礼拝説教要旨


2012年7月22日
アブラハム物語() 「神が示される地」 田口博之牧師
創世記12章1節~9節



父の家を離れ

 先月より第4主日の礼拝では、アブラハム物語に聞きはじめています。先月すでに創世記121節から4節をテキストとしましたが、礼拝後の「分かち合いの時」に、参加されたある方が、アブラハムが「生まれ故郷、父の家を離れ」たことが、どれほど大きな意味を持ったかについて話されました。先月のわたしの説教では、そのことについて力点を置いては語りませんでしたので、もう一度確かめておきたいと思いました。

アブラハムの名前が最初に出てくるのは創世記1126節です。その時点ではまだ「アブラム」で、「アブラハム」と呼ばれるようになったのは、創世記155節です(説教でも、文脈に沿って、アブラムと呼ばれているところでは、アブラムと言うようにします)1126節には、「テラが七十歳になったとき、アブラム、ナホル、ハランが生まれた。」とあります。

ところが、1132節には、「テラは二百五年の生涯を終えて、ハランで死んだ」とあります。テラ70歳の時にアブラムが生まれたのだとすれば、テラが死んだとき(205歳-70歳で)アブラハムは135歳になっていたことになります。しかし、124節では、「アブラムはハランを出発したとき七十五歳であった。」とあります。これを素直に読めば、アブラハムは父テラの存命中に、召命を受けて旅立ったことになります。

そうすると「あなたは生まれ故郷父の家を離れて」(121)という言葉が、新しい響きをもって聞こえてきます。アブラハムはまさに、父の家を離れて旅立ったのです。家父長制が強固であった古代オリエント世界において、長男が父のもとを離れるなど、長子の権利を放棄することになりますので、考えられないことだったのです。

 

旅の途中で

アブラムは、「あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。」と呼ばれましたが、アブラムの生まれ故郷とは、どこになるのでしょうか。「アブラムはハランを出発したとき七十五歳であった。」とありますので、ハランが故郷だったように読めます。ところが、創世記1131節には「テラは、息子アブラムと・・・(中略)・・・ カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。」とあります。アブラムの生まれ故郷は、カルデアのウルでした。ハランは、カナンに向かう旅の中継点に過ぎなかったのです。しかし、テラはカナンに向かうことをやめ、ハランに永住してしまったのです。それは神さまの御旨ではありませんでした。

もしかすると、「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。」との主の言葉は、ウルを出発したときからアブラムにのぞんでいた言葉であったのかもしれません。それゆえに、父から離れてハランを出発したアブラムは、迷うことなくカナンへと向かったのです。そして、アブラムがカナン地方に入ると、「あなたの子孫にこの土地を与える。」127)と主の言葉をいただき、そこが約束の地であることが示されます。

では、約束の地は、どのような土地だったのでしょうか。ここから、新しい神の民の歴史が始められようとしているのです。誰も足を踏み入れていない土地を開拓していく方が、歴史の出発点としてふさわしいように思います。ところが、「その地方にはカナン人が住んでいた。」(126)のです。約束のカナンの地は、もう人が住んでいて、土着の宗教もあるような、とてもややこしいところだったのです。それは、現代のパレスチナ問題の根っ子となると言ってよいほどのややこしさです。

テラがハランにとどまった理由も、そこにあったのではと想像します。ハランの地は、新しく始めるには住みやすい土地だったのです。故郷ウルの地は月崇拝が盛んだったと言われています。しかし結局は、月礼拝をやめることができませんでした。新しくなれなかったのです。新しい神の民となるためには、偶像礼拝から離れねばならなかった。そのためにもアブラハムは旅立つ必要があったのです。

 

主の名を呼ぶ

主はカナンの地を約束の地として示しましたけれども、アブラムは旅を終えることはできませんでした。「アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の名を呼んだ。」(1278)とあります。定住できなかったのは、すでにカナン人が住んでいたからです。色々な場所に移動せざるを得ませんでした。そんなアブラムは、移動するたびに祭壇を築いて、主の名を呼んだのです。自らを導き出した主の助けを求めるべく、主を礼拝したのです。

神さまの招きによって信仰生活を始めるといっても、すべてが順調で平安な歩みができるということはありません。日本人が無宗教を標榜しながらも、神仏に手を合わせるのは不安があるからです。自分以外の力に頼らなければ、上手くいかないと思っているからです。それでいて、神さまなんて信じないと言うのだとすれば、とてもおかしなことと言わざるを得ません。

わたしたちが神さまを礼拝するのは、自分の弱さを知っているからです。神さまから離れないで礼拝し続けるのは幸せだからではなくて、神さまなしに生きていけないことを知っているからです。じゃあ、信仰者はいつもビクビクしているのかといえば、そうではありません。神さまに頼ることができる人は、揺るぎない生き方ができるのです。そういう人生へと導くために、神さまはわたしたちを召しだされるのです。

アブラハムはその先頭を行く人です。それゆえ、救いの歴史はアブラハムから始まるのです。アブラハムが信仰の父と呼ばれるのは、アブラハムが立派なのではなくて、神さまにより頼むことができたからです。神さまに委ねることで得られる揺るぎなさは、人生最大の危機である死と向き合うときに表れます。イエス・キリストがよみがえられたことで、死に勝利されていますから、死と戦うなどと思う必要はないのです。戦いとしてしまったら、負けで終わりになってしまうでしょう。洗礼を受けてキリストの命に結ばれた者は、死と向かい合っても揺るぐことのない平安に生きることができるのです。

 

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