礼拝説教要旨


2011年5月29日
世の初めの物語(17) 「エデンの東へ」 田口博之牧師
創世記3章20節~24節



命あるものとして

創世記320節以下は、アダムとエバの二人が罪の裁きを受け、エデンの園から追放されるところです。ここには判決の執行という結論しかない、そんな読み方もできます。しかし、繰り返し読んでいくと、とても豊かなメッセージに溢れていることに気づかされます。

20節の「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。」この1節だけをとってもそうです。19節では、死が語られていました。土の塵から造られた人間は、土の塵に返ってゆく。罪を犯したゆえの人間のはかなさを思います。しかし、その直後に、死に定められたアダムは女をエバ(命)と名付けたのです。エバという名は命あるものの母、希望の象徴です。人間の命には限りがあるけれども、与えられた命を育んでゆける存在として生きることがゆるされました。

さらに23節では「主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。」とあります。神さまは追放しておしまいというのでなく、生きるための場所を与え、労働して糧を得る人生の目標を与えてくださったのです。原初の物語ですけれども、わたしたちの人生そのものが語られていることを思います。このことを思うとき、地震、津波ですべてを破壊された方、放射能漏れにより土が汚染されて、土を耕せなくなった方、その土地に住むことすらできなくなった方たちは、どれほど辛いことだろうか、そう思うだけで涙が出てきます。わたしたちに当たり前のように備えられている日ごとの糧が、当たり前でない人たちが、同じ日本に何十万人とおられることを思うとき、主の祈り「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」を心からの祈りとしなければと思います。

 

神さまの配慮

主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(21節)とあります。「恥ずかしがっているのは、お前たちが罪を犯した証拠なのだから」と責めるのではありません。いちじくの葉の腰巻では可哀想すぎると思われた神さまは、生地を提供しただけではなく、神さま自ら皮の衣を作って着せてくださったのです。これ以上ないオーダーメイドです。ルカによる福音書の放蕩息子のたとえ話しで、父親が帰ってきた弟息子のために、最上の着物を着せてあげる場面を思い起こします。

皮の衣について思い巡らすうちに、もう一つ気付かされたことがあります。神さまは何もないところから皮の衣だけを作ることも出来なくはないでしょうが、それよりも、一匹の動物を殺して、その皮を用いて衣を作ってくださったと考える方が自然ではないか。すなわち、神さまがアダムとエバの罪を覆う衣を着せられた時より、動物の命を犠牲とした贖いが始まったのです。イエスさまが、世の罪を取り除く神の小羊として十字架で死んでくださった日が来るまで。

24節に、「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」とあります。ケルビムというのは、旧約聖書にしばしば登場する表象ですが、十戒を納めた契約の箱の蓋の上に、一対のケルビムが据えられたり、至聖所に入る垂れ幕にケルビムが織られたという記述があります。これらは、ケルビムが罪ある人間が聖なるものに近づかせない目的であったことの証です。人間が自力で楽園に帰る道は閉ざされてしまいました。

ところが、神ご自身が楽園への道を開いてくださいました。イエスさまが十字架に死なれたとき、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。」(ルカ2345)と福音書記者は伝えます。ケルビムが織られた神殿の垂れ幕が裂け、人間が神に直接近づける道が開かれたのです。そして、イエスと同じ時に十字架に貼りつけられた囚人への言葉が実現しました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ2343)。イエス・キリストの犠牲によって、楽園の東に置かれたケルビムが取り払われ、命の木に至る道への守りが解かれたのです。

 

命の木

そう考えていくと、「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」(22節)とありますが、この命の木とは、これを口にすることで、滅びることのない肉の体が与えられるという話しではなく、イエスさまに結ばれたわたしたちに与えられている永遠の命のことを言っているのではないか。それは人間の側で掴み取れるようなものではなくて、イエス・キリストの十字架の時まで待つ猶予が、神が定められた時を待たなくてはならなかった。そのような意味があるのではないかと思わされます。

今日の礼拝の招詞で、ヨハネの黙示録22章の御言葉に聞きました。2節に、「川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。」(24節)とあります。

罪のため神と向き合えなくなっていたアダムとエバ。御顔の祝福を求めつつも、預言者エリヤでさえ、神が近くを通るときに顔を覆わねばならない時代が続きました。イエスさまの救いに与ったわたしたちも、おぼろながらにしか神の顔を見ることはできません。けれども、終わりの時には、顔と顔とを合わせて神さまのもとで永遠に生きる者とされるという、素晴らしい約束が与えられているのです。

 

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