礼拝説教要旨


2012年8月26日
アブラハム物語() 人間的な知恵の愚か」 田口博之牧師
創世記12章10節~20節



祝福の危機

 創世記1210節以下、アブラムのエジプト下りの場面です。この頃はまだ、アブラハムではなくアブラムと呼ばれています。またアブラハムの妻の名はサラですが、この時はサライと呼ばれています。二人の名が変えられるのは17章に入ってからですが、そのところを読むと、アブラハムとサラの名前が、それぞれ「諸国民の父」、「諸国民の母」という意味であったことが分かります。諸国民の父と母となるべく、祝福の源となることが約束されているのです。

 実は今日の聖書箇所は、もしかするとこの二人が祝福の担い手となり得なかった。後で振り返ったときに、何とおそろしいことをしたのかと思えるほどの危機が訪れていた。そのような場面であったと捉えることができます。

 「その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。」(1210)と始まっています。カナン地方を旅していたアブラムでしたが、その地方に飢饉が起こりました。アブラムたちはよそ者であるという立場の弱さ、雨の降らないネゲブ地方にいたことで、飢饉の影響をもろに受けてしまいました。それでアブラムは、エジプトに避難することにしたのです。エジプトにはナイル川があり、水がなくなることはありません。エジプトに行けば、飢え死にすることはないだろう、アブラムはそう考えたのです。

 

問題の所在

 このアブラムのエジプト下りについて、批判的に見る向きがあります。主がカナンの地を約束の地として示されたのに、エジプトに行けば食料もあるだとうと安易に考えてエジプトに向かった。命の危機が訪れたときこそ、神様により頼むべきではなかったのかという批判です。但し聖書は、エジプトに下ったこと自体が主の御心に反することであったとは、書かれていません。飢饉に襲われたため、一時的な避難場としてエジプトに逃れたと読むほうが自然です。

 アブラムの問題はその後です。11節以下のアブラムの言葉に、大きな問題を見ることができます。「エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。「あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう」(121113)。

 アブラムの妻サライは美しい女性だったようです。アブラムは急に心配になってきたのです。サライの美しさに目を奪われたエジプト人が、夫である自分を邪魔者とし、殺そうと考えるのではないか。そう考えたアブラムは、「どうか、わたしの妹だ、と言ってください。」とサライに頼み込みます。するとアブラムの思ったとおり、彼らがエジプトに入るとサライの美しさは評判となり、エジプト王ファラオの宮廷に召し入れられました。「アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた」(16)のです。アブラムは妻サライを兄妹と偽ったおかげで、大いなる財産を手にしたのです。

 

何に幸いを求めるのか

 でも、アブラムは、自分の幸いしか考えていなかったのです。アブラムのしたことは、ファラオの妾として売り渡したということに以外の何ものでもありません。アブラハムは、「信仰の父」と呼ぶより「最低の男」と呼んだ方がいいのではないか、そのようにさえ思えます。

 信仰の危機というのは、試練そのものよりむしろ、試練に遭ったときに神さまに解決を委ねるのでなく、自分で試練から逃れる方法を考えてしまうことにあります。「困った時の神頼み」と言いますが、わたしたちは困ったときに、神さまに信頼して御言葉に寄り頼むよりも、自分の知恵に頼ることを案外してしまっているのです。神さまに寄り頼む信仰を忘れてしまう。そこにこそ信仰の危機が生じているのです。

 ここでアブラムは、神さまに幸いを求めたのではありません。「そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。」(12節)妻を犠牲にして、自分だけの幸いを求めたのです。そして16節「アブラムも彼女のゆえに幸いを受け」とある通り、幸いを得ました。でもそれは、神様により頼むことから生まれる信仰のゆえの幸いではなかったのです。

 

神さまの介入

 しかし、そのようなアブラムを、神さまは放っておかれませんでした。「ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。」(17)。「ところが主は」、とても大きな意味を持つ言葉です。この事態を見過ごしにできなくなった神様は、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせたのです。

しかし、これも不思議な気がします。この物語で弁解できないほどに問題があるのは、ファラオと宮廷の人々ではなくアブラムでしょう。ところが、神さまの怒りはファラオと宮廷の人々に向けられているように思えるのです。しかも、アブラムは病気にかからなかったばかりでなく、20節に「ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた。」とあります。全財産もそのまま持って、エジプトから出ることができたのです。

 しかし、それが神さまのなさりようなのです。神さまは万人が納得できるような仕方で介入されないことが多いのです。もし、神さまが介入されることがなければ、アブラムは人間的な知恵によって獲得した救いに安住してしまい、約束のカナンの地に再び旅立てなくなったでしょう。さらに、サライがファラオの妾のままでいてしまっては、アブラハムとサラの名前が意味する「諸国民の父」、「諸国民の母」となり得ませんでした。アブラムはエジプトにおいて、目に見える幸いを得たかわりに、祝福の源になるというこの上ない幸いを失うところだったのです。

 

信仰の子としての恵み

 アブラムは試練に際して、神様の約束を信じ従うよりも、自分の知恵を働かせて道を開こうとしました。そのことは、カナンでしたように祭壇を作って、主の御名を呼ばなかったことに表れています。その結果、この世的には成功したように見えて、実は大切なものを失っていたのでした。しかし、そのようなアブラハムが「信仰の父」と呼ばれていることは幸いです。

わたしたちも、アブラムと同じように信仰を抜きに、人間的な知恵を頼りとすることがあります。上手く行けば、それを自分の手柄だと思いながらも、信仰のゆえの幸いと装ってしまうこともあるでしょう。

でも、アブラムがそうであったように、神さまは放っておかれません。時宜を得て介入し、もっともふさわしい形で助けてくださるのです。アブラムのエジプト下りの物語は、人間的な知恵に頼ってしまう愚かさを持ちながらも、信仰の道へと導き返してくださる恵みが語られています。信仰の子どもは、それほどに愛されているのです。

 

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