礼拝説教要旨


2010年1月24日
世の初めの物語() 祝福される生き物たち 」 田口博之牧師
創世記1章20~25節



創造の順序

創世記1章2025節を読みましたが、前半の2022節では海と空の生き物の創造を語り、2425節では陸の生き物の創造が語られています。 23節に「夕べがあり、朝があった。第五の日である。」とあります。神さまは第五の日に水と空の生き物を創造し、第六の日になって陸に住む生き物を造られました。第六の日のお仕事はその後も続き、26節以下では、いよいよ人間が創造されます。天地創造の頂点に人間の創造があるのです。神さまの創造の順序について、進化論と折り合いをつけようとする考え方がありますが、聖書が伝えることを科学で解こうとしても無埋があります。

ただし、植物の創造と生き物の創造が連続していないことは注目したいのです。植物の創造は第三の日になされましたが、生き物の創造へとすぐにはつながらず、第四の日には天体、すなわち太陽や月の創造が挟まれています。この理由は、太陽や月も神さまが造られた「光る物」ものにすぎない。神ではないし手を合わせるべきでないという聖書の信仰によります。

もう一つの理由は、わたしたち日本人は、植物も生き物だという感覚を持つように思いますが、イスラエルの人の感覚ではそうではなかった。旧約聖書では、「生き物の命は血の中にある」と考えられており、「血を食べてはならない」と律法で定められているのです。(レビ17 : 10以下参照)。植物は血を流さないので生き物とは見なされず、植物と動物の創造が連続していないと考えられます。

 

怪物の創造

第五の日になって、水の空の生き物が創造されます。次第に人間の創造に近づいていると感じますが、それらは陸の動物ほどには近くないようです。「神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。(20-21)とあります。「水に群がるもの」と聞くとき、多くの魚たちが海面に群がるさまを想像するのですが、「すなわち大きな怪物、うごめく生き物」とあります。魚ではなく怪物というのですから驚きです。

神さまの創造は「無からの創造」という言い方がされています。無というのは何もない状態というよりも、秩序のない状態と考えることもできます。2節に「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」とありますから、神さまが「光あれ」という先に水は存在していたことになります。しかし、水(海)というのは、混沌の場所であり、恐ろしい大きな怪物がいると考えられていました。具体的にはヨブ記4025節以下に詳しく描写されているレビヤタンがそうです。ゴジラのモデルではと思えるような怪物です。そのようなとても恐ろしい生き物でさえ、神さまによって造られたのだと告げられているのです。空もまた私たちが住むことのできない、どこまで続いているのか知れない場所です。そんな空を自由に飛ぶことのできる鳥までも、神さまは創造なさったのです。わたしたちが暮らせない場所も、未知の生き物もすべて、神さまはお造りになりました。神さまの支配が及ばないところはない。苦難の中を生きるイスラエルにとって、大きな慰めとなる御言葉です。

 

神さまの祝福

しかも、「神はそれらのものを祝福して言われた。」23節)とあります。祝福されるのは人間だけではないのです。そして、「祝福して言われた」とあるように、祝福は神の言葉によってもたらされるのです。イサクは、神さまからいただいていたたったひとつの祝福を、エサウになりすましたヤコブに与えてしまいました。ヤコブは神さまの祝福がどれだけ大切であるかを知っていたから、欺いてまでも祝福を求めたのです。そして、ヤコブに与えられた祝福が撤回されることはありませんでした。

神さまの祝福について、22節に「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」とあるように、数が増すこと、命が造り出されることが見つめられています。ここに神さまのご意志があります。人間の勝手な思いから、神さまが造られたものを破壊したり、取り上げることはできません。だから「殺してはならない」のです。神さまが創造されたその祝福された命を奪い取ってはならない。愛する独り子であるイエスさまを捧げてまでも救い出してくださった命を奪うことは許されないのです。

十戒の第一戒に「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」と命じられているのも、わたしたちの造り主である神さまとの関係、交わりが損なわれてはいけないからです。神さまが「良し」とされた創造の業、祝福に逆らうことは、御心ではありません。

ハイチでの大地震のように多くの命が失われる、「何故こんなことが」と思える出来事があります。ある人は「これも神の御心だ」と言いますが、祝福された命が奪い取られてしまうなど、「御心ではない」と信じます。けれども、そのような悲惨な出来事、御心とは思えない出来事は事実起こるのです。そこで問われるのは、そのような悲惨をわたしたちがどう受け止めていくのか、人間がどう立ち上がっていくのかということです。傍観するだけでは、神さまの祝福が分かっていないのと同じです。隣人として何かできるのか考え、何も出来ないと決め付けるのでなく、執り成しを折ることは大切です。祝福を与えられるのは神さまですが、祝福の担い手としてわたしたち人間は創造されたのです。天地創造の物語は、私たちが生きていることの意味、どのように生きることが主の御心なのか、とても大切なことを教えているのです。

 

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