礼拝説教要旨


2014年3月23日
アブラハム物語(18) 「救いの約束は実現する」 田口博之牧師
創世記24章33節~67節



主の御意志のとおり

主人アブラハムから、イサクの嫁を見つけて連れてくるよう命を受けた僕にとって、リベカは主が備えてくださったとしか思えないほど理想的な女性でした。しかし、リベカの家族の了解なしに結婚は実現いたしません。僕は49節で、「あなたがたが、今、わたしの主人に慈しみとまことを示してくださるおつもりならば、そうおっしゃってください。そうでなければ、そうとおっしゃってください。それによって、わたしは進退を決めたいと存じます。」と切に訴えます。僕の言葉を聞いたリベカの兄ラバンと父ベトエルは、「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください。」と言って、リベカをイサクに嫁がせることを承知しました。

この言葉を聞いた僕は地に伏して、主を拝しました。アブラハムの旅路を導いてくださった主が、御使いを遣わして伴わせてくださるという約束が実現したのです。リベカの合意は必要なかったのかと思われるかもしれませんが、それを言うならば、この物語にイサクの意志は何ら示されていないのです。しかし、この話しは、時代が古いとか封建的すぎるとか、そのようなことが問題ではないのです。アブラハムの僕は、主の御心を求めて祈って示されたリベカを、主が選ばれた娘だと信じました。ラバンとベトエルも、「このことは主の御意志」「主がお決めになったとおり」と信じ、リベカを嫁に出すと決めたのです。

 

リベカの決断力

ところが翌朝になると、僕はアブラハムのもとに帰らせてくださいと申し出ます。これはすなわち、今すぐリベカを嫁がせて欲しいという申し出です。リベカの兄と母もこの唐突すぎる申し出には驚いた様子で、「娘をもうしばらく、十日ほど、わたしたちの手もとに置いて、それから行かせるようにしたいのです」と頼みました。これは親としては、ごくごく自然な願いといえるでしょう。昨日の朝までは、娘を嫁に出すなどということは考えてもいなかったですし、何百キロと離れた見知らぬ土地へ嫁に出すのですから、それ相応の準備も必要です。しかし、僕の意志は固く、「わたしを、お引き止めにならないでください。この旅の目的をかなえてくださったのは主なのですから、わたしを帰らせてください。」と言うのです。

兄と母は「娘を呼んで、その口から聞いてみましょう」と、ここで初めてリベカの気持ちが確かめられます。するとリベカは、迷うことなく「はい、参ります」と答えるのです。リベカの潔さに心打たれます。主に呼ばれたと信じる者に迷いはないのです。リベカもまた、自分の結婚は主なる神がお決めになったこと、主の御心として受け止め、それに従う信仰の決断をしたのです。

やがてリベカは、エサウとヤコブを産みますが、長男のエサウではなく次男のヤコブを熱愛します。そして夫イサクを騙してヤコブに長子の特権を奪わせるのです。心優しきリベカは、したたかで強力な妻になっていくのです。アブラハムの僕もそんな奥さんになるとは想像もしていなかったでしょう。しかし、ここにも神の選びがありました。このようしてリベカは、まだ会ったこともないイサクに嫁入りするため、アブラハムがそうであったように、「父の家を離れて」旅立ったのです。

 

主の慈しみとまことのなかで

62節以下は、イサクとラケルの出会いの場面に移ります。イサクの姿を見た僕が、「あの方がわたしの主人です」とリベカに伝えているところを見ると、一族を治める役割はイサクに移っていたと思われます。「僕は、自分が成し遂げたことすべてイサクに報告した」とあります。「自分が成し遂げた」と言っても、誇っているのではありません。僕は誰よりも知っているのです。すべては、アブラハムに対する主の慈しみとまことの故に導かれた出来事であるということを。

イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。」(67節)とあります。イサクはリベカを愛し、母に代わる慰めを得ることができました。二人の結婚は恋愛でも、お見合いでもなく、主の御心に従うという信仰の決断によるものでした。でもそこに、人間の感情以上の確かさがあったのです。

わたしたちはアブラハムの生涯をたどりつつ、神様による救いの歴史の始まりを見てきました。救いの約束は、イサクとリベカの結婚とその子ヤコブ、イスラエルの民の歴史として前進し、やがてイエス・キリストの出来事によって頂点に達します。わたしたちはアブラハム、イサク、ヤコブと血肉においてはつながっていませんが、イエス・キリストを信じる信仰において、神様がアブラハムに約束された祝福を実現する者とされているのです。 

 

祝福の継承

25章7~10節には「アブラハムの生涯は百七十五年であった。 アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあったが、その畑は、アブラハムがヘトの人々から買い取ったものである。そこに、 アブラハムは妻サラと共に葬られた。」と、アブラハムの最後が記されています。

175歳まで生きたということであれば、75歳にして旅立ったアブラハムは、故郷を出てから100年生きたことになります。そのうち、100歳になるまでは、約束の子イサクが与えられるのを待つ25年であり、残り75年をイサクと共に生きたことになります。アブラハムは、イサクがリベカと結婚してからは私的な余生を過ごし、イサクに全財産を譲って祝福の源としての役割を終えました。

けれども、イサクがアブラハムの真の跡継ぎになったのは、イサクが正妻の子であるとか、アブラハムが最も愛したからとか、イサクが全財産をいただいたからではなく、祝福を受け継ぐ約束の子であったからに他なりません。「アブラハムが死んだ後、神は息子のイサクを祝福された。」(11節)とあるように、神様がイサクを祝福されたがゆえなのです。祝福する主体は、いつも神様なのです。

桜山教会にも、クリスチャン3代目とか4代目という方が見えます。その信仰は親から継承されたように思うかもしれませんが、神様が一人一人を選んでくださっているからに他なりません。アブラハムはイサクに信仰を継がせるために、特別な教育とか努力をしたわけではありません。むしろ、モリヤの山でのイサク奉献にあらわされているように、祝福の与え主であられる神様をどこまで信頼するかにかかっていると思わされます。

合同礼拝には、幼児洗礼を受けた子も、そうでない子も出席していますが、幼児洗礼式のときには親の信仰ばかりでなく、次の言葉で教会員に問いました。「また、あなたがたは、幼な児の親と共に、この幼な児がやがて信仰告白に導かれるようつねに祈り、教会の交わりのうちに信仰へと育て養われるべきことを信じ、受け入れますか。」このことは、かつて教会で行った修養会の帰結であり、合同礼拝もその流れの中で行われています。

わたしたちが教会に導かれ、信仰が与えられているのは、神様の憐れみと恵みによる選びでしかありません。この先、教会はどうなっていくのだろうか、自分の力で何とかしようと思うと不安になりますが、全能の神の力と導きを信じ祈るとき、希望が見えてきます。アブラハムを祝福された神の救いの物語に、キリストの教会は包み込まれているからです。

 

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