礼拝説教要旨


2012年11月25日
アブラハム物語() 「信仰による義」 田口博之牧師
創世記15章1節~6節



信仰のはじまり

与えられた聖書箇所の終わりの言葉は、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(15:6)です。この言葉は、新約聖書のパウロの手紙に2箇所(ローマ4:3、ガラテヤ3:6)に引かれています。マルティン・ルター以来のプロテスタント教会の旗印ともなった「信仰義認」の教理がこの言葉から導かれます。「義」という言葉には難しい響きがありますが、正義の義です。罪に訴えられた者が裁判で「あなたは正しい」と判決が下されるなら、それは救われるということです。パウロは、救われるためには律法を行うことが大切とする律法主義者に対して、人は律法を守り行うことではなく、ただ神さまを信じる信仰によって義とされる。「信仰の父」とあがめるアブラハムもそうだったではないかと論じるのです。

これまでもアブラハムの信仰の歩みを辿ってきました。主はアブラムに、土地と子孫を与えると約束されました。アブラムはこの約束を信じて旅立ったのですが、聖書はアブラムが「信じた」とは一言も語っていないことに気付きました。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」とか、「主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」と、信仰をあらわす言葉は出てきますが、「主を信じた」とは語っていないのです。

 神さまの約束に従って旅立ったアブラムです。ヘブライ人への手紙が「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(118)と語るように、信仰によって旅立ったのです。けれども「これらのことの後で」という言葉で始まる15章を読むとき、アブラムが神さまの約束を疑い始めていたことが分かるのです。

 

不満をぶつけたとき

主の言葉が幻の中でアブラムに臨みます。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」幻の中で、アブラムの目の前に主が立たれ、神の言葉が迫ってきたのです。アブラムは、「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子どもがありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」と答えます。

アブラムの返答は、あきらかに神さまへの文句です。「あなたは数えきれない子孫を与えると約束してくださったのに、ご覧のとおり、よく見てくださいよ。わたしには一人の子どもすら、与えられていないではないですか。」子どもがいないという現実に対して、あからさまな不満を言い表しているのです。

詩編には、ここまで言ってしまっていいのかと思えるほどに、神さまへの不平不満や怒り、人に対する呪いや憎しみをあからさまに訴えている詩があります。礼拝の交読詩編として選びにくいものが多いです。一方でわたしたちは、親しい者同士で「ちょっと聞いてよ」と、愚痴をこぼした後で自己嫌悪に陥ることがあります。相手に向かって直接文句をぶつけ、後になって気まずさが残るという経験をすることもあるでしょう。

けれども、怒りを神さまにぶつけるならそうはなりません。この叫びを神さまが聴き取ってくださったことを知るからです。神さまは人の心をすべてご存知なのですから、かしこまる必要はありません。言葉がちぐはぐでまとまらない祈りであったとしても、聖霊がわたしたちのうめきごと父のみもとへと持ち運び、執り成してくださるからです。

アブラムは、思いの丈を神さまにぶつけました。実はアブラムが神さまに向かって言葉を発しているのはこのときが初めてなのです。神さまとアブラムとの対話、直接的な交わりは、このときから始まったのです。

 

闇に輝く光

すると、神さまは答えてくださいました。「見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることが出来るなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」」と。アブラムは数えようとも思わなかったでしょう。その前に、分かったことがあったのです。「数えることが出来るなら、数えてみるがよい。」とおっしゃった方は、これら星のひとつひとつを造られたお方である。数える前から、星の数だけではない、星のすべてを知っているのだと。

当たり前のことのようですが、主の言葉がアブラムに臨んだのは夜であったことに気づきました。同時に、詩編第8編の言葉が思い出されました。「あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。」この詩編も夜に歌われたと考えていいでしょう。でもそれは、時間的な意味で夜というばかりではなく、人生の夜のことです。闇のような状況に置かれた時、その人の目は塞がれています。現状を打開しようと一生懸命色々なものは見ています。助けも求めます。けれども、本当に大切なものが見えなくなっているのです。このときのアブラムがそうでした。約束が与えられてから随分の年月が経ったのに、一向に約束が実現する気配すらない。後継者はダマスコにいるエリエゼルだ、そんな噂が立っていたのかもしれません。アブラムの心は闇に塞がれ「あなたを祝福の源とする」という神さまの約束が見えなくなっていた。

そんなアブラムのもとに、神さまは臨んでくださったのです。このときアブラムは、これらの星をすべて造られ、指で美しく描くように配置なさった神さまの業を見ました。このお方が「あなたの子孫はこのようになる」と約束してくださる神さまの言葉を信じきった。その信仰を神さまは「義と認められた」のです。

 

アブラハムの子

わたしたちはただ信仰によって、アブラハムの子孫として祝福を受け継ぐ者とされてゆくのです。今日の箇所が引用されたローマの信徒への手紙4章17節に、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。」とあります。口語訳聖書の言葉で言えば「無から有を呼び出される神を信じたのである。」と。アブラハムとわたしたちをつなぐものは、死よりよみがえられたイエス・キリストです。

何の希望もない、可能性がついえた、空っぽである。何もないということは、人間の思いでは虚しいことですが、イエスさまは言われます。「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ54)。すべてを失っても、神さまの御手に飛び込んでいくとき。必ず道は開かれるのです。

しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマ423-25

 

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