礼拝説教要旨


2010年10月24日
世の初めの物語(12) 「人が独りでいるのは良くない」 田口博之牧師
創世記2章18節~25



独りでも生きられる?

神さまはアダムを形づくられ、エデンの園に置かれました。おそらく、アダムの様子をじっとご覧になっていたのでしょう。そして言われるのです。「人が独りでいるのは良くない。」(創世記218)と。何故「良くない」のと言われたのでしょうか。この言葉だけで色んなことを思い巡らすことができます。知らない土地で、独りぼっちで過ごして、言いようのない寂しさを味わったこと。あるいは、独りというのはそんなに悪いものではない、誰にも邪魔されないし、気楽でいい。そう思う人がいるかもしれません。しかし、神さまは「人が独りでいるのは良くない。」と言われます。

今日は教会学校に来ている子どもたちもいますが、小学生の子に「独りで生きていきなさい。」と言われても、「そんなこと無理」と思うでしょう。子どもたちは、育ててもらわないと生きられないことを知っています。しかし、高校生くらいになると、独り暮らしに憧れることもあります。実際に、少なくとも元気でいるうちは、人は独りでも生きていけるのです。しかし、神さまは、「人は独りで生きていけるのか、生きていけないのか」を問うているのではありません。神さまは独りでいるアダムを見て、「人が独りでいるのは良くない。」と思われました。それは、「ベターではない」という意味です。言い換えると、人間というのは、他者との交わりの中でこそ、よりよく生きていける存在なのです。

 

助ける者

神さまはアダムに、「彼に合う助ける者を造ろう。」と言われました。そのために、初めに動物たちが形づくられ、アダムのところへ連れて行かれましたが、アダムに合う助けと手とはなりませんでした。

そこで神さまは、女性を造られます。女性は男性が造られた後で、しかも男性の一部から造られたという記述から、聖書は男性上位、女は男に従うものという思想を植えつけた、差別だと批判をされることがありますが、必ずしもそうは言えません。男性の一部で造られたことで、女性が下であるとするならば、最初の人アダムは土の塵から創られたのですから、人間は皆、土の塵より下だということになってしまいます。

18節の「彼に合う助ける者」の「合う」という言葉は、「前に置く」、「向き合う」という意味の言葉です。つまり、女性は男性の後に従う者ではなく、向き合う者として造られたのです。現実に、助ける者というのは、助けられる者よりも力があるから助けることが出来るはずです。男性は、いくら強がっていたとしても、女性の助けがなければ生きられない弱い存在なのです。神さまはそのことを見られたのです。

また面白いと思ったのは、神さまはアダムを助ける者として、最初から女性ではなく、まず動物たちを造られたということです。昨日の日進教会でのいも掘りには、70人を超える人が参加しましたが、犬も1匹来ていました。その犬は、皆の癒し手にはなっていましたが、芋掘りを手伝うなど助け手にはなりませんでした。しかし、人を助ける働きをする犬も実際にはいますから、神さまがまず動物を助け手として連れて来られたことは、意味深いと思います。しかし、向き合うという意味でのふわしい助け手ではなかったのです。

 

交わりの中でこそ

よく言われることですが、人という漢字は、人と人とが支え合っている形をしています。また人間という言葉も、人の間と書きます。人は大勢の人の間で生きていくことで、豊かな人生を歩むことができます。マタイによる福音書1820節で、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」とイエスさまは言われます。独りでいるときにも、イエスさまは共にいて助けてくださることは間違いありませんが、イエスさまは、あえて「二人または三人が」と言われたのです。

この言葉は、聖書を読むわたしたち、教会に与えられた言葉だと考えるべきです。わたしたちは、自分独りでも信仰を守ることはできるかもしれません。しかし、「独りでいるのは良くない」と神さまはおっしゃるのです。信仰生活と教会生活はイコールです。神さまが招いてくださる者たちと共に献げる礼拝の生活によって、共に主を賛美する教会の交わりによってこそ、信仰は養われていくのです。

確かに、教会の交わりは苦手だという人もいるでしょう。でも、得意な人の方が少ないのです。交わりを持つことで、わずらわしさを覚えることも、傷つくこともたくさんあります。でも、マイペースがいいとか、傷つくからいやだ、と言って交わりを拒むその言葉が、周りの人を傷つけしまうのです。

世の中に数ある集まりの中で、教会ほど違う人間の集まるところはありません。何かのサークルであれば、趣味や集まる目的が同じです。年齢も考え方も近い人が集まることが多いのです。しかし教会は、今日も幼児から90歳に近い人たちが集まっています。男性も女性もいる。それは私たちがここへ来ることを選んでいるのではなく、神さまが選んで招いてくださっているからなのです。そして、神さまを賛美するという点において、教会ほどはっきりとした目的を持って、人が集まるところはないのです。

神さまは決して、無理強いをして交わるよう命じているのではありません。すべての者が一緒になって神さまを賛美することで一つになれることが、人間として生きていく上でより良いこと、と言われたのです。先ほども歌いました。「子どもも大人も一緒に、賛美の歌を歌おう 男も女も一緒に、賛美の歌を歌おう」(「讃美歌21171)と。教会は、お互いが向かい合って、そして助け合って生きるということを学んでいける大切な場所なのです。

 

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