礼拝説教要旨


2011年2月27日
世の初めの物語(15) 「責任転嫁の罪」 田口博之牧師
創世記3章8節~13節



罪の始まり

創世記第3章は、人間の堕罪が物語られています。神さまに良きものとして創られた人間が神に背いてエデンの園から追放されてしまう。神に背く罪とは、神さまから食べてはならないと言われていた木の実を食べてしまったことに始まります。たかが木の実ひとつ、されど木の実ひとつです。たった一つの木の実を食べてしまったことで、人間の生活はこれまでと一変しました。

この箇所は、いわゆる「原罪」の教えを基礎づける箇所となってきました。ところが、創世記3章には「罪」という言葉はでてきません。聖書の中で「罪」という言葉は、この後4章7節で、アダムとエバの息子であるカインが弟アベルを殺すところで出てきます。人を殺す、これは明らかな罪です。では、アダムとエバのしたことは罪にはならないのでしょうか。神さまの言いつけに背いたのですから、そんなことはないだろうと思うでしょう。

ところが最近の聖書の読み方の中には、アダムとエバのしたことは罪とは言えない、ましてや「原罪」の教えを導くことなど出来ない。むしろ人間の自立という視点からポジティブ捕らえようとする読み方がなされることがあります。例えばある教師はその説教集の中で「全人類の罪と死の原因を、あの神話の中の「アダムのせい」にしてしまっては、アダムがあまりにもかわいそうです。」とか、「私たち一人一人の苦しみや悲しみ、辛さや痛み、自分の人生にとってやることなすこと全て思い通りにいかないことを、みんな「アダムのせい」にしてしまっていいのか。」と問題提起します。そしてこの説教は、「私はこう思います。神の言いつけにそむいて木の実を食べたことは、神の期待に沿うことではなかったかも知れないけれども、それはけっして罪のせいではない。むしろ人間に与えられた自由を発揮するために必要だった、その自由の責任を担う生き方を知り、自ら選んだということです。」と結んでいます。

 

神学的立場云々でなく

こうした言葉を聞いて、皆さんは何を感じられるでしょうか。面白いとか、共感したという方がいたとすれば、ちょっと考えていただきたいのです。創世記のように、物語性のある聖書の話は、解釈の幅が広がります。わたしは、聖書の解釈は自由でいい、という考え方には慎重です。そういうと、自由の霊の働きを妨げるのか!と批判されそうですが、規範があるからこそ自由が生まれるのです。自由というのは責任を伴うのです。  

更に言えば、「アダムがかわいそう」という考え方の背後には、パウロがローマ書の5章12節以下で語った、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したのです。」この考え方への否定があります。原罪という考え方を否定し、楽園追放は人間の悲惨という考え方を否定して、これは自由への旅立ちであり、その自由な歩みを神は愛のまなざしを注いでくださっているのだと。そういう話の流れは、受け入れやすく、またそういう解釈はキリスト教界の中で認知されてもいます。ところが、この考えをさかのぼっていくと、原罪否定であり、パウロ主義的な教会否定につながるのです。アダムがしたことが「罪の根源とするのはかわいそう」だとすると、先ほどのローマ書5章12節以下に続くイエス・キリストの恵み、十字架の贖罪が無くても構わなくなり、十字架なしのキリスト教というものが生まれてしまうのです。十字架抜きで教会は立ってゆけません。神への背きを罪と認めなければ、やはり話にならないのです。アダムの罪のないところに、カインの罪は出てきません。明らかに一つの線でつながっているのです。

 

神の前に立つ

アダムの罪の本質を見つめる時に、このときにアダムとエバが直面した問題というのが、私たち自身が神の前に問われている問題であることに気づくのです。それは神の前にどう生きるかという問題であり、私たちの日々の生活の中に潜んでいる誘惑との問題です。蛇にそそのかされ禁じられた木の実を食べた二人は、自分たちが裸であることを意識して、少なくともこの部分は隠さなければ、という思いが起こりました。これは、この世界に隠し立てが始まったことを象徴的に描いています。悪いのはアダムだけでもない、エバだけでもなく二人です。神の命令に従わなかったことにおいて二人は共犯です。そこに第三者がいるわけではないのに、お互いいちじくの葉で腰を覆わないと、一緒に居ることができない。隠す部分を持つ間柄になったのです。

