礼拝説教要旨


2010年12月26日
世の初めの物語(13) 「深い眠りの中から」 田口博之牧師
創世記2章18節~25



パートナーとして

今日は創世記21825節がテキストです。実は、ここと同じ箇所を10月の礼拝で読んでいます。そのときには、18節の主なる神の言葉「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」この御言葉を中心に聞きました。「彼に合う助ける者」とは、口語訳では「ふさわしい助け手」と訳されていましたが、原語のニュアンスからすると「前に立つ」「向かい合う」という意味になります。その意味でいうと「助け手」と言っても、「ヘルパー」ではなく、「パートナー」です。

人にはパートナーが必要と思われた神さまは、19節以下「野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥」を創造されましたが、これらの生き物はパートナーとはなりえませんでした。そこで神さまは、もう一人の人間、女を造ることとします。「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。(2122)

 

あばら骨から

この記述から、わたしは手術台に乗せられた人の姿を思い浮かべました。「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた」というのは、麻酔をかけた状態と考えることができます。麻酔なしであばら骨が抜き取られたら、大変な痛みです。さらに、手術を受けた人のQOLにも配慮して、傷あとが残らないようにその跡を肉でふさがれる。格別な腕を持つ医師たちがチームを組んで行うような手術が、ここで成されたのです。

ところが、「そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。」となると、わたしたちの経験値ではイメージできない神の創造の世界であることを思います。聖書は科学でなく意味を問いますので、神さまがアダムを深い眠りに落とされたことの意味、何故、頭や手足でなく、あばら骨なのかという意味を考えることが必要です。一見、あばら骨というのは、大した働きはしてないように思えます。しかし、あばら骨には、心臓を守るという重要な役割があります。そして、あばら骨とは胸の骨、胸は人間の感情が宿るところです。好きな人ができて、胸がキュンとなるとか、胸を焦がすという言い方もされます。胸が痛むと言うと感情面の痛みです。女性は男性以上に涙を流すことも多いように、デリケートで傷つきやすい存在です。

しかし、男性はそのような女性の気持ちに鈍いのです。それはきっと、深い眠りの中、意思の働かない全身麻酔のような状態にある時に造られたからではないでしょうか。もしこれが、部分麻酔のように眠りも浅く、どのように造られたのか見ていたとすれば、もう少し理解できたかもしれません。深い眠りの中から造られた女性は、男性の目から見れば分からない不思議な存在なのです。しかし、分からないから惹かれるということがあるでしょう。神さまは、そのようにして、不思議だけれど感情豊かで、パートナーとして向き合える人を造られたのです。

 

異性との出会い

人は言った『ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉、これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう、まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」(23節)。「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」という言葉には、この相手は自分と同質の存在だという意味が込められています。男性のあばら骨から女性が造られた、という表現は実は正確ではないのです。というのも、2章4節から始まる第二の創造物語においては、「」という言葉は一度も出てきておらず、すべて「」と呼ばれています。人、すなわちアダムが、「これをこそ、女(イシャー)」と呼んだことにおいて、自分は男(イシュ)であると認識できた。人は、違う相手との出会いによって、自分が何者であるかを知ることができるのです。

こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(24節)。この言葉は、教会で行われる結婚式でも読まれるように、結婚は神の創造の御業に位置づけられます。一組のカップルが誕生するとき、日本では「不思議なご縁で」などと言われますが、人間の縁ではなく、神さまの業であると信じることが大切です。その根拠となる言葉が、「主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると」(22節)です。たまたまとか、偶然ではなくて、神さまが出会わせたのです。

自分の命は、自分のものだから大事にしていると思うかもしれません。しかし、人間は自分勝手ですので、自分を背負いきれなくなった時に、自分の思いで始末をつけてしまおうとするのです。しかし、自分の命は神さまからあずけられたものと思えば、自分を大切にすることができます。このパートナーは、自分で選んだのではなく、神さまが連れてきて出会わせてくださったのだと思うときに、相手を重んじることができる。

しかしながら、わたしたちは、いつどんな時でも向かい合えない弱さや欠けを持っています。その理由が、創世記第3章で描かれます。聖書は、人間同士、そして神さまと向き合うことができなかった人間の罪の歴史を物語るのです。その罪から解くために、神さまはイエス・キリストをこの世に送ってくださいました。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」とおっしゃられた神さまが、わたしたちのもとへ来てくださった。ここにクリスマスの祝福があります。神ご自身がわたしたちに向き合い、ふさわしい助け手となってくださったのです。そのことによって、神と人との和解、人と人との和解の道が開かれたのです。

 

教会への教え

今日の箇所は、夫婦への教えとして取り上げられるところですが、そればかりではありません。わたしたちは集団生活をします。もっとも近くにいる者と向き合うことができなければ、より大きな交わりの中で平和を保つことはできません。礼拝招詞で、エフェソの信徒への手紙530節以下を聞きました。使徒パウロは創世記2章24節を引用した後で「わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ532)と言いました。教会の交わりも、神さまが出会わせてくださった者たちの集まりです。教会はいつでも二人以上いるところから生まれました。人は独りでは神さまと向き合えないからです。では、教会は人数が多ければ祝されるのか、といえばそうではありません。パウロは、教会の中で起こる問題をよく分かっているからこそ、「キリストと教会について述べているのです」と言ったのです。

わたしたちが、互いに助け合い、向き合いつつ、神さまのほうを向いて生きていくことができるように、イエス・キリストが花婿としてわたしたちのところへ来てくださいました。イエスさまは、神に仕え、人に仕えるとはどういうことか、身をもって教えてくださいました。わたしたちは、イエスさまから、相手を重んじ、互いに仕え合うことを学ぶのです。イエス・キリストのわたしたちへの愛を模範とするときに、キリストの教会が、愛と慰めに満ちた教会の交わりが形づくられるのです。

 

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