礼拝説教要旨


2010年6月27日 
世の初めの物語(10) 「矛盾を超える恵み 」 田口博之牧師
創世記2章4節~2章9節



二つの創造物語

今日のテキスト創世記2章4節から9節は、先月のペンテコステ合同礼拝で聞いた御言葉と同じ個所です。先月は2章7節の御言葉に集中し、わたしたちは一人一人が神さまの手づくりであるということ、そして神さまがわたしたちの鼻に命の息を吹き入れてくださって、生きる者とされた恵みを知りました。この出来事は、何も遠い昔の話ではありません。アダムという言葉は、一番初めに造られた男性の名前であると同時に、わたしたちすべて人間を総称しています。創世記は、わたしたちの上に今起こっている出来事、またこれから起ころうとする出来事を語っているのです。

そのことが分かったなら、同じ個所にとどまらずに先に進めばいいと思われるかもしれません。ただし、今日はどうしても、私自身が創世記を読み始めた時に、あれ?と思ったことを分かち合いたいと思ったからです。皆さんは不思議に思ったことがなかったでしょうか。創世記2章3節迄に語られていた七日間の創造物語と、2章4節以下では創造の記述が明らかに違っていることを。1章27節では、人間の創造を「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」とあります。ここでは人間の尊厳が語られているといえます。ところが、2章7節では、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。土の塵が、神の形をかたどるとは到底思えません。前とは矛盾した創造が語られているように思います。 

また、1章では、神は初めから「男と女に創造された」とありますが、2章では、初めにアダムが造られたのは、男性であるアダムです。女性はと言うと、2章22節以下にいたって、アダムのあばら骨の一部から造られたとされます。これは明らかに1章とは異なる、別の創造物語が語られていることが分かります。そこで問題となるのは、聖書は何故そのような書き方をしているのか、ということです。聖書の言葉は、神の言葉ですべて正しい。そう思う方にとって、つまずきとならないでしょうか。

 

矛盾の中の真理

人は誰でも、矛盾したことを言われると納得できない気持ちとなります。特に中学生や高校生の頃には、先生や親、大人の言っていることがいちいち変わる。言っていることが違うじゃないか、と腹を立てることがよくあると思います。では、矛盾していることは間違いなのかと言うと、そうとは限りません。創造物語は、「これが天地創造の由来である。」(2章4節a)を境に、創造の仕方が変わってきます。しかしそれは、物の見方が違うのです。4節bで「主なる神が地と天を造られたとき」という順序からも分かるように、天からではなく、地上の出来事を中心にしたものの見方をしていきます。したがって、特に人間のこと、罪の問題が掘り下げられることになるのです。

また、神さまの呼び方も、「」から「主なる神」と変わってきます。「主」とは、ヤーヴェとか、ヤハウェと呼ばれたであろうと今は考えられているイスラエルの神の呼び名です。また、旧約聖書を読み進めていくと、矛盾や繰り返しを重ねながら一つの聖書としてまとまっていることが分かります。それは見事と言うほかありません。聖書がすごいと思うところは、矛盾していると思われたとしても、それを全く恐れていないということです。人間の書く文章なら、矛盾したことは初めから書かないか、上手く取り繕ってまとめていくはずです。でも、そうしないところが、聖書の聖書たるゆえんです。

では、なぜそのような書き方がされるのでしょう。神さまは意地悪なのではありません。聖書は、それぞれ一人で読むこともありますが、基本的には皆で読むものとして与えられています。どこで読むのかというと、教会で読むのです。教会で共に読み、教会の礼拝で聖書の説き明かしを聞くのです。もし、よその教会の礼拝に行くことがあって、旧新約聖書以外の本が説かれていたり、勧められたりするなら、その教会は偽物です。そのような教会に誘われるようなことがあったら、自分で何とかしようとはせずに、すぐにそこから離れてください。そこでは、旧新約聖書の矛盾を補うものとして、聖書以外の経典を用意し、納得し信じやすいようにしています。そこが危ないのです。聖書の場合は、矛盾に思うこともよく出てきますが、そこにも真理があるということを覚えていただきたい。

 

二つの物語

では、なぜ矛盾した二つの創造物語があるのでしょうか。それは、この二つが、どのような時代にどのような状況で書かれたのかということが関係します。七日間の天地創造を語る第一の物語は、紀元前6世紀頃にイスラエルがバビロニアという国に滅ぼされ、人々が首都バビロンに捕囚された時代に、捕虜となって苦しむ人々に向けて希望を語ったところです。祖国を失い絶望の中にいる人々に、あなたたちは神さまに似せて造られた者なのだと励まし、絶望しか見えないような状況の中にも、神さまの祝福があるということを語るのです。

また2章4節以下の第二の創造物語について言えば、先の物語よりも450年ほど前に書かれたと考えられています。紀元前10世紀頃、イスラエルが王国となって、ダビデ・ソロモン王の最も繁栄していた時代、豊かさと平和を享受していた時代の人々に向けて、人間はおごり高ぶっていてはいけない、弱くてはかない者にすぎないことを教えるのです。主なる神が、その鼻に命の息を吹き入れて生きる者となったということは、その鼻から息が取り去られた時には、土に帰る者でしかないのです。そんなわたしたちに、神さまはたくさんの恵みを与えられている。生かされていることを忘れてはいけないというメッセージが送られています。

 

この矛盾した存在をも

ですから、この矛盾していると思われる二つの人間の創造が並べられているのは、どちらが正しくて、どちらが間違っているというのではありません。二つの物語がそのまま残されている理由は、人間は二つの面がある矛盾した存在だからです。わたしたちは矛盾した二つの面、自分は何て駄目な人間だと思う面と、自分の力に過信してしまうような二つの面を抱えています。一日の中でも、落ち込んだり調子に乗ってしまったりすることがある。それはおかしなことなのか、矛盾していることなのかというと、そうではありません。人間は、そもそもそういう存在なのです。創造物語はそうした人間の二つの面を見つめているのです。ある人は常にプラス思考で、ある人はマイナス思考で生きているということはない。誰であろうと両面性を持ちながら、日々刻々と変わる状況の中、その時々にバランスを取りながら生きています。だから子どもの目から見ると、大人の言うことはずるい、矛盾したことを言うと、思ってしまうのかもしれません。しかし、それが人間です。そのバランスが上手く取れなくなると病気になってしまうのです。精神的にタフと思われる人でも、ちょっとした体調の不良からバランスを欠いて、心を病むことは多くあります。

創世記の二つの創造物語は、人間の強さと弱さといった二つの面をしっかりと見つめています。そういう人間に向かって、あなたはこうやって生きたらいいと告げるのです。神さまは、そうした二つの面をもった人間を否定されずに受け入れて下さるのです。性善説、性悪説というのはキリスト教的な言葉ではありませんが、神さまは、善なのか悪なのか、どちらなのか判断がつきかねる人間を創造なさったのです。

大切なことは、創造物語は二つあるといっても、神さまが人間を造られたということでは一つなのです。この点では、決して揺るぐことがありません。神さまは、わたしたちの良いところも駄目なところもすべてご存知です。神さまにすべてを知られているから、何も繕ったり隠したりすることもなく安心していいのです。そんなわたしたちを、神さまは受け入れて、愛してくださいます。自己矛盾を抱えていても、それを抱えたまま包み込んで下さるのです。人間の創造が二つの視点で書かれたということには、そうした二つの面を持つわたしたちを、神さまが受け入れてくださっているという恵みが語られているのです。

 

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