礼拝説教要旨


2014年1月26日
アブラハム物語(16) 「死への備え」 田口博之牧師
創世記23章1節~20節



死別の悲しみ

 アブラハムとサラは、ハランを出たときにすでに夫婦でした。二人は二人三脚で、神様の祝福の約束を望み見ながら一緒に歩んできました。二人が模範的な夫婦であったかどうかは別問題です。色んなことがありましたが、二人は離れませんでした。サラは生涯旅人であったアブラハムに、どこまでもついて行ったのです。

そのようにして歩む夫婦も、いつかはどちらかに先立たれるのです。アブラハムは、十歳年下であったサラに先立たれました。23章1節、2節を朗読します。「サラの生涯は百二十七年であった。これがサラの生きた年数である。・・・アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。」とあります。淡々とした記述の中に、アブラハムの嘆き、悲しみの深さを思います。

 愛する者と死別した時、泣くのを我慢することはありません。愛する者が神のみもとに迎えられることを信じるならば、泣くなんておかしい。そんなことを思うのだとすれば、信仰生活が律法主義化します。わたしたちの涙は天の革袋に蓄えられ、主が来られるとき、その涙はことごとく拭いとられるのですから。

 

嘆きから立ち上がり

アブラハムは、サラの遺体をどうするのか、お墓をどうするのかという差し迫った課題に迫られました。生涯旅人であったため、自分のものとして持っている土地は一坪もなかったのです。3節以下では、アブラハムがサラの墓をどのようにして得たのかということが語られています。2節と3節の間に段落の区切りはありません。アブラハムとヘトの人々との交渉は、サラの遺体の傍らで行われたのです。葬儀といえば、墓地に埋葬することだったのです。今の日本のように、葬儀を終えてからお墓のことを考えるとか、納骨はいつ頃にしようかと話し合っている間はありません。アブラハムは遺体の傍らから立ち上がりました。

今は病院で臨終を迎えることがほとんどです。多くの方が経験されていることと思いますけれども、病院で人が死ぬと、まもなく病院からは、「ご遺体はいつ頃引き取りに来られますか」と聞かれます。急な場合に遺族は戸惑います。月報に、死と葬儀の備えについての連載を始めましたけれども、これさえ知っておけば大丈夫ということがあります。それは、真夜中であろうが何であろうが、牧師に連絡していただくということです。それだけで何の心配もありません。

なかには、教会に通っているのは自分一人、家族は信仰を理解しているわけではないから牧師に連絡が行くことはない。そう思っている方が見えるかもしれません。だとしても、ご家族は本人の意志を重んじたいと思っている場合が多いのです。そういう話をしていなかったため仏式で葬儀をしたけれども、後になって「言っておいてくれたらよかったのに」と残念がられることがあります。自分の葬儀のことで心配されている方があるならば、たった一言でも、家族や身内の方と話しをしておくということが大切です。自分のためであることは、家族のためでもあるのです。

 

先のことを考えて

アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり、「墓地を譲ってくださいませんか」と頼みました。するとヘトの人々は、「どうか、御主人、お聞きください。あなたは、わたしどもの中で神に選ばれた方です。どうぞ、わたしどもの最も良い墓地を選んで、亡くなられた方を葬ってください。」(6節)と答えます。

アブラハムは寄留者でありながら、ヘトの人々から好意を持たれていたのです。この提案にアブラハムは感謝しながらも、彼らが勧めた墓地とは違うところ、エフロンという人が所有する畑の端にあるマクペラの洞穴を譲っていただきたいと頼みました。しかも、十分な銀を支払う用意があることを伝えます。

ヘトの人々の間に座っていたエフロンは、アブラハムの申し出を断るどころか、「あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴も差し上げます。(11)と言いました。アブラハムにとって、こんなにいい話はないはずです。ところがアブラハムは「お言葉に甘えて」とは言いませんでした。この申し出に対して、「わたしの願いを聞いてくださるなら、どうか畑の代金を払わせてください。どうぞ、受け取ってください。(13)と頼むのです。「差し上げる」というのに、「払わせてくれ」と頼むとは、不思議な気がします。しかし、聖書は何も「ただほど怖いものはない」とか、「お墓には十分お金をかけるべき」そのような教訓を伝えようとしたのではありません。アブラハムは、先のことを考えたのです。ただで上げたのだから、返してくれと言われることがないようにしたのです。

数年前、わたしが信仰生活を送っていた教会が会堂建築をしました。教会の隣地を購入し建てることができたのです。その土地は牧師の叔父さんの所有地であり、土地を貸すから建ててはどうかと勧められたのです。それは教会の力からしてありがたい話でしたが、牧師は考えて地域の信頼している牧師に相談しました。するとその牧師は、マクペラの洞穴の箇所から説き起こして、アブラハムが何故高値で買ったのかと説かれたのです。教会は今はしんどくても、後の時代のため土地を買う決断をしました。そのようにして、この地上に神様の土地を増やしたのです。

 

天を望みつつ世に責任を果たす

先回、創世記22章の説教をしたとき、森有正の『アブラハムの生涯』という本の紹介をしました。森はこの23章についても、語っており「神様の約束なんか一回も出てこない」、「徹底的にこの世界の中に入ってこの仕事を完成した」、「彼はそれがうまく行くように祈りさえしなかった。」、「この水と油のような二つの世界、霊の世界と肉の世界、この二つをアブラハムの生ける人格だけが結びつけて支えている。」そのような言葉を連ねています。

ここで森が語る「水と油のような二つの世界、霊の世界と肉の世界」というのは、信仰者としての世界と、この世の社会的関係の中で生きる世界ということです。信仰生活は熱心だけれども社会生活は適当であっては、教会人として責任ある生き方をしているとはいえません。一方で、社会的な責任を果たしていても、神様との関係がいいかげんなら、これも責任ある生き方とはいえないのです。

今日の午後の信徒研修で、二つの教会規則のことを学びます。二つの規範があるなんて不合理と思えるのは、当たり前の感覚だと思います。ところが、教会が持つ二つの法、二つの規則というのは、教会と世俗、霊の世界と肉の世界の規範です。すなわち、教会であるからこそ、二つの規範を持つのです。「水と油」という相容れないはずの二つの規範をしっかりと担っていくことが、教会人としての責任ある生き方となるのです。アブラハムが取得したサラの墓は、ただ死んだ人を葬るための墓でなく、霊に生きる人間の真実を証しするものとなったのです。

肉の世界、すなわちこの世の人生がすべてと考えて生きるなら、死は滅びでしかありません。死に備えると言っても、立派な墓を用意するほどのことしかできないのです。けれども霊の世界、神を信じて生きるわたしたちは、この世の人生に執着するのでなく、天の故郷を見つめつつ旅人として歩むのです。

この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブライ人への手紙111315節)。

 

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