礼拝説教要旨


2013年5月26日
アブラハム物語(10) 「笑いから笑いへ」 田口博之牧師
創世記17章17節~18章15節



信頼なき笑い

創世記17章を(16節まで)読み返したとき、語っておられるのは、ずっと神さまであることに気づかされました。17節で「アブラハムはひれ伏した。」とありますが、新しい名前を与えられたアブラハムは、神の言葉に聞き続けていたのです。

ところが、わたしたちが「そうは言うけれども」と思いつつ、説教を聞くことがあるように、「しかし、笑って、ひそかに言った。『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。』」という反応を、アブラハムは示していたのです。アブラハムは、ひれ伏して心から礼拝する姿勢を取りながらも、神さまのおっしゃるようにはならないと、「フン」と鼻で笑うかのように聞いてしまっていたのです。

ひそかに笑ったのは、アブラハムだけではありませんでした。18章に入ると、主は三人の旅人の姿をとって、ご自身を現されます。そして、「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」と、恵みの言葉を告げるためにアブラハムとサラのもとを訪ねるのです。

これまでとは違って、具体的な時期が示されています。「来年の今ごろには、あなたの妻のサラに男の子が生まれる。」故郷を旅立って24年、アブラハムはひたすらこの言葉を待ち続けていたのです。サラもこの恵みの言葉を聞いていました。ところが、12節で「サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。」とあります。サラの笑いも先のアブラハムと同様、神さまの言葉を信じられない、不健康な笑いでしかありませんでした。

 

信仰と現実とのはざ間で

そのような笑いは、語った者に対して失礼きわまりないです。しかし神さまは「信じないなら勝手にしなさい」と見放すことをされません。主はアブラハムに「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。」(1813-14)と、再び約束をしてくださるのです。このことは、わたしたちにとって大きな慰めです。

わたしたちも聖書を読みながら、説教を聞きながら、御言葉を疑うことがあります。聖書はそう告げているけれども、わたしの周りでは、そんなことは起きていない。目に見える常識と経験値にとらわれてしまい、聖書の世界を現実の世界から切り離してしまうことをしてはいないでしょうか。「神には出来ないことはない」と信じつつも、その課題が自分に向かうとき、「わたしにはそんなことはできない」、「ここまでしかできない」と決めてしまう。そういう時の線引きは、神さまではなく自分になっている。

礼拝のたびに使徒信条より「全能の父なる神を信ず」と告白しますが、この告白を頭で判っているにとどめないことが大切です。全能の力は聖書の中の人々ばかりでなく、このわたしに臨んでいることを信じ、全能の神の懐へと飛び込むことによって、現実の自分と信仰者としての自分との境を取り除くことが求められます。

アブラハムの問題は、約束よりも現実を信じたことにありました。「アブラハムは神に言った。『どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように。』」(1718)とあります。アブラハムには女奴隷ハガルとの間に、13歳に成長したイシュマエルがいました。サラに子どもが与えられると聞きながらも、アブラハムはイシュマエルのことを考えていたのです。イシュマエルが順調に成長していることで、アブラハムは満たされていました。満たされている時には、信仰へと踏み込めないものです。目に見える現実に満足していれば、目に見えない神さまに頼る必要があるとは思えないからです。

 

喜びの笑いへ

しかし、神さまははっきり言われます。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。」(1719)。ここでの「いや」は、とても強い否定の言葉です。神さまは、断じて否とアブラハムを現実の世界から信仰の世界へ呼び戻されて、サラが男の子を産むことを約束し、イサクと名付けるよう命じます。イサクとは、「彼は笑う」という意味の名前です。神さまがそのように命じられたのは、アブラハムとサラの不信仰の笑いを喜びの笑いへと変えてくださるためです。

サラが、「わたしは笑いませんでした。」と打ち消したとき、主は「いや、あなたは確かに笑った。」と言われました。(1815)。不信仰が突きつけられたと思い、サラは恐ろしくなったと思います。しかし、それだけにイサクが与えられたことの喜びは大きくなったのです。一年後、神さまが約束されたことは実現していました。生まれたばかりのイサクの笑みを見ながら、サラは言います。「神はわたしに笑いをお与えになった。 聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を 共にしてくれるでしょう。」(216)。神さまを信じることができず、思わず漏らしてしまった寂しい笑いを、神さまは約束の子の誕生を大いに喜ぶ笑いへと変えてくださったのです。

イエスさまも赤ちゃんとして生まれてくださいました。貧しい飼い葉桶の中で、希望を失った世の人々に喜びと笑いをもたらす救い主として生まれてくださった、その恵みに目をとめたいと思います。

神さまを信じて生きる者は、どんなに厳しい現実にあっても笑うことができます。ひそかな笑いを責め立てることなく、約束の子にイサク(笑い)という名を付けられた神さまのおおらかな光の中を歩むことが許されているのです。涙に暮れる日を生きているとしても、喜びへと変えてくださる救いの完成の日が訪れることを待ち望みつつ。

 

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