礼拝説教要旨


2012年6月24日
アブラハム物語() 「召命と旅立ち」 田口博之牧師
創世記12章1節~4節



救いの歴史の始まり

毎月第4の主日礼拝は、第1週から第3週とは別の主題を設けています。この2年ほどかけて、創世記1章から11章までを学びました。今日からアブラハム物語、創世記12章に入っていくわけですけれども、創世記の連続説教としては続いています。しかし、人間の歴史が語られるのは、この12章からなのです。11章までは歴史ではなかったのかと言えば、神さまに救っていただかねばならないこの世界と人間の状況が語られていたということができます。

ところが、12章から歴史が始まると言っても、聖書が語っているのですから、学校で習うような一般的な意味での歴史が始まるのではありません。聖書が語る歴史には、「神の救いの歴史」という明確なテーマがあるのです。

では、救いの歴史は、どのように始められたのでしょうか。神さまは全能なるお方、無から有を造りだせるお方ですから、この世界と人間を一掃して、全く新しく造り直すことは難しいことではありません。ところが、神さまはそのようにはしませんでした。リセットボタンを押すような仕方でなく、罪ある世界と人間を救うため、一つの民を選び、その民を導くことで、救いを実現しようとされたのです。

そのやり方は、新品に買い替えたほうが早いことを知っているわたしたちの目から見て、また、関係性を修復することが困難なことを知っているわたしたちから見れば、賢いやり方には見えないのです。では、神さまが罪ある人間を滅ぼすことなく、救おうとされたのはなぜでしょうか。それは、ひとえに人間が好きだからです。辛抱強く愛してくださるのです。古いものを一掃して新しいものに替えるのではなく、古いものが、悔い改めて新しいものとして生きることを望んでおられるのです。

 

行き先も知らぬまま

12章1節、「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい』。」創造のときと同じように、救いの歴史も、神の言葉によって始められました。実にダイナミックな言葉です。

それにしても、アブラムはよく決断できました。ここではまだ、目的地が示されてはいません。ヘブライ人への手紙11章8節に「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」とあります。この言葉から、アブラムの旅立ちは、私たちがする旅とは根本的に違うものであったことが分かります。私たちがする旅行には必ず目的地があります。何かのツアーに参加するとしても、行き先が明示されるからこそ、これに参加するかどうか考えるでしょう。風の向くまま、気の向くままの旅に出たとしても、どこへ行くかはその時々に自分で決めているはずなのです。

アブラハムの場合はそうではありません。神さまが「行きなさい」と言われたから、旅立ったのです。アブラハムは、神さまの召しに応えたのです。行き先が示されなかったことで明らかなように、この旅は神様に全てを委ねる旅だったのです。信仰生活を始めるというのは、そういうことです。

 

祝福の約束

しかし、神さまの召しには、約束が伴っていました。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」。アブラムは、大いなる国民イスラエルの先祖となる、という約束を与えられたのです。

それにしても、これは人間では決してできない約束です。アブラムはすでに75歳でした。何人も子どもがいたならまだ理解できる約束ですが、妻サライは、11章30節で「不妊の女で、子供ができなかった」と語られています。目に見える状況と人間の可能性からすれば、ありえない約束でした。しかし、アブラムは、この約束を信じて旅立ったのです。

先だって行われた拡大長老会の中で自由討論を行いました。ある方が、今の教会の現状、教勢等深刻に考えていると話し始めました。次世代に向かって何ができるか、会で話し合ったことを語られるのですが、深刻に考えての意見ですので、聞いていても暗いのです。確かに状況を分析すれば暗くなる要素は多いでしょう。でも、それはわたしたちの受けとめ方です。教会が将来どうなっていくか、それは神さましか知らないことです。神さまが知っていてくだされば十分なのです。 

イエスさまはおっしゃいました。「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」(ヨハネ435)と。人間の思いで目を伏せていれば、刈り入れが待っていることは分かりません。それゆえに種を蒔くこともできません。アブラムは、目を上げたのです。それゆえに旅立ちました。はじめから、あそこに行けと、目的地が示されることがなくても、自分自身と周りを見るだけでは、可能性としてはゼロに近いようなことであっても、神さまの祝福の約束を信じて旅立ったのです。

 

祝福の源として

アブラムの信じた祝福の約束とは、自らが受ける祝福ばかりではありませんでした。「祝福の源となるように。」、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と。ここで旅立つことによって、自分を通して、祝福に入るものがいる。自分が祝福の源とされる。アブラムは、この神さまの召し出しに答えたのです。

この「祝福の源となるように。」との言葉は、百歳を迎えて与えられた子イサク、孫のヤコブ、そしてイスラエルの民に受け継がれてゆきました。やがて、イエス・キリストの到来によって、全世界へと広がることになるのです。そして、わたしたちが神さまの子どもとされ、またアブラハムを「信仰の父」と呼んでいるということは、わたしたち一人一人が、新しいイスラエルであるこの教会が、祝福の約束を受け継いでいるということなのです。神さまの祝福を、わたしたちは確かに担っている。そのように信じるならば、決して深刻にはなりません。

わたしが示す地に行きなさい。」、「祝福の源となるように。」この神さまの言葉は、わたしたちへの言葉です。祝福の約束を信じて、一歩を踏み出すことができますように。この地に住む民が、わたしたちを通して主の祝福を受ける者とされますように。

 

礼拝説教要旨のページへ