礼拝説教要旨


2013年11月24日
アブラハム物語(15) 「主の山に備えあり」 田口博之牧師
創世記21章1節~19節



ひどい話しなのでは?

 創世記22章は、アブラハム物語のクライマックスをなすところです。クライマックスといっても、この物語を肯定的に受け止めている方は少ないのではと思います。ストーリーとしては、聖書の他の箇所と比べて難しくはありません。しかし、この物語が意味していることは難解です。内容が深いということは分かっても、意味不明で終わってしまえば、肯定的に受け止めることはできません。

たまに、聖書にはこういう話があるからついていけない。信仰とは恐ろしいものという声を聞くことがあります。創世記22章から、そのような印象を持つ方もみえるのではと思います。しかし、この物語が聖書以外の何かに記されたものであるなら、「ひどい話し」としか受け止められないのではないでしょうか。あるいは、現代にこのような出来事がニュースで取り上げられたとしたらどうでしょう。悪魔の声を聞いたという親がした虐待事件として扱われるでしょうか。しかし、ひととき話題になっても、やがて忘れられてゆくような話です。

ところが、この物語が聖書の中に、しかも旧約聖書の最高峰とも位置づけられている物語だけに、ひどい話しでは終わらないし、忘れ去られもしない。時に誤解されたり、またつまづきを与えることがあったとしても、まことに深い信仰の物語として語り継がれているのです。

 

納得できない答え

おそらく、この個所を読まれた方の多くが、心に浮かぶ問いというものが二つあるだろうと思います。「なぜ神さまは、わが子を焼き尽くす献げ物としてささげることをアブラハムに求められたのか?」という問いと、「なぜアブラハムは、そのような理不尽な要求をする神さまに従ったのか?」この二つです。そして問題は、この二つの問いに対する腑に落ちる答えが、中々聞けないということにあるのです。

ところが、実は答えとしては最初から出ているのです。1節に「神はアブラハムを試された。」とあります。まさに試すということが、アブラハムにイサクを献げ物としてささげることを求められた理由だったのです。では何が試されたのでしょう、「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった。」(12節)。「あなたはわたしの声に聞き従った。」(18節)という言葉から、アブラハムの信仰が試されていたことが分かります。アブラハムも、この試みを受けとめたのです。

だとしても、今のわたしの答え方では納得できないのではと思います。なぜなら、「試すこと以外に何か意味があるのではないか」とか、「試すなら別の試し方があるのではないか」と考えてしまうからです。イサクは神さまがアブラハムに与えられた子ども、神さまの祝福を受け継ぐことを約束された子どもです。その子どもを、神さまが献げ物にするよう求めること自体、矛盾していると思えるからです。

アブラハムが、神さまの声に聞き従ったことにしてもそうでしょう。たとえ神から命ぜられたとはいえ、愛する独り子を手にかけようとするなど狂気の沙汰としか思えない。神さまの不条理きわまりない命令も、アブラハムが全く逆らわずに従ったことも、あるいは泣き叫ぶことがなかったイサクの態度も、わたしたちには到底理解できないことだからです。そう簡単に納得できる答えは与えられません。

するとこの物語は、わたしたちの常識から答えを導くのではなく、違ったところから考えねばならないことがわかってきます。ではどうすればいいのか。これは聖書の物語、信仰の物語なのですから、とことん信仰の筋道で考えてゆくしかないのです。

 

一般化できないこと

森有正の『アブラハムの生涯』という本が、オンデマンドで手に入るようになりました。森有正が1970年に国際基督教大学のチャペルでした全5回の講演集です。その第3講演が、「モリヤの山」という主題です。その中で森は、「この見たところ不条理な物語から、教訓などを引き起こすべきでない」。「事実私どもはこのような神の試練に耐えることはできない。絶対できないと思います。もしこういうことが起こったなら無神論者になりかねない。教訓をそこから引き出すことはとんでもないことです。…(略)…ただ、次のことだけは申し上げたい。私どもの生涯の中で、いつの時か、決して他人の教訓にはなり得ない、しかし私どもにとっては本質的なことが起こるものである。ということです。それがどういう形で来るか、全く分からない。また一般化して考えることもできません。」と。

