礼拝説教要旨


2012年1月22日
世の初めの物語(24) 「バベルの塔」 田口博之牧師
創世記11章1節~9節



言葉を混乱させる神

「バベルの塔」の物語は、キリスト教学校に学ばれた方とか、聖書を少し読まれた人であれば、ストーリー自体はご存知なのではと思います。今日はじめて読まれた方でも理解しやすい話です。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。」114)とした人間の不遜を打ち砕くために、神さまは人々の言葉を通じさせないようにし、塔を作るのをやめさせた。その結果、人々は世界に散らされて様々な言語が出来るにいたった。そのような内容であることを。

しかし、「バベルの塔」の主題は、人間の欲望に対する神の裁きなのでしょうか。世界にたくさんの言語ができたという原因譚が語られているでしょうか。言語についていえば、すでに洪水後の世界において、ノアの子どもたちセム、ハム、ヤフェトの子孫がそれぞれの地域に住んだことで、すでに言語が分かれたことが語られています。住む場所が異なれば、使う言葉が違うのは自然なことですから、神さまの裁きの帰結と捉えるとおかしなことになるでしょう。

確かに「バベルの塔」の物語の主題が「言葉の混乱」にあると考えることは、間違いではありません。1節「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」で始まり、9節「主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである」と結ばれていることでも明らかです。

そして、この物語の中で、主ご自身が語られていた言葉は、6節から7節です。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」とあります。主ご自身が問題とされていたのも「言葉」だったのです。

 

一つであることの問題

考えてみると、人間の欲望に対する裁きであれば、言葉を混乱させるという方法でなくてもよかったはずです。神さまは「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。」(116)と、彼らの使う言葉自体を問題としています。それゆえ「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」(117)とされたのです。

その一方、教会では、一つになるということを理想とするところがあります。「思いを一つに」、信仰の一致を課題とする教会は多いのです。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話している」この言葉だけ取り上げれば、結構なことではないかとさえ思います。ここで問われているのは、どのような言葉で一つになっているのかということです。

民主化への波が世界で広がっている一方、未だ国家統制されている国があることを思います。統制された状態というのは、バベルの塔の文脈で言うならば、「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから」だと言えるでしょう。そういう意味での一致は、負の状態です。わたしたちも、混乱した方がその国の人々のためにもいいのではと思う。ところが、人間が集まって革命という形で起こせば、どうしても暴徒と化し、血が流されるのです。しかし、バベルの塔においてはそうではありませんでした。「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」神ご自身が「言葉を混乱させる」という仕方で、町の人々を解放したのです。

主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。」とあります。言葉を混乱させ、人々を全地に散らすという仕方で、「塔のある町を建て、有名になろう」としていた、彼らの企てに終止符を打たれたのです。神さまがなさったこの方法は、人々のコミュニケーションを断ち切ったという点では、裁きとなりました。しかし、神さまの御旨にそう方向へと人々は導かれたといえるのです。

 

散らされるということ

何故なら、この物語の主題は「言葉」以外に、もう一つあることに気付かされるからです。キーワードは「全地に散らされ」です。そもそも、人々がバベルの塔を築こうとした動機は、「有名になろう」という欲望ばかりではありませんでした。人々が、「全地に散らされることのないようにしよう」と言った。」とあるとおり、散らされないようにすることが、人々の目標だったのです。その思いには、有名になろうという欲望以上の傲慢さがあるのです。神さまのご意志は、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」(創128)とあるとおり、ひと所に固まらないで、地に満ちることだからです。

全地に散らされることのないように」というのは、人間が世界に増え広がることを望んでおられる神の思いに逆らうことだと言えます。天高くそびえる塔を建てることで、この町が有名になるということは、この町が栄えるということでしょう。経済原理として悪いことではありません。ところが、人々が都会にとどまり、地方に出て行かないとなれば、それは「地に満ちよ」と言われる神さまの思いに逆らうことです。神さまは、互いの言葉が通じるという居心地のよさに甘んじさせるのでなく、神さまが見て、「良し」とされる祝福に導くために、彼らの言葉を混乱させ、散らされた。そう考えることはできないでしょうか。

ですから8節以下で「主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」とあるように、「主が彼らを全地に散らされた」と二度も繰り返し強調するのです。散らすということは、必ずしも神さまの裁きの結果ではなく、神さまの深い配慮によると考えていいのです。

 

 

バベルからの回復

わたしたちは今朝、神さまの赦しと招きによって、教会に集められています。神の言葉が、散らされた民を集められるのです。バベルの塔が建てられようとしたとき、主が降ってきて言葉を混乱させましたが、聖霊が降ったとき、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまると、聖霊に満たされた使徒たちは、ほかの国々の言葉で話し出しました。(使徒言行録23-4)。教会に生きるわたしたちは、バベルの時の混乱から回復させられた民なのです。

わたしたちは教会の居心地がどれだけ良くても、ここに留まることはできません。神の言葉によって教会に集められたわたしたちは、神の言葉によって再び散らされてゆく、世に派遣される民なのです。復活のイエス・キリストは「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ1615)と命ぜられました。わたしたちは、世に新しい言葉を携えて、和解の福音を宣べ伝えるために遣わされるのです。教会はそのようにして、「バベルの塔」の混乱を乗り越えてゆくのです。

 

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