礼拝説教要旨


2013年6月23日
アブラハム物語(11) 「執り成しのこころ」 田口博之牧師
創世記18章16節~33節



アブラハムに打ち明けられた理由

主なる神さまが、三人の旅人の姿をとってアブラハムの天幕を訪ねたのは、妻のサラに男の子が生まれるという約束を告げるためでした。しかし、もう一つ訪問の目的があったことが、1816節以下に語られています。「主は言われた。『ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。』」(1820-21)。

主なる神さまは、ソドムとゴモラの罪を告発する叫びが本当であれば、滅ぼされるおつもりでした。ところが「主は言われた。『わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。」(1817)と自問自答されたのです。ソドムには、アブラハムの甥のロトが住んでいるので、滅ぼすことへの同意を求めたのでしょうか。いや、主は義なる神であられますから、アブラハムがどう言おうと、自分の考えを変えることはなかったはずです。ではなぜ、アブラハムにこの計画を打ち明けられたのでしょう。

「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」(1818-19)と、主は語られます。主は、裁きの計画を聞いたアブラハムが、どのように応答するかを確かめたかったのです。

 

値切り交渉ではなく

アブラハムは進み出て言った。『まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。』」(23-25)とあります。

アブラハムの言葉は、神さまに抗議しているように聞こえるかも知れませんが、そうではありません。アブラハムは正義を問うているのです。この問いに耳を傾けられた神さまは、「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」と答えます。罪は裁かれなくてはならなくても、少数の正しい者に免じて全てをお赦しになる神であられることが、ここに示されたのです。

この答えを聞いたアブラハムは、「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」(27-28)と問います。主なる神さまは、「もし、四十五人いれば滅ぼさない」と言われます。するとアブラハムは、値切り交渉でもするかのように、その数を「四十人、三十人、二十人」と減らしていき、ついに十人にまで持っていきました。

皆さんは、このところをどのように読まれるでしょうか。面白い、あるいはじれったい、アブラハムはしつこい・・・。必ずしもいい印象ばかりではないだろうと思います。しかし、アブラハムは、調子に乗っているのではありません。十人のときには、「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。」と緊張しながら尋ねています。

アブラハムの問いは、この裁きは何によって決定されるのか、大勢の者が罪を犯せば全員有罪となるのか。それとも、何人かの正しい者がいるなら、全員無罪となることがあり得るのか。あるいは、少数の正しい者だけを助けられるのか。つきつめるならば、主なる神さまはいかなる神であられるのか、という問いだったのです。

 

執り成しを求める神

わたしはここを読みながら、アブラハムが助けを求めているように思えるけれども、実は神さまのほうが、アブラハムがご自分に求めることを待っておられたということが分かってきました。主が望んでおられたことは、アブラハムが祝福の源となるべき使命を与えられたがゆえに、罪人のため執り成しをすることだったのです。

この期待は、アブラハムだけにかけられているのではありません。このような執り成しの使命を受け継いでいるのは教会です。アブラハムがソドムとゴモラを救うよう執り成したように、わたしたちが、この町のために、日本のために執り成しを祈ることを求められておられるのです。わたしたちは、その担い手として選ばれているのです。

山田教会の井ノ川勝牧師の書いた『教会』という本をシャロンの会で読みはじめています。その中に「執り成しの手としての教会」という項目があり、富山光一山田教会前牧師の文章が、伊勢伝道、日本伝道の原点となる文章として紹介されています。伊勢神宮と向き合って立つ山田教会は、会堂の上に十字架を掲げることが許されなかった教会です。富山牧師は、伊勢の町の人を愛するがゆえに、この町にイエス・キリストの福音を宣べ伝え、本物のキリスト者が作られる。それこそが、この町の人々の執り成しと信じて伝道牧会されました。富山牧師は「そして教会は、そのためにこそ、強くならねばならぬのです。何年かかろうと問題ではありません。所謂国家神道は、それ以外には、打ち破れないと信じています」と、この文章を結んでいます。

アブラハムの切なる訴えに対して、主なる神様は最後に、「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」(32)と約束して下さいました。しかし、19章に記されているように、ソドムの町は滅ぼされます。これは十人の正しい人がいなかったからでしょうか。アブラハムも十人で止めてしまわずに、五人、いや一人まで数を減らせば良かったのではないか。そう思われた方もみえるかと思いますが、ソドムの罪は裁かれねばなりません。結果は同じだったのです。

 

絶望を越えて

現実にこの10人が1人にまで引き下げられている聖書の箇所があります。エレミヤ書5章1節にこういう言葉があります。「エルサレムの通りを巡り よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか。正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。」主はエレミヤにそう語られたのです。しかし、エルサレムはバビロンに滅ぼされ、民は捕囚の憂き目に遭います。結局、正しい人は一人もいなかったのです。新約聖書においてはパウロも言っています。「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ310)と。

そのように考えると絶望しかありません。わたしたちの執り成しの祈りは聞かれないままなのでしょうか。けれども、主なる神さまは憐れみのお方です。御独り子を世に与えてくださいました。イエスさまは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」(ルカ2334)と、罪人への執り成しを祈りつつ、十字架に死んで下さったのです。神であられるお方が人となられたのは、世が救われるために、ただ一人の正しい人が必要であったからです。

このイエス・キリストの救いの出来事によって、アブラハムから始まった救いの歴史は、キリストの教会へと引き継がれました。主なる神様がアブラハムに期待された執り成しも、教会に生きるわたしたちが受け継いでいるのです。教会が立つこの地のために、そして日本のために執り成すことを、神さまは求めておられるのです。

 

この町のために

日本の教会はとても小さくて力弱いです。しかし、どれほど小さな群れであっても、教会がその町にあることの意味は大きいのです。桜山、御器所近辺には教会がたくさんあります。御器所学区には、カトリック教会を含めると五つ教会があり、日本基督教団の教会だけでも三つあります。全国的にも稀な地域だと思います。地域の方は教会に対して好意的で、とても恵まれています。しかし、そこにとどまっていたままでは、桜山教会が無くなったとしても、ひよこ教室もバザーもやっていないのかと思う程のもので、町の人はそうは困らないのではないでしょうか。

そうでなく、桜山教会がなくなってしまったら、この町の人たちは大変なことになる。教会にはそれほどの思いが必要なのです。わたしたちは、この町に住む人々の代表として、礼拝に集っています。家族の中で、あるいは職場の中で、自分だけ一人キリスト者であるという人がいれば、家族や職場の人に代わって礼拝をささげているのです。執り成しの祈りとは、他者のための祈りです。神さまの御心は、「十人いれば滅ぼさない」と言われたように、救うことにあります。アブラハムが執り成しを祈ることを望まれたように、神さまはわたしたちがなす執り成しを待っていてくださるのです。

 

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