礼拝説教要旨


2014年5月4日
日本基督教団信仰告白() 「我らは信じかつ告白す」 田口博之牧師
ローマの信徒への手紙109節~13節



礼拝で日本基督教団信仰告白を

2014年度の教会総会で、第1主日の礼拝で「日本基督教団信仰告白」を主題とした宣教を行うことを含む年間計画が可決しました。日本基督教団信仰告白は、前半が聖書について、三位一体の神について、十字架の贖いについて、神の選びについて、義認と聖化について、教会についての教理的な要点がおさえられた上で、後半の使徒信条につながるという内容と構造を持っています。日本基督教団が、使徒的普遍的な信仰を継承しかつプロテスタント改革を土台とした福音主義の信仰に立つ教会であることを言い表した信仰告白文です。

かつて70周年史の編纂に携わったとき、桜山教会が礼拝宣教の中でも改革派教会の信仰告白や信仰問答などを取り上げており、教会の教理というものを重んじた教会形成をしてきたことを知りました。その一方で、日本基督教団信仰告白を扱った記録を見つけることはできませんでした。礼拝の中で唱えていたかどうかを聞き取りしても、答えは曖昧でした。教会員の多くは日本基督教団信仰告白を意識しないまま、教会生活しているということになるわけです。

それではよくないと思ったのが、最初に洗礼準備を始めたときでした。洗礼式の誓約の中に「あなたは聖書に基づき、日本基督教団信仰告白に言いあらわされた信仰を告白しますか。」という問いがあるのです。「告白します」と言うためには学ばなくてはなりません。また、「告白します」と誓約をしたのに、告白しないまま信仰生活をするとすれば、神の前に不誠実です。そうした経緯があって、聖餐を祝う主日礼拝、すなわち第1主日とクリスマス、イースター、ペンテコステの3祝祭日に、日本基督教団信仰告白を告白するようになりました。

今回、第1主日の礼拝に合わせて日本基督教団信仰告白を主題と宣教を行うこととなりました。今日の礼拝にも、幼児洗礼を受けながら信仰告白をしていない子どもが出席しています。その子たちは、聖餐を受けることはできません。しかし、自分の意志で信仰を言い表せるようになったら「信仰告白式」にのぞむことになります。実は「信仰告白式」の際の誓約も、洗礼式と同じく「あなたは聖書に基づき、日本基督教団信仰告白に言いあらわされた信仰を告白しますか。」という問いが初めに出てくるのです。その問いに対して「告白します」と答えることで、教会の陪餐会員、聖餐にあずかれる会員となることが宣言されるのです。日本基督教団の信仰告白を主題とした宣教がなされる中で、信仰告白を了する人と、受洗者が一人でも二人でも与えられることを祈っています。

 

我らの告白

 さて、今日は、日本基督教団信仰告白の最初の一文、「我らは信じかつ告白す」を宣教題としています。ここではまだ内容には入っていませんが、具体的に何を信じかつ告白するのか、様々なことを思い巡らす一文です。このことによって、わたしたちは一体何を信じているのか。わたしたちが属している日本基督教団という教会が、どういう教会であるのかが明らかにされていくのです。

「あなたはクリスチャンだよね、何を信じているの?」と問われたとき、どう答えるでしょうか。ただ神様を信じているとか、イエス・キリストを信じているという答えしか出てこないとすれば、頼りないことです。色々なことを考えるよりも先に、「日本基督教団信仰告白に言い表されていることを信じている」と答えることができればよいのです。日本基督教団信仰告白をよく知ることを通して、自分が何を拠りどころとして生きているのかが、信仰の土台がしっかりしたものとなっていきます。

さて、日本基督教団信仰告白の前半の告白文を見ていくときに、後半の使徒信条とを比べると二つの違いがあることに気づかされます。一つは、使徒信条が「我は」と単数形で始まっているのに対して、前半は「我らは」と複数形で始まっているということです。もう一つは使徒信条が「我は信ず」であるのに対して、「我らは信じかつ告白す」となっていることです。この二つの違いに、日本基督教団信仰告白の特質が表れています。

