礼拝説教要旨


2013年9月22日
アブラハム物語(13) 「アブラハムの神はすべての民の神」 田口博之牧師
創世記20章1節~18節(2122-33



懲りないアブラハム

 今日の聖書朗読を聞きながら、あれ、この話は知っている。そう思われた方がいらっしゃると思います。これとそっくりな話し、アブラハムが妻のサラを妹だと偽って差し出した話しが、創世記1210節以下に語られていました。あのときの相手はエジプトの王ファラオでしたが、今回はゲラルの王、アビメレクです。

皆さんはどう思われたでしょうか。率直に言ってアブラハムは懲りないなあと、思われた方が見えるだろうと思います。これついて多くの聖書学者は、物語そのものは一つしかないけれども、二つの資料から出てきていると解釈します。確かに、創世記が複数の資料から編集され、組み合わされていることは間違いありません。

そうだとしても、物語が二つ取り上げられていることには意味があります。二度とも、アブラハムはサラを妹と偽って王に差し出すのですが、書かれてある内容も、またアブラハムの置かれている状況にも大きな違いがあるのです。単純に一つの物語が繰り返されている、アブラハムは懲りないなあ、で済ませることはできなくなるのです。

 

二度だけではないのでは

状況の違いとは、先の12章ファラオにサラを差し出したときは、アブラハムがまだアブラムと呼ばれていたとき、主に呼び出されて旅立って間もない時なのです。年齢もまだ75歳ということも許されます。サラは65歳。現代の年齢の感覚がそうであるように老人とは呼べません。若気の至りということでも許される話です。

ところが20章においては、旅立ちの時から25年が経っているのです。神さまはアブラムの信仰を義と認められ、多くの国民の父、アブラハムと呼ばれるようになっていました。アブラハムはもう100歳、サラは90歳です。しかも、ゲラルに入る前に、来年の今頃には子どもが与えられるという約束が与えられていたのです。にもかかわらず、アブラハムはサラをゲラルの王に召し入れさせている。そうすると、単純に懲りていないではすまされませんし、夫婦の問題とばかり扱うこともできません。神さまとの関係において、アブラムは祝福を継ぐ者となる約束の子を危険にさらすという罪を犯しているのです。

あるいは、わたしは別のことを考えさせられました。アブラハムはアビメレクの尋問に対して、「この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。事実、彼女は、わたしの妹でもあるのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではないのです。それで、わたしの妻となったのです。かつて、神がわたしを父の家から離して、さすらいの旅に出されたとき、わたしは妻に、『わたしに尽くすと思って、どこへ行っても、わたしのことを、この人は兄ですと言ってくれないか』と頼んだのです。」2011-13)と答えています。

この言葉から、アブラハムがサラを妹と偽ったのはこれが二度目ということではなかったのではないか、とは考えられないでしょうか。アブラハムが妻のサラを妹と呼ぶことも、律法が授けられる以前という時代背景からすれば不思議ではないのです。

 

アビメレクに現れる神

そして、二つの物語の一番の違いはと言えば、サラを召し入れたアビメレクのもとに、神さまが現われるということです。「その夜、夢の中でアビメレクに神が現れて言われた。」(203)。エジプト王ファラオのもとに神さまが現れることはありませんでした。あのときは神さま抜きに物語が進んでいたのです。ところが、今回はそうではありません。

神さまは、アビメレクに対して、「あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」203)と語ります。アビメレクが、「主よ、あなたは正しい者でも殺されるのですか。彼女が妹だと言ったのは彼ではありませんか。また彼女自身も、『あの人はわたしの兄です』と言いました。わたしは、全くやましい考えも不正な手段でもなくこの事をしたのです。」と弁明すると、神様は「わたしも、あなたが全くやましい考えでなしにこの事をしたことは知っているだからわたしも、あなたがわたしに対して罪を犯すことのないように、彼女に触れさせなかったのだ。」と言われます。(204-6

アブラハムの神である主は、ここでイスラエルの系譜に属さないアビメレクの前に現われ、語りかけられたのです。アビメレクもまた「主よ」と答えるところから、対話が始まっています。しかも、アブラハムの神、イスラエルの主なる神さまが、異邦人の王であるアビメレクに罪を犯させないようにしているのです。

ここで明らかなことは、神さまの愛は、イスラエルにのみ向けられているのではないということです。ユダヤ教は民族宗教と見なされていますが、旧約聖書からは民族を越えた普遍性を読み取ることができます。そうでなければ、ユダヤ教を母体としたキリスト教が、世界宗教とはなり得ないはずなのです。

神さまは再びアビメレクに現れ、「直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」207)と言われます。そして、アビメレクは何の責任もないのに、アブラハムに羊、牛、男女の奴隷などを与え、「好きなところにお住まいください」と居住権も与え、さらに銀一千シェケルを与えるのです(2014-16参照)。得をしているのはアブラハムばかりのようにも思えますが。アブラハムが神さまに祈ると、アビメレクと一族は、呪いを解かれたかのように癒されます。そのようにして神はアブラハムを祝福の基となるよう導かれたのです。

 

アビメレクの謙遜

この出来事によって、アビメレクはアブラハムに一目置くようになります。そして、2122節以下では、「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます。どうか、今ここでわたしとわたしの子、わたしの孫を欺かないと、神にかけて誓って(シャバ)ください。わたしがあなたに友好的な態度をとってきたように、あなたも、寄留しているこの国とわたしに友好的な態度をとってください。」と言われるのです。

このアビメレクの謙遜は、アブラハムに対してというよりも、アブラハムと共におられる神様への畏れと謙遜です。アビメレクは、アブラハムの神をわが神とすることで、アブラハムを重んじました。そのようにして、アブラハムはベエル・シェバと呼ばれる南部の寄留の地で、生活するに欠かせない井戸を得たのです。そしてこの地で、「永遠の神、主の御名を呼んだ」(2133)のです。旅人として歩みながらも、主を礼拝する基盤が形づくられました。アビメレクはその手助けをしたのです。

アブラハムはアビメレクを助けましたが、助けられもしました。そのようにして、わたしたちもこの世を生きています。信仰者でない方から助けられることもしばしばあります。そのようなわたしたちは、アブラハムが異邦人であるアビメレクのために祈ったように、この世のために祈るという務めが与えられています。

今日の御言葉は、主なる神がイスラエルだけの神でなく、すべての民の神であることを示しています。神さまは異邦人のアビメレクに現れたように、わたしたちの前にも現れてくださいました。そのようにして、神さまは信じるものすべてを救ってくださるのです。主の救いの御業を告げ知らせるために、わたしたちは先に選ばれているのです。

 

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