礼拝説教要旨


2010年1月23日
世の初めの物語(14) 「罪に誘われて」 田口博之牧師
創世記3章1節~7節



蛇の出現    

創世記第2章までの学びをとおして、わたしたちとわたしたちの住む世界が、神さまによって良きものとして造られたことを確かめることができました。ところが、わたしたちが住んでいる世界には争いがあります。敵意があり憎しみがあります。人間関係で苦しみます。神さまが結び合わせてくださった夫婦でさえ、破綻をきたすことがある。なぜそうなってしまったのでしょう。問題は相手にあるのでしょうか、神さまが何もしてくれないからでしょうか、自分自身には問題はないのでしょうか。その答えとなるものが、創世記3章から4章にかけて記されています。ここには、わたしたち人間の「罪」の本質、「原罪」と呼ばれるべきもののルーツが語られています。

人間が堕落する第一歩は、蛇の出現によって始まります。3章1節に「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。」とあります。この蛇はいったい何者でしょうか。蛇と聞くと、たいていの方が、「気持ち悪い」という思いを持たれるでしょうが、「最も賢いのは蛇であった」とあるとおり、神さまがその賢さを認めておられます。さらには、「蛇は女に言った。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』」(31)とあるように、何とこの時の蛇は、人間と話しをすることもできるのです。イエスさまもまた、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」とおっしゃられるほど、蛇というのは賢いものとして認められています。

あるいは、脱皮を繰り返す蛇は、永遠の命を象徴する生き物として認められています。ある程度の年が経つと、皮がカサカサになりますが、脱皮した蛇の皮は再びつやつやします。羨ましく思うかどうかは別ですが、そうやって若さを保つのです。蛇は不老不死を願う人間の願いの現われとして、しばしば神格化される生き物なのです。

 

巧みな罠

蛇の仕掛けは狡猾でした。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」というエバへの問いの前提となっているのは、アダムに与えられた主なる神の戒めです。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(217-18)。このたった一つの禁止事項が、人間の自由を奪うものとして解釈されることになるのです。

何でも口にしたがる12歳の小さな子どもに向かって、「ああ、それは食べちゃダメ」と親が止める。口に入れてしまったものを出させる。ここで親がしていることは、子どもの自由を奪うことではありません。食べてはダメだからです。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」という戒めの背後にあるのは、神さまの愛なのです。そんなものを食べて死んでしまってはいけない。愛する者に対して、誰もが願う気持ちでしょう。エデンの園は、食べられるものより、食べられないもののほうが多いこの世界と比べ、はるかに住むのにいい楽園でした。神さまが自分たちを守ってくださるたった一つの戒めを守るだけで良かったのです。

そんな人間に対して、蛇は「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」と問いかけます。神さまが禁じられたのは、園の中央にある善悪の知識を知る木一本なのですから、蛇の問い自体いい加減です。しかし、蛇の狙いは園の木に関心を持たせることでした。エバが蛇の言葉を神の言葉に照らしたことで、絶対的であるはずの神の言葉が相対化されることになりました。これまでは、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」という戒めを素直に聞いていたのに、その言葉の意味を考えてしまったのです。「自分たちを愛しているなら、食べると死んでしまうような木を植えることはなかったのではないか。本当は食べてもいいんじゃないか・・・」。

エバは答えました。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。(32-3)。このエバの答えは微妙なところで、正しくありませんでした。神さまは「決して食べてはならない」とおっしゃられたのに、エバは「触れてもいけない」という言葉を付け加えます。さらには、「食べると必ず死んでしまう」とおっしゃった神の言葉に理由付けをして、「死んではいけないから」と説明を加えるのです。

 

隠し事

神さまが与えられた言葉を正しく復唱できなかったエバに向かって、蛇は言います。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(4-5節)と。蛇は「どの木からも食べてはいけない。」との自分の発言を訂正することもなく、善悪を知るものとなることを禁じた神さまへの疑念を抱かせるのです。「そんな神のもとで生きることなどやめたらいい、これを食べると自由になれる。知識を持てるなんて素晴らしいことではないか・・・」と。

蛇の言葉に心を動かされたエバがその木を見ると、これまでとは全く別の木に見えました。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。」(36)。もし、この木の実がまずそうで、においも臭かったら、食べたいと思わなかったでしょう。ところが、誘惑とはいつも美しく見えるものなのです。「女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」(36)とあります。神の戒めは破られました。

二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」(37)とあります。この言葉は、2章25節の「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」という言葉を受けています。神さまに造られた人間は裸でしたが、それで何の問題もなかったのです。しかし、神さまの言葉に逆らい、神様から自由になろうとした途端に、自分たちが裸であることが意識されて、少なくともこの部分は隠さなければ、という思いが起ってきたのです。

今までは、何の隠し事もない交わりが二人にはあったのです。しかし、「食べてはならない木の実」を食べた瞬間に、腰巻きをする必要が生まれました。もしかすると、裸が恥ずかしいのは当たり前のこと、これまでが幼稚すぎたのであって、二人は健全に成長したのだと思うかもしれません。蛇が言うとおり、必要な知識をもち、社会性を得たと思うかもしれません。けれども、エデンの園には彼ら二人しか住んでいないのです。しかも、この二人は神が結び合わせた夫婦だったのです。ですから、このことは、他人に見られるから恥ずかしいという話ではありません。問題は、夫婦の間で隠し立てが始まったということです。それがいちじくの葉で腰を覆ったことの意味です。

 

死から命へ

このようにして、罪に堕ちた人間がその後どうなっていくのか、それがこれからの創造物語の、いや聖書全体の、いやわたしたち自身のあり方に関わる大きなテーマとなっていきます。礼拝のはじめに、ローマの信徒への手紙517節の御言葉を聞きました。「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになった。」とは、まさに今日の箇所のアダムの犯した罪を指しています。その意味で、神さまがおっしゃった「食べると必ず死んでしまう」という言葉は嘘ではなかったのです。「罪が支払う報酬は死です」(ローマ623)とあるとおり、わたしたちは罪に死ぬ者となりました。

しかし、わたしたちを愛される神さまは、わたしたちが死んだままでいることを放っておかれません。ローマ517は、「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」と続くのです。さらに21節では、「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」とあります。

人は皆、生まれたときから死に向かっていると言われますが、神さまを失った人間は、生きていながらも死ぬ存在なのです。そんなわたしたちを救うために神さまは、御子イエスを送ってくださいました。神様がくださる恵みの賜物は、罪とは比較になりません。 

わたしは、イエスさまがいてくださったからこそ、神さまは善悪の知識を知る木を植えられたし、人を唆す蛇を造られたのだと思うにいたっています。人間は蛇のように長生きは出来ませんが、イエスさまと出会う人間は、死んでもなお生きる永遠の命の恵みに生かされるのです。

 

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