礼拝説教要旨


2011年10月23日
世の初めの物語(22) 「祝福と希望」 田口博之牧師
創世記8章6節~9章17節



鳩を放すと

合同礼拝では、ノアの箱舟の物語を続けて学んできました。わたし自身は4回に分けてお話しするという計画を立てていましたけれども、CS教師会の話し合いを経て3回にしよう、ということになりました。よって、今日は洪水後の8章と9章の御言葉を一度に聞くことになりました。

洪水がおさまって40日経ってから、ノアは箱舟の窓を開き、烏を放しました。烏は大変賢く、磁力を感じて飛ぶ方向を決めているという話しを聞いたことがあります。羅針盤のなかった時代、航海に出る船は烏を乗せて出たというのです。しかし、飛び立った烏は、「地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。」(87)とあり、行き先を定めることができませんでした。

ノアは次に鳩を放しました。しかし、水が全地の面を覆っていたままだったので、止まるとまるところが見つからず戻ってきてしまいました。そして、更に7日待ってから、ノアが再び鳩を箱舟から放すと、今度はくちばしにオリーブの葉をくわえて戻って来ました。洪水からずいぶんと経って、水が引いてきて陸地が現れ、植物が育ってきたからです。新しい命が芽吹いたことのあかしです。やがて、オリーブの葉をくわえた鳩の姿は、平和の象徴としてみなされるようになりました。

 

箱舟から出るとき

さて、ノアは更に7日待って、もう一度鳩を放します。すると、「鳩はもはやノアのもとには帰ってこなかった。」(812)とあります。今度は、オリーブの葉を加えて帰ってこなかったのです。しかし、それは残念なことではなく、新しく生きて行ける場所ができたことを意味します。ノアたちも、もう狭い箱舟にいなくていい。広い大地で暮らせるようになったのです。

では、ノアたちは、すぐ箱舟から出たのでしょうか。13節に「ノアが六百一歳のとき、最初の月の一日に、地上の水は乾いた。ノアは箱舟の覆いを取り外して眺めた。見よ、地の面は乾いていた。」とあります。外はもう乾いていたのに、ノアたちは眺めただけなのです。昨日の日進での芋ほりの時のように、長靴でないと足がズボズボはまって大変なことになりそうだから、待機したのではありません。それから二ヵ月たち「地はすっかり乾いた」(814)のに、外に出ず狭い箱舟の中にいる。どうしてでしょう。

神さまはノアに言われます。「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。」(816)と。神さまが、ノアたちを守るために、箱舟の後ろの戸を閉ざされたのです。それゆえにノアは、神さまが「箱舟から出なさい」とおっしゃるのを待っていたのです。無垢で正しいノアは、そこまで神さまの言葉に忠実でした。こうして、ノアたちは、大洪水がおこってから、およそ一年間の箱舟の中での生活から解放されたのです。新しい世界の最初の人として、地上に降り立ちました。

 

新しい祝福

そして、神さまはノアとその家族に祝福の言葉をお与えになります。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(91)と。この言葉は、創世記第1章28節で、神様が人間にお与えになった祝福と同じ言葉です。洪水によって古い世界が滅ぼされ、新しい世界が始まるに際して、神様はこの祝福を再び与えて下さったのです。

ところがその祝福は、天地創造の時の祝福と同じではありません。神さまは、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」(821)と言われました。神さまは、ノア以降の人類がもう罪を犯さないで、正しい歩みをしていくとは思っていないのです。確かに、幼子でも悪さをします。ダダをこねます。大人になるにつれて、ますます悪くなる。そのような人間は、何度でも洪水によって滅ぼされたとしても仕方ないのです。洪水の後も、人間は変わらない。しかし、人間に対する神様のお考えが変わったのです。罪人である人間が築く世界に、なお祝福を与えることを決意して下さったのです。

神さまは、祝福を与えるというそのご決意を、ノアとその家族、また箱舟を出て新しい世界を生きていく全ての生き物との間に、契約を結ぶという仕方で示して下さいました。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。」(99)と言われ、具体的な契約内容を11節に示します。「わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」神さまはそう約束して下さったのです。

東日本大震災の後で、色んな発言を聞きました。地震、津波の理由について、有識者の中でキリスト教信仰のない方であっても、神が人間の文明への過信に対して、自己本位の考え方にメスを入れられたのだ。そのような発言です。そういうことはあるかもしれないと思います。ところが、そう思うということは、そういう考え方をした方が、納得しやすいからなのです。この世を愛してくださる神さまが、ご自分の意志で、生き物を打つようなことはありません。にも関わらず、人間が神さまの思いを計って、こうだからと、説明することはできないのです。このことは、よく踏まえておく必要があると思います。

 

契約のしるし

 「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。(913)。「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。(916)。神さまは、そうおっしゃいます。雨が止み、日が出たときに見られる虹は、ノアの洪水の後の新しい世界の始まりにおいて、神さまが人間の罪のゆえに世界を滅ぼすことは二度としないと約束された祝福のしるしです。神さまが虹を見るたびに、この契約を心にとめて、この契約を思い起こし、この契約に生きようとする志を新たにしてくださるというのです。

そのようなわたしたちも、神さまとの契約を思い起こせるときがあります。それが聖餐です。子どもたちにとっては、ただのパンであり、ただのブドウジュースでしかないけれども、イエスさまと結ばれて、新しくされた者にとっては、これはまことにキリストの体であり、キリストの血なのです。神さまが虹を見てノアとの契約を思い起こすように、わたしたちは聖餐に与ることによって、キリストの救いの契約を思い起こすのです。契約に生かされている事実を心に刻み、この契約の中に生きるのです。

ノアの時代の洪水は、祝福と契約によって終わりました。つまり、裁きと滅びが終わりではない、目的ではないということです。裁きはあっても、それは新しい出発、救いの御業へとつながっていくのです。生きていると、様々な嘆きや悲しみを経験しますが、それは最終的なものではないのです。イエス・キリストの十字架が、復活・昇天へとつながっていくように。最後の審判も、信じる者にとっては、救いの完成へとつながっていくのです。

 

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