それは二人の間だけではなく、神さまに対する隠し立てでもありました。8節にあるように、主なる神が園の中を歩く音が聞こえると、二人は神の顔を避けて園の木の間に隠れるのです。これまでは、神の前に隠れることなどなかったはずです。名前を呼ばれたら、喜んで目の前に走って来て返事をする、そんな関係だったはずです。ところが、ここでは「どこにいるのか」と呼ばれても、顔を隠したままなのです。神さまに背いた今は、裸でいることが平気ではなくなり、園の木立の中に身を隠すしかなくなってしまったのです。

この状態のどこが自由といえるでしょうか。神の戒めを破った者、罪人が神の前に立つことなど、恐ろしくて本来できないことなのです。その意味で、今日わたしたちが神の前に進み出ていることは、決して当たり前のことではないのです。赦されているから御前に進み出ることができる、この上ない恵みが与えられているのです。神さまはここで、アダムを無理やり引っ張り出そうとはされません。裸であることを理由に出て来られないアダムに対して、「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」(11節)と言われます。アダムは本当なら「ごめんなさい」と自分の非を認め、赦しを乞うしかなかったはずです。

ところがアダムは、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」(12節)と答えるのです。食べたことは認めても、食べたことをエバのせいにしているのです。これは言い訳にすぎません。それどころか、「この女を造った神さま、あなたが悪い」と言っているのと同じです。自分で取るべき責任をエバに転嫁し、神さまのせいにもする。ここにアダムの破れが決定的となっています。しかも、アダムの罪はアダム一人にとどまりません。神さまが「何ということをしたのか。」とエバに問うと、「蛇がだましたので、食べてしまいました。」(13節)と、エバもまた自分の罪を認めることなく、蛇のせいにしてしまうのです。蛇もまた、神さまが造られたのですから、ここにも神さまに対する破れが表わされています。

 

自由と責任

ここでのアダムとエバの責任のなすり合いに、神さまの前で生きることをやめた人間の罪深さがあらわされています。自分のしたことの責任を負わず、他の人に責任を押し付ける、それが本当に自由な生き方なのでしょうか。

自由がたくさんあるというのは楽しいことのように思えますが、それだけに責任も増すのです。神さまは私たち人間を自由な意思を持てる者として創造されました。すべての木からとって食べていいと言われながら、食べてはいけない木を一本植えられた。ここでルール作りがなされたのです。このルールなしに、すべてのものから取っていいとするならば、それは本当の自由ではなく無法です。ルールを守るか守らないかを選び取ることにおいて自由が与えられるのであり、その自由には責任が伴うのです。神さまは、ご自分の前に立てる自由な責任ある人間となることを望んでおられます。アダムとエバはこの責任を放棄し、責任を転嫁したのです。

この聖書の物語は、何ら責任を取ることなく人のせいばかりにしているわたしたちの闇を物語っています。アダムとエバの問題は、わたしたち一人一人の問題です。このどうしようもない罪を引き受けてくださるお方がいなければ、罪の問題は解決しません。逆説的とも言えますが、イエスさまの十字架は、人間の責任転嫁の罪の象徴だといえます。神さまは、すべての人の罪を独り子に転嫁されたことで、罪からの救いを計画されたのです。パウロは言います。「従って、今やキリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」(ローマ81)。罪深いわたしたちの救いは、キリストに結ばれること以外にはありません。「あなたはどこにいるのか、隠れていないで出てきなさい。わたしはあなたの罪を赦す。」わたしたち一人一人を今日も呼んでくださる主の御声が聞こえてきます。

 

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