあふれる場所、慰めが与えられる場所、癒しの場所になるようにと祈ります。

 

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