使徒信条が、なぜ「我は信ず」で始まっているかというと、2世紀頃のローマ教会で用いられた洗礼式文から発展したという歴史的な理由があります。古代教会の洗礼式において「全能の父である神を信じますか。」「信じます。」「聖霊によっておとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで…イエス・キリストを信じますか。」「信じます。」「聖なる教会の中で聖霊を信じますか。」「信じます。」との誓約が交わされていました。洗礼を受けるのは個人ですから、当然「我は」となるのです。

これに対して、前半の告白文が、「我らは」と複数形で始まるのは、教会の告白として考えられたことによります。「我らは」という言葉には、教会に連なる兄弟姉妹が、声を合わせて告白するという目的が含まれます。またそれゆえに「信じかつ告白す」なのです。信じるだけではなく告白するからこそ、「信条」ではなく、「信仰告白」と呼ばれるのです。

 

心で信じ、口で公に言い表し

今日は、聖書テキストとして、ローマの信徒への手紙の10章9節以下を選ばせていただきました。特に9節と10節は、「我は信じかつ告白す」という始まりの一文と響き合う御言葉となっています。キリスト教信仰の真髄ともいえることが語られています。10節には「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」とあります。

ここで語られていることも「信じかつ告白す」です。「義とされる」とは、神様に正しいと認められるということですから、「救われる」と同じ意味になります。人は心で信じて義とされとは、「信じる者は救われる。」ということです。それで十分なはずなのですが、パウロは言葉を重ねて、口で公に言い表して救われるのです。と言うのです。「公に言い表す」とは「告白する」ということです。ただ「信じる」というだけでなく、「信じかつ告白する」ときに、わたしたちの「救い」が決定的となるのだと言われているのです。

では、具体的に何を信じ、何を告白すれば救われるというのでしょうか。日本基督教団信仰告白は色々な言葉で語っているのですが、今日のテキストに語られていることは、それらを総括しています。9節には「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたがたは救われるからです。」とあります。

人間の常識では、人は死んだら終わりです。何年生きようが、どんな素晴らしい一生を過ごそうが、最後は死で終わってしまう。死で終わりだと言うならば、死が勝利者ということになってしまいます。ところが、「神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら」ば、話は違ってきます。勝ち残ったように思われていた死は、イエスさまの復活によって滅ぼされたのです。キリスト教会が宣べ伝える救いは、死に打ち勝つ救いなのです。

 

信仰を言い表す喜び

人は素晴らしいこと、驚くべきことを知れば黙ってはおられなくなります。死が終わりではない、死の先に復活の命がある。これほどのことを、ただ心で信じるだけで収めておくことはできません。信じる者は洗礼を受け、「口でイエスは主であると公に言い表す」者とされるのです。キリスト教信仰は、静的でなく動的なものとなるのです。

信仰告白を表すギリシア語では「ホモロゲイン」という言葉ですが、「ホモ」は「同じ」を意味し、「ロゲオー」は「語る」を意味します。ゆえに、教会は同じ信仰の言葉を言い表すのです。つまり、信仰告白の言葉は、自分が信じていることを主張する言葉ではなく、2千年の教会の歴史を通して受け継がれた公の信仰の言葉となるのです。「神がイエスを死者の中から復活させられた」ことを信じ、「イエスは主である」と同一の言葉を言い表すのです。

わたしたちは、同じ主の名を呼び求める教会に集められています。信仰告白の主語が、「我は」ではなく、「我らは」となることは必然です。イエスは主であると公に言い表す群れの中で生きて行くのです。11節以下「聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。」とあります。この約束に支えられて、わたしたちは「主の名を呼ぶ」のです。信じているのは一人ではありません。共に「主の名を呼ぶ」ことで、互いに支え合う信仰生活へ導かれるのです。

 

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