どうでしょうか、示唆に富む言葉だと思います。森が語ったことは、この出来事は、神さまとアブラハムとの間に起こった固有の出来事であるということです。神さまとアブラハムとの関係というのは特別なのです。アブラハムがイサクをささげるという、この出来事は、神さまとアブラハムとの深い交わり、つちかわれた信頼、これらのことがあってはじめて起こったことなのです。つまり、この出来事について、神が命じられたことが分からないとか、自分がアブラハムの立場だったら、そんなところから考えること自体が間違っている。森が言うように、一般化して考えることはできないのです。一般化して考えるから、常識外れだということになるのでしょう。納得できる答えを聞くこともできない。それゆえ、この物語から教訓を引き出すことはできないのです。それほど、アブラハムに告げられた神の言葉は特別なのです。アブラハムにしか告げられない神の言葉ですから、「自分はアブラハムのようには出来ない。」と思うのは当然のことだし、神さまの命令やアブラハムの行動について、わたしたちがあれこれ言うのは、おかしなことなのです。

けれども、わたしたちには、アブラハムには告げられなかった言葉が、神さまと「わたしとあなた」の関係の中で告げられる言葉、自分にとっての固有の言葉が告げられるはずなのです。他人の教訓にはなり得ないけれども、私どもにとっては本質的なこと、神さまとの間に出来事と呼べるものが起こっていくはずです。

 

アブラハムの信仰

アブラハムは、神さまがはじめに「アブラハムよ」と呼びかけられたその時から、今から神さまが語られ、わたしがしようとすることは、わたしにとって本質的なことになると、感じとったのではと思います。ですから、わたしたちが、とんでもないとしか思えない神の命令に、アブラハムは一言も返すことなく、無言で淡々と従います。

そしてこの命令を実行するところ、3節では「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。」そして9節から10節「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、屠ろうとした。」何も語らない代わりに、たくさんの動詞が重ねられています。ここは、文学的にもたいへん優れているところです。静寂の中で物語は進行し、緊張感が高まってきます。

この物語において、アブラハムが神に向かって言葉を語っているのは、二度しかありません。それは最初に、神が「アブラハムよ」と呼びかけ、「はい」と返事をしたところ。そして11節で、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけ、「はい」と答えた。この二度の「はい」という返事、これだけです。後は黙々と神さまの思うところを実行している。

ここにいたるまで、アブラハムがどういう思いだったのか。これは神さまとアブラハムの間に起こった固有の出来事ですから、この時のアブラハムの心理状態を探るようなことを、説教で語ることは出来ません。しかし、アブラハムは神さまには「はい」としか返事していませんけれども、それ以外のところで二度語った言葉から、アブラハムの確固たる意志を知ることができます。

一つは5節です。アブラハムがモリヤの山が見えるところまで共に歩いた二人の若者に向かって、「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」アブラハムは、息子と礼拝して、また戻ってくると言っているのです。そして、ここからアブラハムとイサク二人の道行きが始まります。その中で話をすることもあったと思います。しかし、聖書は親子の大切な会話、ただ一つを記します。

イサクは父アブラハムに、『わたしのお父さん』と呼びかけた。彼が、『ここにいる。わたしの子よ』と答えると、イサクは言った。『火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。アブラハムは答えた。わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。』」(7-8節)と。

 

主は備えてくださる

実はこのときのアブラハムの言葉、「きっと神が備えてくださる。」この言葉がこそが、この物語の主題なのです。アブラハムは、ひたすらこのことを信じて、神の命令に従ったのです。信じていたから、「礼拝して、また戻ってくる」と言えたのです。するとこの言葉の通り、イサクをささげようとしたその時、献げ物となる雄羊が備えられていました。この言葉が14節で二度繰り返されます。「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

