礼拝説教要旨


2013年3月24日
アブラハム物語() 「顧みられる神」 田口博之牧師
創世記16章1節~16節



人間的な考えの中から

創世記16章を読み始めたとき、何と人間的な章なのかと感じると思います。アブラムも、アブラムの妻サライも、女奴隷ハガルも人間的な思いの中で動いています。しかし、神さまは、そのような者たちを顧みてくださいます。

15章において、神さまの約束を信じたアブラムは義と認められました。それでも、アブラムは揺れ動くのです。洗礼を受けたわたしたちが、肉の思いに帰ってしまい、信仰が揺さぶられてしまうことがあるのと同じように。なぜ、揺れ動くのでしょうか。なぜ人間的になってしまうのでしょうか。アブラムの場合、与えられるはずの子どもがどれだけ待っても与えられないからです。アブラムもサライも若くないのです。カナンの地に住んでから10年、アブラムは85歳、サライは75歳になっていました。

先に行動を起こしたのは、アブラムでなくサライでした。待ち切れなくなったというよりも、子どもを産める年齢でなくなったことを感じたのだと思うのです。サライは、エジプト人の女奴隷であるハガルをアブラムに与え、そこで出来た子を自分の子にしようと考えました。今日でいう代理母的発想です。このような行為は、当時の世界では当たり前に行われていたことでしたが、神様の御心にかなうことではありません。しかしアブラムは、何の抵抗なくこの提案を受け入れてしまいます。まもなく、ハガルは身ごもります。しかし、アブラムとサライが思い描いたようにはなりませんでした。自分が妊娠したことを知ったハガルが、主人であるサライを軽んじるようになったからです

 

アブラムの身勝手さ

こうして、二人の女性の間に、ドラマの大奥で見るようなドロドロとした戦いが始まりました。すると、サライは「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。」(165)とアブラムを責めます。ところが、責められる理由がないと思ったアブラムは、「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」(166)と答えます。

無責任きわまりない言葉です。生まれて来る子の父となるにも関わらず、関係ないと言っているのですから。ハガルと、ハガルがはらんだ自分の子どもに対する責任を、アブラムは放棄してしまったのです。サライはと言えば、「好きなようにするがいい」というアブラムの言葉を盾に、ハガルに辛く当たるようになります。主人の子をはらみ、女性としての自尊心に目覚めたハガルは、サライのもとから逃げ出しました。

エジプトに向かっていたハガルは、荒れ野にさ迷いました。身重の体で、命の危機に至っています。子を宿したことでいい気になって、サライを軽んじたからこうなったのでしょうか。それよりも問題なのは、女奴隷をはらませることで自分の子としようとしたサライの考えであり、その提案を抵抗なく受け入れたアブラムにあります。その結果、ハガルとお腹の子が命の危険にさらされてしまったのです。

 

どこから来て、どこへ行くのか

しかし、そんなハガルを主が顧みてくださいました。主の御使いが荒れ野の泉のほとりに現れ、「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」(168)と言うのです。短いですが、深い意味が込められています。ハガルの存在を問い、その悩みを深く捉える言葉です。「どこから来て、どこへ行こうとしているのか。」とは、ただ単に場所を問うているのではありません。ここに来たいきさつを問い、これからどうするつもりかと尋ねている。それだけでもないでしょう。

ハガルは「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えるのが精一杯でした。故郷エジプトははるか彼方です。もうどこへ行けばいいのか、分からなくなってしまっていたのです。御使いは「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」と言いました。我慢できないから逃げ出したハガルにとっては、辛い言葉ではなかったでしょうか。しかし、主はハガルに対して奴隷のような状態に戻れ、と言っているのではありません。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」とは、「女主人の手の中に身を委ねなさい」という意味です。女主人サライは、あなたにとってやっかいな存在だけれども、わたしの御手のうちにある。だから大丈夫だという励ましなのです。

それでも、ハガルは不安だったでしょう。ゆえに、主の御使いは、「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」(1610)アブラムと同じような祝福を約束されます。さらに「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたから。」(1611)と言われます。イシュマエルという名は、「主があなたの悩みをお聞きになられる」という意味です。主なる神様が、彼女の苦しみの思いを、その叫びをしっかり聞いて下さっていることをハガルは示されたのです。

 

顧みられる神との出会い

やがて、ハガルの口から、賛美の言葉が溢れ出ます。「あなたこそエル・ロイです」と。エル・ロイとは、「顧みられる神」という意味です。「顧みる」とは、字義どおり訳せば「見つめる」です。「あなたは、わたしを見つめておられる神です」と訳してもよいのです。ハガルは分かったのです。主はずっと前から、わたしのことを見てくださっていたことが。主が顧みてくださることを信じて、女主人のもとに帰って行きました。

ハガルは、やがて男の子を産みました。アブラムは、かねて主が言われたとおり、その子をイシュマエルと名付けます。主がその名を与えたことをハガルが告げ、アブラムがこれを受け入れたのでしょう。人間的な知恵に走ったアブラムでしたが、神がわたしを見つめ、悩みを聞いてくださることを知ったのです。アブラムも「わたしを顧みられる神」との出会いを与えられたのです。

人は、自分を顧みてくださる神との出会いを与えられたとき、他者の視線が気にならなくなります。認めてもらいたいとか、評価されたいという思いから自由になります。神さまがすべてを見てくださっている。分かってくださるのだから、それで十分だと思うからです。鏡を見なくてもいい、人目を気にしなくていいのは、とても楽なことです。

 

わたしたちのベエル・ラハイ・ロイ

ハガルは、顧みられる神と出会ったからこそ、アブラムとサライのいる場所に戻って行きました。変わらずきついことも言われたでしょうが、踏みとどまる力が与えられたのです。わたしたちは誰もが過ごしやすい場所に暮らしているのではありません。人間関係で苦労します。誰もが辛抱しながら生きています。でも、ハガルを顧みられた神さまは、あなたも顧みてくださるのです。

14節、「そこで、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。」とあります。「わたしを見てくださり、生きておられる方の井戸」という意味です。わたしたちにとってベエル・ラハイ・ロイは、神さまは礼拝する場です。礼拝において神さまと出会い、渇くことのない命の水をいただきます。そして、この場から普段の生活の場へと戻るのです。職場でも家庭でも人には言えない悩みがあるでしょう。一人一人が苦しいものを抱えています。でも、わたしたちは、礼拝において神さまと出会い、日々を生き抜く力が与えられるのです。そして、また戻ってくるのです。礼拝から礼拝へ、いつも顧みてくださるお方のもとへ。

 

礼拝説教要旨のページへ