礼拝説教要旨


2011年6月26日
世の初めの物語(18) 「不条理の問題」 田口博之牧師
創世記4章1節~8節



殺人という罪

創世記第4章はカインとアベルの物語です。アダムとエバは、神さまに背く罪を犯し楽園から追放されました、しかし、神さまの配慮の中で生きることを許された二人は、カインとアベルという二人の子を得ます。ここに人類最初の家族が誕生します。子が与えられる、家族を持てる。幸せなことだと思います。しかし、家族という最も親しく、大切な交わりにおいてこそ、人間の罪というものが具体的な形となって現れます。兄弟間での殺人という深刻な事態が生まれてしまったのです。

考えれば考えるほど恐ろしいことです。世界でたった4人、一家族しかいない中で、誰が教えたわけでもなく殺人が起きてしまっている。その殺人を引き起こしたものは、神に背く罪以外の何ものでもないことが、ここに語られています。それが神なき世界、現代に通じるエデンの東の現実なのです。

なぜ兄カインは弟アベルを殺したのでしょうか。2節に「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。」とあります。イスラエルは基本的に牧畜民であり、カナンに定住するにあたって農耕の生活へと移行します。このカインとアベルの物語の一つの背景には、イスラエルが農耕生活を始めるようになってから信仰的に堕落したという歴史的理解のあることは否めません。「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。」(4節)とあるのはその現れでしょう。けれども、それは物語の背景の一つに違いないと思いますが、何故神さまがカインの献げ物に目を留められなかったのか、理由を説明するものではありません。

 

献げ物の問題?

このことは大きな謎とされ、新約聖書にも引き継がれています(ヘブライ114、Ⅰヨハネ312等)。しかし、新約で語られていることは、その文脈において理解すべきことです。創世記を読む限り、カインの献げ物に問題があったとか、カインの行いが悪かったなどとは書かれていません。聖書は、神さまがなぜアベルの献げ物だけに目を留められたか、その理由を語っていないのです。そもそも、神さまが献げ物に目を留めるとは、その人に与えられる具体的な祝福のことでしょう。一方は富み、一方は貧しくなる。しかし、そういうことは、わたしたちの周りにいくらでもある話でしょう。その理由を聖書に求めて、答えが見つかるでしょうか。

わたしたちは、持って生まれたものがあります。健康に生まれた人がいれば、病弱な人、障害を抱えて生まれる人がいます。努力ではどうにもならないものがあるでしょう。同じ兄弟でも、全く違うということだってある。「カインは激しく怒って顔を伏せた」(5節)とは、「なんで弟のように、自分はうまくいかないのか。自分だって一生懸命やっている。真面目に生きている。理不尽ではないか。」そうした思いが映し出されているのです。成功している友だちを羨む、幸せそうにしている人を妬ましく思うことなど、誰もが経験するでしょう。献げ物に目を留められないカインに同情し、一緒になって不条理きわまりない現実に文句を言ってしまうことを、わたしたちもするのです。

わたしたちの周りで起こる出来事には、説明のつかない出来事がたくさんあります。東日本大震災にしても、神さまはなぜこのような災害が起こることをお許しになるのか。これも神さまのご支配の中で起こったことであるなら、その御心はどこにあるのか。どれほど考えても、万人が納得できような説明はできないのです。親しい者から、キリスト教の神は全能の神ではないのか!と言われ、その人が求める答えを提供できないと「き、わたしたちは信仰があるゆえの苦しみを覚えます。その時に、顔を伏せて、神なしの世界に一緒に逃げ込んでしまうのでしょうか。

 

ここにこそ不条理が

「不条理の問題」という説教題をつけました。わたしたちは、カインが感じたであろう不条理に同情し、共感することがあると思います。しかし神さまは、かつてモーセに言われたように、「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとするものを憐れむ」(出エジプト3319)お方です。神さまは自由な思いで、アベルを選ばれ慈しまれたのです。人生の不思議も災害の謎も、わたしたちが合理的に理解することはできません。けれども、人間の目には不条理と思える神さまの計画の中で、神さまの救いのご計画は実現していきます。

カインとアベルの物語から、わたしたちが不条理だと共感していいとするならば、それはカインの思いではありません。不条理に怒るとすれば、カインの罪により殺されてしまったアベルの死に対してです。カインは、「顔を上げなさい」という神さまの言葉を聞くことができず、アベルを殺してしまったのです。そのようなカインに、どうして同情できるでしょうか。

また、そのように考えていくと、カインの罪によって殺されたアベルと、わたしたちの罪のために十字架に死なれたイエスさまとがつながるのです。わたしたちが不条理の問題に悩むとするなら、それはカインに心を合わせることでなく、アベルの死に対してであり、わたしたちの罪を背負われて死なれたイエスさまに対してです。世の歴史の中で、イエスさまの十字架の死以上の不条理はない筈です。神の独り子が「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死なれたのですから。

しかし、わたしたちの目には不条理であっても、神さまのご計画のうちに運ばれたことだったのです。イエスさまの十字架を見上げるとき、不条理への苛立ちはかき消されていきます。不条理に苦しみ、不条理に怒りを燃やして、アベルを殺したカイン。しかし、神さまは、罪を犯したカインにしるしをつけて守ってくださるように(16節参照)、わたしたち一人一人を見守っていてくださるのです。

 

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