礼拝説教要旨


2013年4月28日
アブラハム物語() 「アブラハムという名で生きる」 田口博之牧師
創世記17章1節~16節



アブラムからアブラハムへ

創世記17章は「アブラムが99歳になったとき」と書き始めています。アブラムがハランの地を経ったのが75歳。すでに24年が経ちました。16章の終わりでは、アブラムは86歳でしたので、この間13年が経過していることになりますが、それらをすべて無視するかのように、99歳のアブラムに起こった出来事がここに記されています。それはアブラムにアブラハムという新しい名前が与えられたということです。

これまでも「アブラハム物語」と言ってきましたし、新約聖書を引用するときにはアブラハム、そうでない限りはアブラムと読んできました。名前の呼び方が変わったときに、その意味を見つけたいと思っていたのが理由ですが、聴いていて戸惑う方もみえるのではという心配がありましたが、その心配もこれからはなくなります。

主は言われます。「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。」(175)と。アブラムがアブラハムになることにはどんな意味があるのでしょうか。学者たちは、アブラムもアブラハムも意味は同じであって、いずれも「父は高められる」あるいは「高貴な父」という意味だと言います。一方で、「あなたを多くの国民の父とするからである」、「諸国民の父とする」と言われていることから、意味が変えられたと解釈されることがあります。現実に、まもなくイサクが誕生しますし、わたしたちにとっても、アブラハムは信仰の父と呼ばれる人ですので、多くの国民の父という意味づけには説得力があります。

また15節以下で、アブラハムの妻のサライも、サラという新しい名前を与えられたことが語られています。サラの場合も、「わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。」とあることから、アブラハムと同じ意味づけがされることがあります。しかし、サラという名は、「女王」とか「王妃」という意味であり、サライという名も、サラという名前の古い形に過ぎないのではないか、と考えられています。

 

キリストに結ばれて

ですから、アブラハムもサラも、名前が変わったこと自体に大きな意味があるわけではないのです。わたしたちがどのような名前で生きていようとも、その名前がわたしたちの人生を左右するものとはなり得ないのと同じように。ここで大切なことは、新しい名前にどういう意味があるのかということではなく、神さまによって新しい名前が与えられたという事実です。

新しい名前が与えられるとは、その存在が新しくされるということです。皆さんもきっとあると思います。「クリスチャンネームは何?」と聞かれたことが。「プロテスタントの教会ではクリスチャンネーム、洗礼名はつけないんですよ」と答えると、不思議な顔をされた経験をお持ちではないでしょうか。

では、どうしてプロテスタント教会で洗礼名はつけないのでしょうか。その理由は実ははっきりしています。洗礼名は通常、聖人の名前が付けられるのですが、プロテスタント教会は聖人崇拝をしないからです。聖人の名前が付けられるときに、その名の聖人による守護を願うことに結びつくからです。

わたしたちにとって大切なことは、聖人ではなく、キリストに結ばれるということです。礼拝招詞でⅡコリント5:17の言葉を聞きました。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」と。洗礼を受けた人は、自分の名前に聖人の名前が加えられるどころではありません。イエス・キリストに結ばれて、その命が新しく造りかえられてしまうのです。

 

全能の神

ところで、ここでアブラハムとサラに新しい名前が与えられる前に、二人に名前を与えられた神ご自身が、新しい名を名乗っていることに目を止めねばなりません。99歳になったアブラハムの前に、神さまは現れて「わたしは全能の神である」と語りかけられます。「全能の神」という言葉自体、使徒信条に「全能の父なる神」という言葉が二度出てきますし、わたしたちにはさらっと読めてしまうところですが、神さまがアブラムの前に「全能の神」として現れたのはここが初めてです。

神さまは、13年間の沈黙を破るかのように、「全能の神」としてご自身を示されたのです。アブラハムを召して24年経ってなお、子どもが与えられない、すでに99歳、妻のサラも90歳を迎えようとしている。人間の可能性はついえたところで、全能者であることを現す時が訪れたのです。

そして、「わたしは全能の神である」とご自身の名前を証しされた神は、「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」と、アブラハムに言われました。「わたしに従って歩み」というところは、口語訳聖書では、「わたしの前に歩み」とありました。このほうが原文のニュアンスをよく伝えています。神さまから新しい名前を与えられるということは、神さまとの新しい関係に生きることであり、その生き方とは神さまの御前に生きる生き方です。神さまと向き合て生きる新しい交わりへと招かれるのです。

続いて神さまは「全き者となりなさい」と言われます。「全き者」とは、わたしたちを戸惑わせる言葉ですが、何も私たちが道徳的に正しい人間になることではありません。むしろ、神さまの前に欠けた存在であることを認め、破れを持った人として、全能の神の恵みと導きに頼って生きること、それが「全き者」となるということです。

 

永遠の契約

さて、新しい名が与えられ、「多くの国民の父とする」という約束が与えられたアブラハムに対して、7節以下で契約が立てられます。この契約は、神さまがアブラハム一代ではなく、後に続く子孫との間に「永遠の契約」を立て、「あなたの神となる」だけでなく「あなたとあなたの子孫の神となる」ということです。そしてカナンの土地を、アブラハムとその子孫に「永久の所有地として与える」という契約です。

この契約のしるしとして「割礼を受ける」ことが、9節以下に命じられます。割礼とは、男性器の先端の包皮の部分を切り取る儀式ですが、「それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。」のです(1713)。割礼とは、神さまが契約の相手としてくださった恵みに対する人間の応答のしるしであり、これによって、アブラハムとその一族は、神さまのみ前を全き者として生きていくことを誓ったのです。

割礼はキリスト教の洗礼の予型となっていますが、洗礼は男性のみに授けられるものではありません。イエス・キリストの十字架の死と復活が前提となって授けられたサクラメントです。したがって、自分たちこそがアブラハムの子孫、約束の民であると信じて、今も行われているユダヤ人の割礼とは異なります。キリスト者は、肉の体にそのしるしを刻み込むという仕方ではなく、霊によって生きる者とされるのです。

そうは言っても、洗礼を受けてもなお肉の支配との戦いがあります。神さまから隠れるように、光の中ではなく闇に紛れ込んで生きることを欲してしまうこともあります。神さまのまなざしよりも、人の目を気にしてしまい、自分を見失ってしまうことがあります。しかし、神さまはそのような私たちに裁きではなく、赦しのまなざしを注いでくださるのです。

アブラハムの歩みも、アブラムであったときと同じように失敗を重ねます。しかし神さまによって新しい名が与えられたアブラハムは、永遠の契約が体に刻まれたことによって、全能の神の御前に立ち帰ることができました。わたしたちは、割礼を受けていませんし、洗礼名も与えられていませんが、キリストに結ばれて新しく造りかえられています。聖餐によって、新しくされた恵みに立ち帰ることができます。神さまの御前に立って、「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」という神さまの呼びかけに応えて、日々新たにされて、喜びをもって生きていくことができるのです。

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