礼拝説教要旨


2010年5月23日 《ペンテコステ礼拝》
世の初めの物語() 神の息を吹き入れられて 」 田口博之牧師
創世記2章4節b~2章7節



土の塵から

イエスさまが復活した日から数えて50日目、イースターから7週目の日曜日を、教会はペンテコステとし、教会の誕生日として記念するようになりました。皆さんが誕生日を喜び祝うように、教会にとっても今日は喜ばしい日です。特に今年のペンテコステ礼拝では、教会が誕生した日よりも古い時代にさかのぼって、人類が誕生した日、最初の人間としてこの世に生を受けたアダムの誕生について、創世記2章7節の御言葉に集中して学んでいこうと思います。

この創世記2章7節「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」この御言葉には、わたしたちが生きていくための大きな支え、宝が満ち溢れていると感じています。しかし、初めから宝のように思っていたわけではありません。むしろ、人間がまるで泥人形か、粘土細工のように作られたようで、あまりにも失礼ではないのかと感じていました。土の塵(ちり)から形づくりとありますが、塵とは、集められてゴミ箱に捨てられるもの。ごみくずに等しい価値のないものです。「あなたは土の塵で造られたのですよ」と言われて、気持ちよく思える人がいるでしょうか。

ところが聖書は、土の塵にすぎないものであっても、神さまの手によれば素晴らしく価値あるものに造られるということが言われているのです。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり」とありますが、形づくるという言葉には、御手を持って、丹精こめて、という意味が込められています。

 

手づくりの素晴らしさ

昨年の夏期学校で、みんなでパンを造りました。手でパン粉を練って、誰もがいい形のパンを、美味しいパンを作ろうと、説明もしっかり聞いて、一生懸命になって成型しました。食べ物だけではありません。お店で買ってきたマフラーと、世界に一つしかない手編みのマフラーとでは、どちらに価値があるでしょうか。網目が揃っていなかったとしても、機械で大量生産された物の方がパッと見が綺麗であったとしても、手編み、ハンドメイドの方がはるかに価値のある素晴らしいものです。神様も同じようにわたしたちを造られたのです。

土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり」とありますが、アダムというのは最初の人間の名前・固有名詞であると同時に、「人」(アダム)とあるように人間一人一人を表す言葉なのです。説教でよく「わたしたち人間は」という言い方をすることがありますが、「わたしたちアダムは」と言っているのと同じなのです。ここにいるあなたも、わたしもみんなアダムなのです。最初の人間アダムの誕生を知るということは、わたしたち一人一人の成り立ちについて知ることでもあるのです。

わたしたちアダムである一人一人は、顔立ちやスタイルがみな異なります。どうして違うのかというと、神さまは一人一人を形づくられたからです。手作りパンの形が一つ一つ違うように、わたしたちすべて神さまの手づくりなのです。男性なら、誰もがキムタクのようにハンサムだったら良かったのに、と思うかもしれません。でも皆がキムタクと同じ顔だったとしたら、考えただけでも気持ちが悪いです。わたしたちは誰一人として複製、コピーされて造られたのではありません。クローンではないのです。人間は、姿かたちも物事の考え方にも違いがあります。だからいいのです。教会の豊かさというのは、違いある人間が一つ所に集められて、一つなる神を賛美できることです。 

イエスさまが集めた弟子たちも、皆が個性豊かでしたが、エリートと呼ばれる人は一人もいませんでした。共通しているのは、皆イエスさまを見捨てたということです。神さまは、そのような土の塵の集まりにすぎない者から、教会を形づくってくださったのです。パウロはエリートだったといえるでしょうが、キリストを知ることのあまりの素晴らしさに、人間的には誇れるべきことすべてを塵芥(ちりあくた)と見なして捨ててしまったのです(フィリピ38参照)。

教会も、大きな教会、小さな教会、元気のいい教会、おとなしい教会、古い教会、新しい教会、様々な教会がありますけれども、いい教会といわれるのは、色んな違いのある人間が集まっていても、神さまを賛美することにおいて一つになれる教会、キリストの体と呼ばれるにふさわしい教会です。

 

命の息を

そして、わたしたち一人一人を形づくって下さった神さまは、「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあるように、魂の息を吹き入れてくださるのです。神さまが、命の息を吹き入れられたから、人(アダム)は生きる者となったのです。確かに生きている人間は息をしています。死んだ人間は息をしません。誰かが亡くなった時、「息を引き取った」という言い方をします。また、大事な人を亡くしたとき、私たちは魂が抜けたようになってしまう時があります。その状態がひどいと、抜け殻のように、息をしていても死んだ者のようになってしまう弱さを私たちは持っています。けれども、神の息を吹き入れられた人間は、神のものとして魂の入った、活き活きと生きていく者とされるのです。

神さまが吹き入れられたのは、ただの息ではなく命の息です。命の息とは、神さまご自身の息、聖霊のことです。わたしたちは、命である聖霊の息吹を吹き入れられることで、新しく造りかえられたものとして生きることができるのです。招詞としてヨハネによる福音書2022が読まれましたが、よみがえられたイエスさまは、弟子達に命の息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい。」と言われました。弟子達は、聖霊の息を吹きかけられたことで、新しい命に生きる者とされたのです。

聖書において、「息」、「霊」、「風」は、しばしば同じ言葉で表されます。暑い日に風に当たると、気温は同じでも体感温度は違ってきます。人間は、風を受けないと心も体もよどんでしまうのです。先のヨハネ福音書の場面で、弟子たちはどうしていたかというと、家の戸に鍵をかけて、窓も戸も閉め切っていたのです。風の入らない、皆で集まっても心沈むしかない弟子たちのただ中に、風穴を開けるようにしてイエスさまは入ってこられ、命の息なる聖霊を吹きかけられたのです。死んでいたようだった弟子たちの集まりは、教会という生きた集まりに変えられました。

 

聖霊により新たに造られる

使徒言行録のペンテコステの記事を読んでも、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(21-4)とあります。命の息なる風、聖霊が与えられたことで、人間は強くされたのです。教会もそのようにして誕生しました。

ペンテコステの出来事は、過去のことではありません。復活のイエスさまは、今も生きておられ、今日もわたしたちの傍らに、息を吹きかけられるほどに、そばにいてくださるのです。最初の人アダムも、その鼻に命の息を吹き入れられることによって生きる者とされました。それは、最初の人アダムだけの物語ではなく、アダムであるわたしたち一人一人の物語なのです。私たちを土の塵から形づくられた神さまの息、聖霊が最も豊かに働くところが教会です。息を吹き入れられた人間は、息を吐き出さなければ、すなわち呼吸しなければ生きていけないように、御言葉が与えられて力をいただいた者は、力の限りに神さまを賛美して生きていくのです。また、祈りによってなされる神さまとの呼吸、交わりによって、健やかな歩みへと導かれるのです。

 

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