礼拝説教要旨


2011年11月27日
世の初めの物語(23) 「洪水の後で-ノアとその末裔」 田口博之牧師
創世記9章18節~10章32節



祝福の後で

ノアの箱舟の物語を読んできました。前回は神様が虹を置かれて、洪水によって滅ぼしはしないという祝福と約束の御言葉が語られました。ところが聖書というのは、日本人が好きな、めでたしめでたしでは終わらせないところがあります。9章18節以下には、洪水後に新しい生活を始めたノアとその息子たちに関するエピソードが語られていて、ここがノアの物語の本当のしめくくりとなるのです。

9章20節に、「さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。」とあります。このことは、アダムの罪のゆえに、土が呪われるものとなったこと(317)。この土の呪いもあって、カインの献げ物に、主が目を留められなかったこと(45)。そして、アベルの血が流されたことによって、「土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。」(411)と言われたことからの解放です。洪水後の新しい世界において、呪われていた土から実りを得ることができたのです。汗して働いたことが、無駄とはならない時代が訪れたのです。

ところが、神の恵みの産物として与えられたぶどう酒に、ノアは酔っ払ってしまうのです。キリスト者の中に「聖書はお酒に酔ってはいけないと書いてあるが、飲んではいけないとは書いていない。だから飲んでもいい」そう言われる方がいます。確かにこのところから、お酒はほどほどに、という教訓を得ることはできます。

 

父と息子

けれども、この箇所をよく読むと、ここで問題とされているのは、ノアが酒に酔ったことであるとか、みっともない姿をさらしたことではなくて、ノアの裸を目撃した三人の息子たちが、どういう態度を取ったか問われていることが分かります。

ノアの三人の息子たちの名は、セム、ハム、ヤフェトでした。その中で、父ノアの醜態に最初に気付いたのはハムです。「カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟たちに告げた。」(922)とあります。その知らせを聞いた「セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。」(923)とあります。後ろ向きに歩くとは、異様なほどの慎重さです。

親子の問題と言うと、十戒の第5戒「あなたの父と母を敬え」を思い起こします。ハイデルベルク信仰問答を開くと「第五戒で神が何を望んでおられますか」という問いに対して、「彼ら(=親)の欠けをさえ忍耐すべきである、ということです。」と答えていました。

親の批判をすることほど簡単なことはありません。親がどれだけ立派であっても、子どもというものはそもそも批判的に見るものです。父親と息子の場合は特にそうです。偉そうなことを言っているけれど、実際はこんなことではないか。このことが、いわゆる信仰の継承の一つの妨げになっていることは否めないでしょう。そうしたなかで、ハイデルベルク信仰問答にある「親の欠けをさえ忍耐すべきである」という教えを、封建的で時代にそぐわないと考えるか、いや家族が簡単に崩壊していくような時代だからこそ大切と捉えるか、あらためて問われるところです。

 

倫理・道徳の問題でなく

しかし、この箇所が語ろうとしているメッセージの中心が、お酒の問題とか、親と子の問題と考えることも早計です。9章18節以下は、ノアの物語のエピローグであると共に、ノアから始まる洪水後の人類の歩みのプロローグと位置づけることもできるからです。

10章では、ノアの三人の息子たちから、様々な民族が地上に広がっていったことが系図によって語られています。2節から5節にはヤフェトの子孫のことが、6節から19節にかけて、問題となったハムの子孫のことが、21節以下には、セムの子孫のことが語られています。洪水によって全ての人間が滅ぼされた後、ノアの三人の息子たちから全世界の諸民族が増え広がったことを10章の系図は示しているのです。

その系図に先立つものとして9章18節以下があり、ここには、諸民族の間になぜ対立が起こるのか、その原因譚が語られていると考えていいのです。ハムのことが「カナンの父」と呼ばれている理由、呪いの言葉がハムではなくカナンに向けられているという問題もすべて、10章に語られる諸民族とイスラエルとの対立が反映されています。イスラエル(セムの子孫)が約束の地に入るとき、そこにはカナンの先住民族が住んでいました。そこで生まれる対立関係が「セムの神、主をたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ」(26)という言葉で表されているのです。

 

対立を乗り越えるもの

 しかし、忘れてはならないことは、これらの民族は全て、洪水から救われて、新しい世界の担い手となるために選ばれた人々の子孫だということです。洪水後の神さまの祝福と約束は、ノアとその三人の息子たち全て、ハムの子孫、カナンの子孫にも与えられているのです。10章の系図で広がりを見せている諸民族は皆、神さまの祝福の中に置かれているのです。そうであればなぜ、民族の間に争いが生じてしまうのでしょうか。

世界の歴史の中で、国や民族の間に起こっている争いや対立はすべて、神さまではなく人間が生じさせたものです。イスラエルとパレスチナの対立について、これは宗教の対立だという批判がしばしばなされます。世界の宗教の中心地なのにどうしてと言われる。そう問われたとき、わたしは宗教の問題ではないと答えてきましたし、事実、宗教的なこと以外の複雑な問題が絡んでいます。

しかし、わたしたちが複雑に思うようなことが、実は単純であるということを、今日のメッセージから読み解くことができないでしょうか。「カナンは呪われよ」(925)の言葉は、創世記のこれまでに登場していた呪いの言葉とは決定的な違いがあります。カナンを呪ったのは神さまではなく、ノアだからです。ノアのしたことは、自分に問題があったことをさて置いて、自分を馬鹿にした子どもに八つ当たりしたようなものでしかありません。世界の歴史を振り返るとき、そのような人間の身勝手な思いが、争いや対立を引き起こしてしまっていることを思います。

けれども、人間の呪いであるなら、それは絶対的なことではありません。地上では様々な争いや対立があり、わたしたちの身近なところでも対立はおこります。しかし、神さまに真剣に解決を求めれば道は開けると信じます。ノアに果たした神様の祝福は無効になっているわけではありません。神さまの祝福は、この後11章の系図に出てくるアブラム(=アブラハム)、やがてダビデを経て、イエス・キリストへとつながります。

神さまの御心は、神の御子イエス・キリストが地上に来てくださったことで実現しました。キリストの十字架が隔ての壁をなくし、争っている双方を神の前に和解させるのです。洪水後の世界以上とは比べ物にならない祝福が与えられているのです。その祝福の源となるのは教会です。教会には和解の言葉が委ねられ、キリスト者には和解の福音に奉仕する務めが与えられているのです。イエス・キリストの十字架にのみ真の平和があるのです。

 

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