礼拝説教要旨


2014年2月23日
アブラハム物語(17) 「イサクの嫁探し」 田口博之牧師
創世記24章1節~32節



神さまの眼差し

聖書は信仰の書物ですが、この世の出来事と密接につながっていることを、よく思わされます。それは神様が、この世に生きる一人一人の人生に深く関わってくださるからです。たとえば、伴侶との死別であり、子どもの結婚問題など、聖書は一人の人、家庭の問題までも取り上げます。神さまはわたしたちに起こる日常の出来事を通して、一人一人の人生の歴史に働きかけ導いてくださっているのです。

アブラハムは、神の祝福を受け継ぐ者として、特別に選ばれた人であるに違いありません。しかしながら、アブラハムの妻が死に、アブラハムの子どもの嫁に誰がなるのか、それは世界の歴史から見れば個人的な小さなことでしかないのです。そのような小さな出来事が重大な問題になるのは、その出来事が自分に関わってくるときです。そうでなければ目に留まることはないのです。

ところが神さまの眼差しは違うのです。出会った葬列の行進を止めて、棺の中に眠るやもめの息子の目を覚まさせます。結婚式のぶどう酒が切れそうになると、水を最上のぶどう酒に変えてくださるのです。世界の動きから見れば、小さな出来事にすぎないイサクの結婚に、全能の父なる神は深く関わってくださったのです。そのことによって、わたしたちの眼差しも神さまの出来事へと向けられるのです。

 

僕の派遣

さて、1節に「アブラハムは多くの日を重ね老人になり、主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになっていた。」とあります。そんなアブラハムにとって、息子イサクがまだ結婚していなかったことが、ただ一つの気掛かりでした。祝福の約束は一体どうなってしまうのだろうかと。

イサクは、サラが死んだときには37歳になっていました。その歳まで独身ということは、当時としては異例なことでした。しかし、神さまの祝福の約束を受け継がねばならないイサクにとって、偽りの神を拝んでいるカナン人を妻とすることはできなかったのです。アブラハムはイサクの嫁を見つけるのは自分の責任だととらえました。アブラハムは、家の全財産を任せている一人の僕を呼んで、一族のいる故郷へ行ってイサクの嫁を見つけてカナンに連れて来るように命じます。

僕は正直に、イサクの嫁にふさわしい子を見つけたとして、その子がカナンには行きたくないと言った場合には、「ご子息をあなたの故郷にお連れしてよいでしょうか。」(5節)と問うのです。これに対しアブラハムは、「決して、息子をあちらへ行かせてはならない。」(6節)と命じます。この地において神様の祝福の約束を受け継ぐ者になることをアブラハムは求めました。

一方で、アブラハムは僕に対して重大な一言を与えます。「天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。」(7節)と。

このアブラハムの言葉のもとになっているのが、「主の山に備えあり」の信仰です。あのモリヤの山で、息子イサクをささげるという究極ともいえる経験をしたアブラハムは、イサクの嫁も主の備えの中にあることを信じていたのです。僕もまた、この言葉に支えられて誓いを立てました。僕は、アブラハムから預かった高価な贈り物を多く携えて、しかしすべてを神様の導きに委ねるという信仰をもって、アブラハムの一族のいるアラム・ナハライムのナホルの町に向かって旅立ったのです。

 

ハードルを越えた娘

やがて僕は目的地に辿りつきました。町外れの井戸の傍らにらくだを休ませてこう祈ります。「主人、アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう。」(12節~14節)。

どうでしょう、アブラハムが僕に命じたことは、故郷に行ってイサクの嫁を探して、連れて来るようにというものでした。具体的にこのような子を嫁に、というまでは言われていないのです。しかし、僕はイサクの嫁となるにふさわしい娘を見つけねばと思い、祈りの中で一つのハードルを設けたのです。井戸の水くみは、女性の仕事とされていましたが、大変な重労働です。まして、十頭のらくだにも飲ませるとなると、何度も往復せねばなりません。そんな労苦もいとわず旅人に親切にしてくれる娘であれば、主人の息子の嫁となるにふさわしい、僕はそう考えたのです。

ところが、僕がまだ祈り終わらないうちに、際立って美しい女性が水がめを肩に載せてやって来ました。彼女の名はリベカ、アブラハムの兄弟ナホルとその妻ミルカの息子ベトエルの娘でした。主がアブラハムの親戚に当たるリベカとの出会いを備えてくださったのです。僕が「水がめの水を少し飲ませてください。」と頼むと、僕が願ったとおりに、すべてのらくだにも水を汲んで来て飲ませたのです。リベカは僕が祈りの中で設定したハードルを、何なく越えてしまったのです。

 

主の導きの中で

その間、僕は主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見つめていた。」(21節)とあります。連れの者に手伝わすこともさせず、僕はただ黙って、水をくむために行き来する彼女を見つめていました。

その娘がアブラハムの一族につながる者であることを知ると、僕はひざまずいて主を伏し拝み、「主人アブラハムの神、主はたたえられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」27節)と感謝の祈りをささげます。主に礼拝をささげる僕の姿を見たリベカは、走って行って母の家の者に出来事を告げたのです。その話を聞いたリベカの兄ラバンが僕を迎えに行き、僕とその一行を家に迎えます。それがイサクの嫁探しの前半の部分に書かれてあることです。

創世記は、このイサクの嫁探しの物語、まことに人間的な物語を実に詳しく書き残しています。人間的とは普通に考えれば、信仰的ではないということです。実際に兄のラバンが僕のもとに走って行ったのも、妹リベカが着けている鼻輪と腕輪を見、また話しを漏れ聞いたからであり、ラバンの行動には間違いなく計算が働いていました。アブラハムが、僕に結納品となる高価な贈り物を多く持たせたこともそうですし、リベカの親切も見返りを期待してのことだったかも知れないのです。

しかし、そういうところにも神様は働かれることを聖書は告げるのです。信仰生活というと、どこかこの世の常識を越えたことを信じて生きることだと考えがちです。確かに信仰における幸いと、この世の幸いとは違う面があります。信仰者は苦難をも幸いと受け取ります。けれども、誰もが幸いだと感じることを、神さまが恵みをくださったがゆえの幸いと受け止めることに妨げはありません。そのようにして、神と人とに対する感謝が生まれます。リベカのしてくれる親切の行為をじっと見つめつつ、この娘こそがイサクの嫁にふさわしいと僕が信じたことにも、神さまの導きがあるのです。

 

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