礼拝説教要旨


2010年7月25日 
世の初めの物語(11) 「あなたの生きる場所」 田口博之牧師
創世記2章8節~2章17



楽園という幻想?

今日の聖書テキストには「エデン」とか「園」という言葉が出てきます。「エデンの園」と聞くと、誰もが「楽園」と想像しますが、実は聖書はひと言も、エデンの園が楽園であるとは言っていません。

楽園と聞くと、花が咲き乱れ、悩みも苦しみもない場所。あるいは、食べたい時に食べ、眠たい時に眠り、遊び暮らせるところといったところをイメージするかも知れません。ところが、聖書には「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。(215)とあります。耕し、守るようにされたということは、人間はそこで働くように、神様が命じられたということです。エデンの園は、一生遊んで暮らせるという意味での楽園ではないのです。

さらに聖書を読むと、エデンの地とは仮想の楽園ではなく、具体的な地理的な場所であるということが分かります。「エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった。」(21014節)とあります。第一の川ピション、第二の川ギホンは聖書のここにしか登場しませんが、どの地域を巡っていたのかとても具体的です。またチグリス、ユーフラテスというのは、メソポタミア文明の生まれたところとして中学の社会科の時間に教わる川の名前であり、確かにイスラエルの東に位置します。聖書は空想の、架空の場所としてエデンを描いているのではないのです。

 

現実のエデン

わたしたちが生きる世は、とても生きにくいところです。現実から逃れたいこともしばしばで、「学校や職場に行きたくない」と思ったことがないという人など、一人もいないと思います。皆、色んなことを我慢しながら、でも逃げるわけにはいかないから、それぞれの持ち場で生きています。そのような状況の中で、誰もがよりどころや慰めを必要としています。何ものにも頼らずに生きていける人など一人もいません。宗教的なものだけでなく、必ず何らかのかたちで救いを求めています。

教会に導かれているわたしたちは、イエス・キリストこそが救いと信じています。イエスさまを救い主と信じた者は洗礼を受け、キリスト者となり、教会という具体的な場所につながるのです。色んな選択肢のある中から、キリスト教を選んだわけではありません。わたしたちが選んだのではなく、神さまがわたしたちを選んでくださって、この道に導かれているのです。

ところが、イエスさまを信じて教会に行くことを、現実逃避とみられる場合があります。家族や友人たちから心配されたり、反対されたりした方もいらっしゃると思います。日本の社会において、教会という場所は現実の生活と離れた場所として見られています。教会に一度も足を踏み入れたことがないという方は、わたしたちが思っている以上に多いです。キリスト教主義の学校に通い、何年も聖書の勉強をしていても、一度も教会に行ったことのない人もたくさんいます。世の人々にとって近づきにくい、具体的に生きる場所になっていないという意味で、教会はこの世にあるエデンだと言っていい。その近づきにくさの一つが、教会が聖なる場所だというイメージです。

 

世俗化などではなく

以前にした説教で、教会の評判というのは外から聞こえてくるが、教会の批判は中から聞こえてくるという話しをしました。その話しを、納得して聞かれた方が多くいらしたように思いますが、ただうなずいて聞いただけでは、説教の言葉が届いたことにはなりません。教会が近づき難いところと思われている中で、そうではないのだということを伝えるのが伝道です。しかし、教会は酒や煙草も禁じていませんから、気軽にどうぞなどと、わざわざ言って誘う必要はないのです。使徒信条で告白しているように、教会は「聖なる公同の教会」であり、教会の交わりは「聖徒の交わり」なのですから。

日本の伝道が進展しない理由の一つに、教会の世俗化があると言えます。キリスト教主義の学校にも世俗化が見られ、理事長、学長、校長のクリスチャンコードを外すということが起きています。ところがそう言い出すのは、クリスチャン理事であったりするのです。新しい風を入れるために、人材を教会の中よりも外に求めようとする考え方は聞こえがいいですが、そのことにより、100年もの間培われた「建学の精神」が瞬く間に崩れていくことが起きてしまうのです。

わたしは、これこそが悪霊の働きだと思っています。悪霊、サタンというのは、わたしたちがイメージすることとは全く違う仕方で誘惑してくるのです。エバが誘惑されていることに気付かなかったように。教会への批判が、教会の外からではなく中から出ることもよい例です。ユダがイエスさまを裏切ったのは、ユダに悪霊が入ったからであると、聖書は語っています。弟子の中に悪霊が入るというのは、教会への警告です。

わたしたちの教会は「伝道する喜びに生きよう」という目標を掲げています。良き知らせである神さまの福音を宣べ伝えることは、本来喜ばしいものです。しかし、悪魔は伝道することを妨げるので。何をしても無駄だ、途方に暮れるだけだと教会員から囁きの声を出させ、教会の内部を混乱させて、伝道する気力を失わせます。その結果、教会は地域の人たちから好意的に見られていたとしても、自分とは関係のないエデンという存在であるのだとすれば、残念なことです。

 

エデンにみなぎる福音

昨日、さくらんぼ子ども会で夜店が行われました。スタートこそよくありませんでしたけれども、結果は子どもの参加が52名、記帳した保護者とスタッフの数を合わせると101名の参加となりました。伝道集会もそうですが、何人の方が集まるのか、やってみなければ分かりません。恐れを持ちつつも、神さまの導きに信頼するならば、時に大きな祝福がプレゼントされるのです。

礼拝では100匹のうち迷える1匹の羊の話をしました。実際に100人集まった礼拝で、このうちの一人が失なわれたら、神さまはその一人をどこまでも探し求めて下さるという話しに耳を傾けました。説教後の讃美歌は、はじめての子も大きな声で賛美していました。説教をした後で、なぜ大人も子どもも一生懸命に聞いたのだろうかと考えました。特別に面白い話をしているわけでも、役に立つ話をしているわけでもないのです。でも、考えて分かったことは、ここで話されていることは、教会以外では聞くことのない福音だということです。神さまは、わたしたちから遠いところにいるのではなく、わたしたちと共にいて、このわたしを探してくださっている。だから聞かざるを得なくなる。そして、エデンの園は想像の世界ではなく、現実の世界にあることを知るのです。

 

教会というエデンに

主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。」(28節)とあります。神さまは、人間が生きていくためにエデンの園という場所が必要だから、わたしたちのために備えてくださったのです。その意味で、教会はまさにエデンの園と呼んでいいのです。そして、この場所ではよりよく生きるために、「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」(215節)という通り、働く勤めが与えられるのです。「耕す」と訳された言葉には、「仕える」という意味があります。神さまのために仕えて生きる。それが人間に与えられたよりよい生き方なのです。教会もまた、わたしたちが何もしないで楽する場所としてではなく、神さまのために奉仕する場所として備えられています。そこに本来あるべき人間の姿があるからです。

子ども会の時のように、汗だくになって神さまのために熱心に働く時、奉仕してよかったと思える喜びが与えられることがあります。わたしたちが思っている以上に、救いを求める人はたくさんいます。皆がよりよく生きたいと思っているのです。教会にあこがれつつも、いろんな意味で教会は敷居の高いところ、行っていい場所なのかと思われています。そのために、教会の方が世俗化の道を選んで近づく必要はありません。わたしたちの救いのために人間となられ、僕としてしかも十字架の死にいたるまでへりくだって下さったイエス・キリストを伝えていく。ここにあなたの生きる場所がある。この教会こそが、あなたの生きるべきエデンであることを伝えていく。これこそが、わたしたちがなすべき伝道なのです。

 

 

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