礼拝説教要旨


2009年12月27日
世の初めの物語() 「大空に置かれたもののお仕事 」 田口博之牧師
創世記1章14~19節



光の創造、時の創造

天地創造の物語を語る時に、現代の科学で解明されたことと、聖書で語られていることが矛盾するのではないかということが問題にされることがあります。天体と地球の動きについても、ヨーロッパでは中世と称される時代までは、天動説という考えが支配していました。そして、天動説と創世記の1章の創造物語は、自然な形で結び付けられていたのです。ところが、今から500年ほど前に、コペルニクスという人が地動説を唱えました。その根拠となったのが、創世記13節「光あれ」の御言葉だったと言われます。聖職者でもあったコペルニクスは、神は最初に光を造られたのだから、その光を中心に地球が太陽の周りを回っているのではないかと考えたのです。

ただし、コペルニクスに少々ケチをつけなければいけないことは、神さまが初めに造られた光は、太陽ではないのです。太陽の創造が語られるのは、今日の御言葉にあるように第四の日に入ってからです。そこで問題となってくるのが、第一の日に造られた「光」と第四の日に造られた「光る物」、つまり太陽と月との関係です。

第1の日に造られた「光」については、これまでにも語ってきました。この光は太陽のような形あるものではなく、根源的なものです。それは、混沌とした闇の世界に秩序を与える光であり、私たちの人生に希望を与える光です。また、この光の創造によって、「夕べがあり、朝があった」と、日が数えられるようになりました。すると「光」の創造は、「時」の創造だったと考えることができます。

わたしたちは、時間がないと焦ったり、時間がありすぎて退屈してしまったり、時間に翻弄されて生きているようなところがあります。いつかは自分の時間が終わりを迎えるのという思いが頭をよぎって、急に恐ろしくなったりすることもあります。けれども、時間も神さまが創造されたものであり、永遠であられる神さまのご支配の中にあると思えれば、あくせくすることも、不安がることもありません。神さまが時も創造されたのだから、終わりを決められるのも神さまなのだと、自然に受け止めることができます。

 

拝むべき光

この光を、具体的な形あるもの、この地上に光を運ぶ担い手として、神さまは第四の日に、天の大空に二つの大きな光る物を創造されました。この「二つの光る物」とは、どう考えても太陽と月ですが、聖書には太陽や月という固有名詞が書かれていません。その理由は、太陽や月が拝む対象とされていたからです。それは、聖書が書かれた時代だけではありません。今の日本でも、太陽を「お日さま」、月を「お月さま」と呼んだりします。星も「お星さま」と呼ぶことがあります。「お」とか「さま」をつけて呼ぶことの理由は、それを崇拝する心があるからでしょう。わたしたちは、自然なかたちで太陽や月に手を合わせたり、星を見て願いごとをしたりしているのです。

申命記4章19節には、「また目を上げて天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない。それらは、あなたの神、主が天の下にいるすべての民に分け与えられたものである。」とあります。モーセははっきりと、太陽、月、星を拝むことは、偶像礼拝の罪だと言っています。

拝む対象を間違えたら、人間はおかしな方向へ行ってしまいます。お金や権力のある者を拝めば、どうしてもお金や権力の奴隷になってしまうのです。創造物語はこの後で、人間は「神にかたどって創造された」(27節)と語ります。ところが、神さま以外のものを拝んでしまったことによって、人間は神に似た者ではなく、罪人となってしまったのです。イエスさまは、そんなわたしたち人間を罪の奴隷から解放し、神の似姿を回復させるために、人間の姿をとって来て下さったのです。イエスさまの教えと生き方に倣う時、私たちは本来あるべき姿、神さまに似たかたちを回復することが出来るのです。それが救われるということです。

 

しるしとしての働き

さて、太陽、月、星を悪者にしてしまったようですが、聖書はこれらが悪い存在であるとは一言も言っていません。悪いどころか「神はこれを見て、良しとされた」のです。悪いのはそれらに手を合わせたり、星占いに一喜一憂してしまうようなわたしたちです。

では、神さまはこれら「光るもの」にどういう働きを与えられたのでしょうか。ここで神さまが「良しとされた」のは、これら光る物の形、出来ばえではありません。神さまは、「大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。」というその働きを見て、「良しとされた」のです。実際に、昼間でも月が出ているのを見ることがありますが、太陽が治める昼の領分を侵しはしません。太陽もまた、夜中に出しゃばるようなことはありません。太陽がいつも治めていたら、昼と夜という区別が崩れてしまい、1日を数えられなくなってしまいます。また、昼の時間と夜の時間が一年中同じであれば、季節という秩序がなくなってしまいます。星もまた四季に応じた配置を見せています。

この第四の日の創造における天の大空に光る物、すなわち太陽や月の最大の仕事というのは「季節のしるし、日や年のしるし」となることでした。第一の日に造られた光が具体的な姿として現われたと共に、第一の日に始められた「時」を明確なものとする具体的な「しるし」となったのです。

わたしたちは、イエスさまから「世の光」である、「光の子」だと呼ばれる一人です。わたしたち自身は光を放てる存在ではありませんが、夜を治める月がそうであるように、神さまから与えられた光を反射して暗い夜に灯をともす、冷え切ったこの世にあって温かさを与える、そういう者として神さまは私たちを創造されたのです。神さまから与えられた役割を知るために、また一人一人が世の光として歩んでいくために、神さまが造られた安息の日を礼拝の時とするのです。

 

礼拝説教要旨のページへ