礼拝説教要旨


2014年6月1日
日本基督教団信仰告白() 「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り」 田口博之牧師
テモテへの手紙二3章15節~17節



教会の拠るべき唯一の正典なり

日本基督教団信仰告白の第一段落の主題は「聖書」であり、その第一文の主語は、「旧新約聖書」です。「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。」と告白します。今日の宣教の主題は、それをさらに区切って、「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り」としましたが、第一文の主語「旧新約聖書」の述語は「正典なり」です。神の霊感によりて成った旧新約聖書が、「教会の拠るべき唯一の正典なり」と告白されていることとを、先ずは踏まえたいと思います。

聖書は古典の中の古典とも言われますが、日本基督教団信仰告白は、聖書が教会の拠って立つただ一つの正典(カノン、尺度)であることを表しているのです。あらゆるものが相対化されている時代において、キリスト教会は聖書という絶対的な尺度を持っているのです。

ルター、カルヴァンといった改革者たちは、聖書が唯一の正典であり規範であることを言い表しました。日本基督教団信仰告白は、66巻から成る旧新約聖書が正典であることを公に言い表すことで、日本基督教団という教会が、プロテスタント教会の伝統に連なることを明らかにしています。わたしたちは、カトリック教会が第二正典と認める文書を、正典に含めることはありません。カトリック教会と共同で翻訳した新共同訳聖書には「旧約聖書続編付き」も販売されています。それは、旧約と新約の時代をつなぐ貴重な文献であることに違いありませんが、わたしたちの教会の信仰においては、「外典」としか呼べないものなので、礼拝で読まれることはないのです。

 

旧新約聖書で聖書となる

これらを踏まえた上で、第一文の主語が、ただ「聖書」というのでなく、「旧新約聖書」と言われることを考えたいのです。大切なことは、聖書は旧約と新約とに分けられながらも、聖書といえば旧新約聖書であるということです。このことは、わたしたちが「旧約聖書」と呼んでいるヘブライ語聖書だけを「聖書」とするユダヤ教との違いを明らかにします。それと共にキリスト教会が、旧約聖書はイスラエルとの旧い契約であるからという理由で軽んじることも戒めます。

イエスさまは、「聖書にこう書いてある」と、何度もおっしゃいました。旧約聖書と新約聖書は「預言と成就」の関係であり、旧約聖書なしに、新約聖書を正しく理解することはできません。また、新約聖書を通すことで、旧約聖書に光が与えられるのです。

キリスト教の名を標榜しながらも、キリスト教とは呼べず異端と見なされる集団は、必ず聖書以外の経典を持っています。しかもそれは、聖書に並ぶものどころか聖書の上に位置づけられます。そのようなことは、聖書を正典とする限りありえないのです。

 

神の霊感によって

さて、日本基督教団信仰告白では、旧新約聖書が「神の霊感によりて成り」と告白されます。この後で「全き知識を我らに与うる神の言にして」という言葉も続きます。聖書は、人間が書いた言葉に違いありませんが、神の言葉です。いかにも矛盾するようですが、テモテへの手紙二3:16の「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、」という言葉によって両立します。この言葉が、「神の霊感によりて成り」という信仰告白の聖書的根拠となっています。

霊感という言葉は、原語ではセオプニュートスといって、「セオス」神と「プネオー」(息を吐く)という言葉の合成語です。創世記27節に、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。主なる神様は、土の塵で形づくった人間に、ご自身の命の息を吹き入れられました。この「息」と訳されている言葉は、「霊」と訳すことができます。神の霊である命の息が、聖書を書く人々に吹きいれたのです。それゆえに、聖書は人が書いた言葉であるにも関わらず、書いた人の思いが綴られたものではなく、神の霊(聖霊)が働き、神ご自身の言葉が書かれたのです。

このことは、聖書がどのように理解されるかということに関わってきます。聖書が聖霊によって書かれた言葉であれば、聖霊の助けがなければ理解できません。聖霊が働かれることで、聖書は人の言葉として聞くのではなく、神の言葉として立ち上がります。聖霊の導きにより、正しく聖書が理解できるよう祈りつつ読む姿勢が大切です。

テモテへの手紙二の受取人であるテモテは、この手紙の1章5節によれば、祖母ロイスと母エウニケの信仰を受け継いだ純真な信仰を持っていた人でした。幼い日から聖書に親しんできたのです(315)。母と祖母からは、聖書を読む時には、信仰をもって祈りつつ読むように勧められてきたことでしょう。ここで語られる聖書が「旧約聖書」であることは言うまでもありません。まだ、新約聖書は正典化されていなかったからです。

5月にNHKEテレで放送された「100分で名著」のテーマは「旧約聖書」でした。「聖書」でも「新約聖書」でもなく「旧約聖書」が、「名著」として紹介されていたのです。勉強にはなりましたが、「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り・・・正典なり」との信仰に生きる者としては、違和感もありました。聖書は、テモテへの手紙二あるように、信仰を通して救いに導くことを目的に書かれた書物なのです。

 

エレミヤの再現

さて、聖書が「神の霊感によりて成り」と言うとき、わたしはいつも、旧約聖書のエレミヤ書を思い起こします。エレミヤ書3618節に「エレミヤが自らわたしにこのすべての言葉を口述したので、わたしが巻物にインクで書き記したのです。」というバルクの言葉があります。エレミヤの預言は、書記官バルクが筆記したものです。しかし、時の王であるヨヤキムは、自分の政策に逆らうエレミヤの言葉に腹を立て、「王は巻物をナイフで切り裂いて暖炉の火にくべ、ついに、巻物をすべて燃やしてしまった。」のです。(3623)。この時点でエレミヤ書は消えてしまったのです。ところが、エレミヤは、燃やされた巻物の記した同じ言葉を、別の巻物に再現することができました。そのことが3627節以下に記されています。

エレミヤは、自分の言葉をバルクに書かせたのでなく、神様から預かった言葉を語り、これをバルク書かせたのです。聖書が神の霊感によって書かれたというのは、こういうことを意味します。

旧新約聖書合わせて66巻。1巻の聖書が書き上がるのに、どれほどの人の手が用いられたでしょうか。執筆された時代も1000年上の幅があります。書いた人たちの職業や立場も様々です。四つの福音書にも個性や特徴があります。しかしながら、内容そのものは一貫しています。これは人間の為せる業ではありません。聖霊はそれぞれの人に働かれて、聖書は出来上がったのです。

聖書の御言葉は、私達を命の道へと導いてくださいます。テモテへの手紙二316節は、神の霊の導きの下に書かれた聖書が、どのようにして有益であるのか、「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする」という4つの益を示し、17節「こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」と言われるのです。

聖書の言葉は神の言葉です。礼拝宣教も御言葉を語る者が、聖書の言葉を聖霊の働きの中、神の言葉としてよく聴き取ることで、語る言葉も神の言葉と聴かれるのです。人間が語る言葉が神の言葉として聴かれるところにこそ、神の言葉によって立つ教会の祝福があるのです。

 

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