礼拝説教要旨


2011年3月27日
世の初めの物語(16) 「罪の代償」 田口博之牧師
創世記3章14節~19節



原因譚    

 第4主日に創世記を順に学び始めて16回目となります。ただ、もしかすると「創造物語」とか「世の初めの物語」という言い方に、抵抗を覚える方が見えるかもしれません。というのも、一般的に「物語」というのは、作者の見聞や想像をもとに、人物・事件について語る形式で叙述した文学作品を言うからです。だからでしょうか、福音書の中でも、奇跡物語、降誕物語、受難物語という言い方をしますが、ふさわしくないと考える神学者もいるのです。

あるいは、創世記の今日の箇所などは、物語神話だと考える人はとても多いです。

わたし自身かつて、神話扱いされてカチンときたこともあります。しかし今は、創造物語が、人によって考え出された神話であったとしても、それで信じるに値しないとか、その価値が下がることはないと考えています。それほどに、世界の起源や人間存在の意味が見事に説かれているからです。

聖書と科学の違いは、意味を問うか問わないかです。科学が、地震や津波がなぜ起きるのか、そのメカニズムについて説明してもその意味は問いません。今日の聖書箇所は、その意味について少しだけ触れていると思います。しかし、その意味はこうだからと、軽々しく説き明かせるものではないのです。そして、明らかに創世記第3章の楽園の物語は、この世に苦しみがあることの意味を語っています。

聖書学の用語で「原因譚(たん)」という言葉があります。原因譚というのは、ある現象をその原因に遡って説明しようとする物語のことを言います。なぜ塵の中を這い回る生き物がいるのか、なぜ出産は苦痛なのか、なぜ働くことは厳しいのか、何が原因でそうなるのかを物語っているのです。

 

罪との戦い

さて、創世記3章14節から19節では、この章に登場してきた蛇、女、アダムという順番どおりに再び出てきます。けれども、アダムとエバが蛇の誘いによって罪を犯したことを知った神さまが、初めに呼ばれたのはアダムでした。「どこにいるのか。」(9節)と。次に女に向かって「何ということをしたのか。」(13)と、嘆きともいえる呼びかけをします。

二人の答えは、責任転嫁以外の何ものでもないのですが、神さまは言い訳することを許しておられます。ところが14節で、神さまはようやく蛇に向かって言葉を発せられるのですが、それは呼びかけではありません。責任逃れする猶予も与えずにいきなり判決を下すのです。神さまがご自身と向き合う相手として創造されたのは人間だけであって、蛇は初めから応答する相手ではなかったからです。

このようなことをしたお前は あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で 呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。(14)。蛇に向かって、容赦ない呪いの言葉が語られています。「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢い」(1節)と言われていた蛇が、「あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で 呪われるもの」となりました。

そして15節に、「お前と女、お前と子孫との間に わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」とあります。映画『パッション』の冒頭、ゲツセマネの園の中で、イエスさまがサタンの誘惑を打ち払うかのように、蛇の頭を足で踏みつけるシーンがあったことを思い起こします。そのときにイエスさまも踵をかまれたのです。毒蛇にかまれて毒が回って死んでしまうごとく、イエスさまも十字架で死なれましたが、死からよみがえられたのです。

しかし、人間は今もずっと、神のようになろうとする誘惑にさらされ続けています。罪との絶え間ない格闘を、人間と蛇の両者が、互いに相手の頭やかかとを「砕く」という言葉で現されているのです。サタン的な勢力は今も手ごわく、自力で戦える相手ではありません。しかし、神が戦い勝ってくださるのです。礼拝招詞で聞いた言葉のように。「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの惠みが、あなたがたと共にあるように。」(ローマ1620

 

男と女の苦しみ

 神さまは女に対する判決を下します。それは、「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。」(16節)と言うものでした。子どもを産んで母となるということは、女性だけに与えられている唯一ではありませんが、大きな祝福です。しかし、その祝福である出産が、呻くばかりの陣痛を起こすのです。

しかも、「お前は男を求め、彼はお前を支配する。」(16節)とあります。女性は男性に依存するようになり、それゆえに支配される。しかし、もともとは「彼に合う助ける者」として、向かい合い共に生きるパートナーとして女性は造られました。聖書は、女性が出産の苦しみ、男性に従属する存在となったのは、罪の代償だというのです。男性との祝された関係を失ってしまったのです。

そして、17節以下では男性の罪に対する罰が、働くことの苦しみというかたちで与えられたことを告げています。確かに、「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」とある通り、エデンの園の生活にも労働はありました。しかし、エデンの園において苦しみはありませんでした。出産と同じように、本来祝福されていた労働が、罪によって苦しみを伴うものとなってしまったのです。

お前は顔に汗を流してパンを得る 土に帰るときまで。 お前がそこから取られた土に。 塵に過ぎないお前は塵に帰る」(19節)とあります。生活の糧を得るためには、苦労して働かなければならない、それが男性に与えられた罪の代償だというのです。フェミニズム、女性の神学の台頭によって、聖書は男性中心の社会形成を助長したという批判がなされることがありますが、そうではありません。アダムというのは男の名前であると同時に、土アダマから出来た人を指す言葉です。ここで語られている出産の苦しみ、労働の苦しみは、人間の命に関わる苦しみなのです。「神に頼らず、神のようになろうとした」人間の罪に対する裁きがなされたのです。

 

被造物も助けを求める

お前のゆえに、土は呪われるものとなった」(17節)とあります。ここで聖書は、人間の罪の結果、神さまと人間との間、人間同士の間だけではなく、大地と人間との間にも深い亀裂が生じたことを語るのです。人間が神に罪を犯した結果として、すべての被造世界の中に、ひずみを生じさせてしまったのです。

パウロは人間の罪が自然世界へと及ぼす問題を見つめました。ローマの信徒への手紙の8章20節に「被造物は虚無に服しています」。21節では「滅びへの隷属」と表現しています。これは、人間の罪のゆえに大地が呪われるものとなったことを指し示しています。人間は、神に造られた被造物の代表として、全被造物を支配、管理すべき務めが与えられていました。けれども、神さまとの関係を失ってしまうことで、被造物全体が、虚しいもの、滅びに支配されたものとなってしまうというのです。

しかしながら、パウロは人間の罪を指摘するばかりでなく、救いへの希望を語ります。「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。」(ローマ820)と言うのです。「なぜ、このようなことが」としか言えないような破壊的な災害が起こったとしても、神様のご意志から離れて行われたことではない、神の秩序が破壊されたのではない。そう信じるときに、回復への希望が与えられるのです。

19節に「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」とあります。21節には、「いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」とあります。神の子たちが現れることが、被造物が苦しみから解放されるための希望なのです。「神の子」と呼ばれるわたしたちの出現が、望まれているのです。イエスさまに罪を赦され救われた者として、何をすべきかが問われているのです。わたしたち自身の力はとても小さくても、神さまが大きくしてくださいます。わたしたちにできることは、少なくないのです。

 

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