礼拝説教要旨


2009年11月22日
世の初めの物語() 「神さまからの贈り物」 田口博之牧師
創世記1章9~13節



海と陸の区別

当初の計画ですと、今日は創世記19節から19節、第三の日と、第四の日の創造についてあわせて学ぶ予定でいました。しかし、聖書を読み黙想を重ねているうちに、神さまが地に植物を造られたことの意味を深く感じることができました。よって、今日は13節まで、創造の第三の日のわざに集中することとします。

神は言われた。『天の下の水は一つところに集まれ、乾いたところが現れよ。』そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まったところを海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。(9-10)とあります。面白いのは、まだ三日目の途中、神さまはまだ一日が終わっていないのに、海と地を分けられて「良しとされた」ということです。それだけ見事な出来栄えであったということでしょう。わたしたちは、海と陸地とは当たり前のように分けられていると思われるかも知れませんが、これはとても不思議なことだと思うのです。砂浜に立って感じる波の満ち引きは、神秘的に感じます。そのような秩序のもと、陸地に住む私たちは大海の水から守られています。

しかし、地球温暖化という視点から見る時に、そのように良しとされた陸と海の区別が、脅かされていることを感じます。北極の氷が、少しずつ融けています。海面が上昇して、消えてしまう島があるとも聞きます。地震対策による耐震補強が進んでいますが、東海地震のような海溝型地震の場合に、実は津波対策こそが重要だと言われています。大きな津波が起こると、海の水はたちまち地を飲み込んでしまうのです。しかし、現実にはどれだけ手を打てているでしょうか。

 

地の実り

さて、第三の日の後半、神さまはわたしたちの住む地上に植物を芽生えさせました。11節以下「神は言われた。『地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。』そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。」とあります。ここで気づかされたことは、神さまは第三の日には、二度「良しとされた」ということです。そして、神さまは草や果樹を、ご自身の手で直接創造されたのではないということに気づきます。どうされたかというと、神さまは「地は草を芽生えさせよ」と、ご自身が造られた地に命じておられるのです。そして、神さまの命令を聞いた地は、草や木を芽生えさせました。    

「母なる大地」という言い方は、大地は命を宿すところという意味が込められていることを思います。

11月の初め、子ども会で日進教会に芋掘りにいきました。芋だけでなく様々な野菜を収穫させていただきました。実際に土に触れ、土から生え出でた野菜に触れることで、スーパーで並ぶ野菜を見るだけでは感じ取ることのできない、命を育む大地の恵みを知ることができます。しかし、間違ってはいけないのは、大地がわたしたちの食べる野菜や米を育てているといっても、大地そのものに命を宿す力はありません。土の塵でできた人が、主なる神に命の息を吹き入れられたことで、生きる者となったように。私たちが地の実りをいただくのは、神さまの恵み以外のものではないのです。

 

異教の風習の中で

日進教会のような農村の教会は、大地が神として祀られたり、農耕の神々に手を合わせなければならないような土地に建っています。日本基督教団では、今日明日とプロテスタント日本伝道150年の記念集会が行われます。カトリック伝来から数えれば460年になりますけれども、日本においてキリスト教は浸透していません。日本が農耕民族だということを、理由の一つに挙げることができるでしょう。その土地の神と呼ばれるものがあるのです。そして、イスラエルもまた、同じ問題に直面したことを思います。

先月の聖地旅行で、エジプトからイスラエルに入る間、荒野と砂漠を見ながらのバス移動でした。飛行機の窓から見えた中央アジアの地域もほとんどが砂漠でした。そのような景色を見ていると、だんだん渇いてきます。2日間で相当な渇きを覚えたのですから、40年間も荒れ野を漂った民にとって、目の前に広がる約束の地は、まことに乳と蜜が流れる豊穣の地と感じたのではないでしょうか。それまで大地の実りにあずかることがほとんどなく、つぶやきばかり繰り返していた民でしたが、イスラエルに入ると色んな草木や果樹、オリーブの実や野菜があるのです。農耕生活をするようになったイスラエルの民は、エジプトから救い出してくださった神を忘れて、農耕の神々を拝むようになってしまったのです。

今日は「神さまからの贈り物」という宣教題をつけました。この題はむしろ、第四の日に造られた太陽や月や星も、神として拝む対象ではなくて、わたしたちが生きていくために神さまがプレゼントしてくださったことを告げるために用意した題でしたが、地もまた同じです。与えられたものであって神格化されてはなりません。土地を神格化するなどあり得ないと思うかもしれませんけれども、日本においては別の意味で「土地神話」を信じたがために経済がおかしくなったとは言えないでしょうか。

 

エコロジーも神の御心

十日間のイスラエル旅行を通して、日本は何と食べ物が豊かなことかと思いました。世界の国々から食料を輸入し、ありとあらゆる食材が手に入り、食べ方もバリエーション豊富で飽きることがありません。「飽食」というのは「食べ残す」ことばかりでなく、「食べ飽きない」ことを言うのだと思いました。にもかかわらず、この世には食べるものが得られないで、死んでいく子どもたちがたくさんいるのです。

神さまはこの地を造り、地に命じて草木を芽生えさせ、地の実りを与えてくださっています。神さまの恵みにたくさんいただける者と、そうでない者がいることを、神さまは決して、良しとはされません。また、植物がたくさんあるからこそ、酸素も十二分に与えられるのです。

 人間が健やかに生きていくために、第三の日の創造の業が成されたと言っていいのです。神さまは、この地に緑を与えて下さいました。緑色から黄土色に砂漠化した地球は、神さまの御心ではありません。エコロジーの問題についてもただ批評するだけでなく、天地を創造された神さまの思いに立って目を向けていく。それも教会につながる者の役割ではないかと考えます。

 

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