礼拝説教要旨


2011年7月24日
世の初めの物語(19) 「探される神」 田口博之牧師
創世記4章1節~16節



人を見てしまう過ち

カインとアベルの物語の2度目の学びです。先月は前半部分にスポットを当て「不条理の問題」を主題に学びました。カインとアベルの兄弟は、共に神さまに献げ物をしたのですが、「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。」(4節)のです。カインが献げ物をしなかったのなら分かりますが、そうではないのです。不公平のように感じて当たり前です。ところが、先月の礼拝後の「分かち合いの時」の感想を聞くと、少なくともそこに出られていた方たちは、カインに共感していないことを感じました。理不尽なこと、不条理に思うことはあって当たり前と、感じられていたのです。

話しを聞きながら、これはキリスト者の特権かもしれないと思いました。この世には信仰がなくても、不条理と思えることを自分に与えられた試練と受け取り、懸命に生きておられる方はたくさんいらっしゃいます。立派だなあと、わたしも思います。でもそれとは違う意味で、キリスト者は「なぜ自分に」と思う苦難が襲ってきても、それは神さまが自分に必要なものとして与えて下さったと受け止めることができるのです。そうすると、「どうして自分だけが」とは思わなくなります。「自分だけが」と思う時には、必ず人を見てしまっているのです。

カインは当然と言えば当然ですが、キリスト者ではありませんでした。7節「激しく怒って顔を伏せた」理由は、横にいるアベルの献げ物が受け入れられるのを見たからです。横を見なければ、今度は受け入れてもらえる献げ物をしようと思ったはずです。カインは自分の献げ物を受け入れなかった神さまに腹を立てたのではありません。アベルの献げ物は受け入れたのに、自分の献げ物は受け入れなかった神さまに腹を立て、献げ物を受け入れてもらったアベルに嫉妬したのです。

 

関係性を問う

9節で、「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」と主に問われたとき、カインは「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」と答えます。カインの答えは、実にふてぶてしいです。こう答えたとき、すでにカインはアベルを殺してしまっているのですから。カインの殺意が計画的なものであったのか、衝動的なものであったのか、「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。」(8節)という聖書の言葉だけでは分かりません。計画性があったかどうか、それはこの世の裁判の判断基準としては問題となりますが、聖書はそのところは問題にしていません。

お前の弟アベルは、どこにいるのか。」とは、刑事ドラマの事情聴取のようにも聞こえますが、これがもし事情聴取であれば「死体をどこに隠したのか」と問うたでしょう。神さまはカインがアベルを殺してしまっていることは分かっているのです。しかし、そう尋ねられなかったのは、カインに罪を告白してほしかったからに違いありません。

この神さまの問いかけは、神さまがアダムを探されていた時の「どこにいるのか」(3章9節)の問いと響き合っています。「どこにいるのか」とは関係性を問う言葉ですけれども、罪を犯したアダムは神さまから身を隠し、カインはアベルを殺しました。隠れるということも殺すということも共に関係性の拒否です。神と共に、そして隣人と共に生きることのできない人間の悲惨がここに語られています。

キリスト者は神さまとの軸、すなわち関係が出来ているところでぶれない生き方ができます。しかし、それと共にわたしたちは隣人との関係性の中に生きています。イエスさまが最も大切な戒めとして神を愛し、隣人を愛す、この二つを一つのこととして教えられたように、わたしたちも、神さまとのタテ軸と共に、隣人(人間関係)のヨコ軸を確かなものとする時、自分の立ち位置はより明確になります。十字架のかたちは、そのことを示しているとも言えます。「知りません。」と答えたカインは、神さまとの関係、隣人との関係が完全に破綻してしまう状態に陥ったのです。

 

神は守ってくださる

すると神さまは、「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。」(10節)と答えます。11節以下に続く言葉からも、カインの呪いが叫ばれているように聞こえます。けれども、この言葉から慰めを聞きとることはできないでしょうか。神さまは死んでしまわれた方の叫びを聞きとってくださる方である、という意味において。

無念としか思えない死を迎えられる方が、たくさんいらっしゃいます。志半ばで若くして亡くなる人、事故や災害に巻き込まれて、あるいは戦争で死んでしまう人、殺されてしまう人。けれども神さまは、その人たちの声を聞いてくださるのです。遺体が見つからないままであったとしても、神さまはその声を聞いていてくださり、どこにいるのか、知っていてくださるのです。

お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」(12節)。主の判決を聞いたカインは、ここにいたって「わたしの罪は重すぎて負いきれません。」(13節)と、罪を自覚します。そして、神さまの御顔を避けて逃げていたのに、御顔が隠されることに不安になるのです。これまで強情であったのに「わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」と気弱になっていきます。

しかし、神さまはそんなカインの嘆きに応えられ、「カインにしるしを付けられた。」のです。犯罪人であることを示すためではなく、カインを守るためのしるしです。人を殺した者は律法によれば死刑ですが、神さまの御旨は罪人が生きることにあるのです。カインにつけられたしるしは、罪人が神さまの恵みを忘れないようにと、与えられたしるしです。

かつて罪の奴隷だったパウロは、「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」(ガラテヤ617)と告白して、キリストの僕としての新しい人生を生きる者へと変えられました。イエスさまがわたしたちの罪を背負って十字架につけられたのは、これを信じ、告白する者たちのために「あなたの罪は赦された」というしるしを与えるためなのです。教会が掲げる十字架は、わたしたちが守られていることを証しするしるしであり、その十字架のもとに、わたしたちは今も集められています。

わたしたちが真実に罪を告白できるようになるのは、このわたしの罪のために、イエスさまが十字架に死んでくださり、このわたしが新しく生きるために、イエスさまがよみがえられたことを知る時です。この恵みに立つとき、わたしたちは悔い改めと感謝が生まれ、神さまを礼拝するため自分の体を献げることができます。神ご自身が、わたしたちのために、御子を献げてくださった。この出来事を見つめるとき、小羊を献げ物としたアベルとその献げ物を神さまが受け入れられたことの意味も見えてきます。

 

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