礼拝説教要旨


2013年8月25日
アブラハム物語(1) 「裁きと救い」 田口博之牧師
創世記19章1節~29節



世に生きる信仰者

聖書を読み始めた頃、旧約の神は裁きの神で、新約の神は救いの神と思った覚えがあります。裁きの神と救いの神がいるのではないことは分かっていながら、そのようにとらえたのです。2425節に「主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一体を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。」とあるように、ソドムの滅亡は神の裁きによってです。しかし、裁きの中にあって、ソドムに住むロトが救われたことも見つめたいのです。

さて、二人の御使いがソドムに着いたとき、ロトはソドムの門のところに座っていました。町の門のところの広場は、商取引も盛んで賑わったところでした。ロトはソドムが悪徳の町でしたが、町の人々との交わりに距離を置こうとはしなかったのです。また、ある注解書によれば、ロトは町の長老に選ばれていたからだと言います。町の門は裁判が行われるところでもありました。ロトはよそ者でしたが、ソドムの人にはない正しさが評価されていたというのです。この世にあって、信仰者としての証を立てていたというのです。

そのようなロトが、ここで描かれているような究極の事態を迎えたときに、どのような態度を取ったでしょうか。この19章を読むと、異教の地で精一杯生きていこうとする信仰者と、結局は立ち得なかった信仰者の弱さというものが突きつけられる気がしてなりません。天の国籍を持つものが、一人の市民としてどう生きているのかが、問われているのです。

 

ソドムの罪

さて、ロトは二人の御使いを自分の家に迎え入れます。御使いたちは、ソドムの罪を確かめようとしていましたので、はじめロトの申し出を断りますが、これを受け入れました。御使いは、美しい若者の姿をとっていたのだと思われます。ロトはこの町の罪を知っていましたので、町の門の広場で夜を過ごすことになれば、間違いなく襲われてしまうことが分かっていたからそうしたのです。

結果として、ロトが彼らを家に迎え入れたことによって、ソドムの罪ははっきりと浮かび上がりました。ソドムの町の男たちが、大挙してロトの家に押しよせ、わめきたてるのです。ソドムの罪は、自分の欲を第一にして生きている神なき世界を象徴しています。

ロトは何とかして、二人を守ろうとしました。そのためにロトは、まだ嫁がせていない二人の娘を彼らに差し出すことを申し出ます。聖書はこのロトの行為を、自分の娘を差し出してまで客人を守ろうとした自己犠牲の行為と認めているのではありません。ロトがしようとしたことは、罪人の行為を、別の罪に誘って防ごうとしたものでしかないのです。ロトはソドムの町の長老に立てられたのかも知れませんが、罪が押し迫ってくる現実の中では、このように対処することしかできなかったのです。信仰者の無力さを見る思いです。9節の「こいつは、よそ者のくせに、指図などして。」という言葉は、ソドムの人々のロトに対する思いがよく現れています。

ロトには、すでに嫁がせた娘たちもいたようです。娘婿のところへ行くと、「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」と促します。しかし、「婿たちはそれを冗談だと思った。」(14節)というのです。婿たちが冗談だと思ったのは、神様の裁きの話しを聞いても、冗談としか受け取れない人の姿を映し出しています。

また、ロト自身もソドムの裁きについて、本気に受け止めていなかったかもしれないのです。御使いたちにせきたてたられても、「ロトはためらっていた。」(16節)のですから。しかし、そのような中途半端でしかない信仰者を、主は豊かな憐れみによって救って下さるのです。「ロトはためらっていた。」の後には、「主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。」と続きます。

 

後ろを振り返らないで

 主はさらに言われます。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」17節)と。パウロは、フィリピの信徒への手紙3章1314節で言っています。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。信仰者は、神様が示して下さる目標をしっかりと見つめて、走り続けることが求められるのです。自転車で転ばないようにするには、走り続けねばならないでしょう。動かすに立ったままでいることはできないのです。日曜日はキリスト者にとって安息日です。しかし、わたしたちの安息は、ただ体を休ませることではなく、神さまの前に進み出て行くのです。進み出ることで、心と体の安息の時を設けるのです

 ところがロトの答えはこうです。「主よ、できません。あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。しかし、わたしは山まで逃げ延びることはできません。恐らく、災害に巻き込まれて、死んでしまうでしょう。御覧ください、あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います。あれは小さな町です。あそこへ逃げさせてください。あれはほんの小さな町です。どうか、そこでわたしの命を救ってください。』」(18-20節)。

そんなわがままを言われるくらいなら、勝手にしろと言いたくなります。ところが、主の答えはこうです。「よろしい。そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町は滅ぼさないことにしよう。急いで逃げなさい。あなたがあの町に着くまでは、わたしは何も行わないから。」(21節)。ロトがいくら身勝手なことを言っても、主は救いたい一心なのです。

ロトとその家族は、ただ神様の憐れみによって、救いへの道を歩み出しました。しかし「ロトの妻は、後ろを振り向いたので、塩の柱になった。」(26節)のです。ロトの妻は、ソドムの町に残してきた自分たちの財産や、生活への未練があったのでしょう。あるいは、ソドムの町に下される神の裁きを、自分の目で確かめようとしたのかもしれません。聞くだけでは駄目、自分の目で確かめないと信じきれずに、示された救いへの道を歩む足を、信仰の歩みを止めてしまったのです。イエスさまも言われました。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない。」(ルカ962)と。御言葉に聴いて生きるということは、「後ろを振り返ってはいけない。」ということを徹底して語る聖書の言葉に聞くということです。かつてイスラエルの民が、荒野をさまよう中で、エジプトを懐かしんだような生き方を退けるのです。

 

御心に留めてくださる神

 27節では、19章に入ってはじめて、アブラハムが登場します。前日に主と対面して場所に行って眼下を見下ろすと、ソドムとゴモラ、および低地一体の場所が滅ぼされる姿が見えました。アブラハムが何を思ったのか、ここには記されていませんけれども、ソドムには正しい者が十人いなかったため、懸命の執り成しが聞かれなかったことを知ったことでしょう。何よりも、ロトの身を案じたことでしょう。

結果として、ロトは破滅のただ中から救い出されました。それは、ロトがアブラハムの甥であるという血縁関係のゆえではありません。「神はアブラハムを御心に留め、」(29節)とあります。ロトが救われたのはアブラハムのおかげだというのです。アブラハムがソドムの町の人々のためにした執り成しの祈りを、神さまは聞かれたのです。

わたしたちが救われたのは、イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事によります。と同時に、天に昇り、父なる神様の右の座に着かれたイエスさまが、今も私たちのための執り成しをしてくださっていることを、忘れてはなりません。イエスさまの執り成しによって、私たちの信仰の歩みは支えられているのです。その恵みに生きるからこそ、私たちも他者のために執り成しをする者とされるのです。わたしたちの祈りの熱心さで、その人を救えるのではありません。わたしたちが、この人のためにと祈る人に、神さまは目を注ぎ救ってくださるのです。神ご自身の憐れみの熱心さによって。

 

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