わたしが、この箇所の説教を初めて聞いたのは大人になってから、教会の野外礼拝のときでした。その時はショックばかりが残りました、二度目に聞いたのは、祈祷会での牧師の奨励でした。その時に、これが信仰の物語だと少し分かってきました。牧師は語らなかったように思いましたが、わたしが思い巡らしたのは、薪の上に黙って横たわったイサクの姿でした。イサクの信仰に近づくことができるように、祈ったことを覚えています。

そして三度目に聞いたときの説教者は、牧師の神学校時代の友人でした。ご夫妻で牧会されている方が、夏休みに松山に来られる。休暇中の旅行だけれども、ご主人のほうが説教してくださると申し出てくださり、感謝してお受けすることになりました。その牧師は、大島力という日本でも有数の旧約学者です。大島先生は、「主の山に備えあり」という題で説教してくださいました。大島先生は、「神が備えてくださる」とは、神が前もって「見ていてくださる」ということ。わたしたち人間の目には見えないけれども、神が先立って見ていてくださり、備えてくださっている。そのような信仰がここで告白されていると語られたことを覚えています。「神の摂理」英語の「プロビデンス」という言葉が、この箇所から生まれたとも言われました。

「摂理」という言葉は、「運命」という言葉に置き換えられてしまうことがあるように思います。結果的には同じことを言っていると思えることもありますが、実は全く異なります。なぜなら、運命は「これは運命だから仕方がない」とあきらめに通じることがありますが、摂理にはそれがありません。摂理の主体は、どこまでも神さまです。「神の摂理」が「神の運命」という言葉で言い替えできないことからも、違いは明らかです。

神さまが先立って見てくださり、備えてくださっている。そのことにわたしたち人間はなかなか気づかないのです。気づくとすれば後から気づくのです。前もって備えられていたことが、後になって、ああそこに神さまのご計画があり、自分はこのように導かれていたのだということに気づく。そのようにして、自分の生活が神さまに支配されていくことを感じる。そうした信仰体験によって、わたしの生活は信仰生活へと変えられていくのです。後になって神さまの導きに気づいたことが、まさに今、神さまに導かれて生きていることを感じるようになり、すべてのことが備えられていると信じられるようになる。そのようにして、アブラハムのように「神は備えてくださる」という摂理の信仰に生きていけるようになるのです。

 

救いは備えられている

 次週からアドベントに入ります。イエス・キリストの来臨に備える季節がやってきます。創世記22章が、イエス・キリストの救いの出来事のひな形になっていることを思わずにはおれません。神さまはアブラハムに、「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」(12節)と語りました。アブラハムにとって大きな試みでしたが、最後には息子イサクをささげる代わりの雄羊が備えられました。あの雄羊に、神の独り子イエス・キリストの救いの出来事を見ることができます。

イサクは薪を背負いモリヤの山に登り、背負ってきた薪の上に横たわりました。イエスは十字架を背負ってカルバリの山に登り、背負ってきた十字架に架けられました。イサクには、屠られる前に身代わりの雄羊が備えられました。しかし、イエスはご自身がすべての人の身代わりとなり、罪なき雄羊として十字架で屠られたのです。アブラハムに愛する独り子をささげることを求められた神は、ご自身の独り子をささげられた神なのです。この上ない愛によって。

信仰の父であるアブラハムが、試みの中にあって「主は備えてくださる」との摂理の信仰を持って主に従いきりました。具体的に何が備えられているのか、刃物を取ってイサクを屠ろうとしたときも分からなかったと思います。何の計算もすることなく、ただ、神さまが必要を備えてくださっていることを信じ、行動したのです。そのようなアブラハムは、すべての信仰者の先頭を進んでいます。わたしたちも、明日何が起こるか分からない人生を歩んでいます。そうした中で、それぞれに示されている主の山を進んでいくのです。「主の山に備えあり」の信仰を抱きつつ。

 

「説教要旨」は実際に語った説教の5割程度の文字数にまとめています。しかし、説教は「一つの作品」という言い方もできるだけに、そこから削ってまとめることは、難しい場合が多いのです。今回の説教「主の山に備えあり」は、いつものようにまとめることが不可能でしたので、「要旨」でありつつ、文少量は多くなりました。

 

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