礼拝説教要旨


2012年2月26日
世の初めの物語(25-補遺) 「祝福の系図」 田口博之牧師
創世記51節~64



救いを必要とする世界

創世記第1章の天地創造から11章のバベルの塔の物語まで、「世の初めの物語」という主題で24回にわたって学んできました。新年度から、実際には6月からになると思いますが、第4主日にはアブラハム物語を読み進める予定でいます。創世記は12章から始まるアブラハムの物語をもって、イスラエルの民の救いの歴史を語り始めるのです。では、11章までは何だったのかというと、イスラエルの民の救いの歴史が始まる前、つまり時間的に前のことが語られていたのではなく、救いが必要とされる世界と人間の姿が描かれていたのだと、振り返ることができます。

今日のテキストとして与えられたのは第5章です。7月に4章のカインとアベルの物語を学んだ後、8月の夏期学校では6章から始まるノアの洪水の物語をテーマとすることとなり、5章は飛ばしていました。そのこと自体、覚えているのはわたし一人であったかもしれませんが、読まないままに終えることはできなかったのです。5章の系図には、救われねばならない人間の現実が描かれているからです。

 

長寿の祝福を受けつつ

聖書にはいくつか系図が出てきます。その中でも創世記5章の系図というのは、他の系図よりもはるかに、色々なことを思い巡らしながら読むことができると思います。今日の聖書朗読の間にも、昔の人は何と長生きだったのか、この年齢はどこか嘘っぽい。それでも、一番長生きしたのは誰であったかを探すような、読み方が出来たのではないでしょうか。

ここに記された年齢の数え方に関しては、様々な考え方があります。個人の年齢ではなくその一族が存続した年数だと言われることがあります。ここでの年は月の数を数えたものであるという解釈もあり、そのように数えると現実的な年齢となります。逐語霊感的な解釈を採る解説書は、人類は遺伝子学的に純粋であったとか、加齢を促進する環境要因が人間を守っていたとも言います。

ただわたしは、ここに記された年齢についてはシンプルに考えたらいいと思っています。つまり、神様の祝福は、長寿ということに表れていることから考えても、この人々は、祝福された人生を送ったに違いないのです。神さまの赦しと恵みによって長寿が与えられたのです。しかし、どれだけ長生きしても、人は千年までは生きられないということがこの系図には語られているのです。永遠であられる神さまにとっては、「千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時に過ぎません。」(詩編904)と歌うほどであっても、やはり千年という単位は神の時であって、限りある人間が数えることはできないのです。

 

神の似姿として

5章の初めの言葉に目を留めましょう。「これはアダムの系図の書である。神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。」(51-2)とあります。この言葉は、天地創造の第六の日、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(127)ことの繰り返しです。

3節に「アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた。」とあります。ここには、アダムが神さまに似せて、かたどって造られたのと同じことが起っていることが語られています。つまりこの系図は、神さまの似姿として造られたその恵みと祝福が、アダムからその子孫へと受け継がれていることを語っているのです。アダムの子孫であるわたしたちもまた、神さまに似せて、神さまにかたどって造られたという祝福を受け継ぐ存在なのです。

ところで、アダムからセトという記述を見たときに、カインのことが触れられていない、という疑問を持たれた方はみえないでしょうか。425節によると、セトはカインに殺されたアベルに代わる子として授けられたと記されています。そして、セトの子エノシュが生まれた頃、「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」(426)とあります。カインの末裔である人間の歩みにあって、神さまを信じ、礼拝するという者たちもまた現れて来たことが伝えられているのです。

しかしながら、「エノシュは九百五年生き、そして死んだ。」(11節)とあるように、人間は罪のゆえに死ぬ存在であることが語られています。さらに、6章に入ると、地上に人の悪が増してゆくのを御覧になった神さまは、「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」と言われて、ノアの洪水が起こったのです。したがって、5章の系図には、神さまの祝福ばかりでなく、裁きへといたる人間の歩みも語られているのです。

 

神と共に歩む生涯

そのような中、この系図に注目すべき人が現れます。521節以下のエノクです。エノクの生涯は、他の人と比べると極端に寿命が短く三百六十五年とあります。その代わりに、彼だけは「死んだ」でなく「神が取られたのでいなくなった。」とあります。この表現については、平均寿命の半分も生きられなかったので、婉曲的な表現がされていると見る向きもありますが、それだけではないでしょう。

エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(524)とあります。神と共に歩んだとは、神との親密な交わりに生き続けたことを示しています。それゆえに彼の人生は、他の人とは違う内容を持っており、その死もまた「そして死んだ」と書かれている人の死とは、違う人生だったということを伝えているのだと思います。

新約聖書ヘブライ人への手紙11章の信仰者列伝にもエノクは加えられ、「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。」とあります。神さまの祝福は長寿のみではなく、たとい地上の生涯は短くても、神と共に生きた信仰者は、神に取られて永遠の御国へと移されることの幸いが、ここには語られているのです。エノクの生涯において、死に勝たれる復活の光が射しこんでいるのです。

 

そして今も

創世記11章までは、救われなければならない世界の状態や、救いを必要とする人間の姿が、天地創造の物語をはじめ、アダムとエバ、カインとアベル、ノアの洪水、バベルの塔の物語によって語られてきました。必ずしも太古の物語でなくて、わたしたち自身の問題が物語られていることを感じ取ってきたと思います。現代もまた、救われなければならない世界であり、わたしたちは救いを必要とするのです。

そして、旧約においてはイスラエルが救いの民として選ばれましたが、神さまの救いのご計画は全世界に及びます。世の救いを実現されるため、父なる神は御子イエス・キリストを、第二のアダムとして送ってくだいました。聖書の系図はイエス・キリストの誕生によって終わりますけれども、イエスさまを信じる者は、肉と血によらず聖霊が与えられることによって、神さまの子どもとされるのです。イエスさまに従う歩みにおいて、神に似せて創造されたその似姿が回復されるのです。

のです。教会はそのようにして、「バベルの塔」の混乱を乗り越えてゆくのです。

 

礼拝説教要旨のページへ