礼拝説教要旨


2014年7月6日
日本基督教団信仰告白() 「キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり」 田口博之牧師
ヨハネによる福音書539節~40



信仰の絆

先月行われた壮年会で、日本基督教団信仰告白成立に至る歴史を学びました。実は日本基督教団信仰告白が制定されたのは、1954年に行われた第8回教団総会です。日本基督教団の創立が1941年ですから、太平洋戦争を挟んで日本基督教団としての信仰告白を持つまで13年かかったことになります。それだけの年月が要したことに、合同教団である日本基督教団の特質があります。

今も信仰告白は自発的で良いという立場の人もいます。わたしたちも聖餐を祝う礼拝の時だけしか告白していないように、礼拝で日本基督教団信仰告白を告白することに対する拘束力はないのです。それでも、洗礼式では、「あなたは聖書にもとづき、日本基督教団信仰告白に言い表された信仰を告白しますか」「告白します」と答えて、洗礼を受けます。信仰告白式や、あるいは日本基督教団以外の教派から転入された方も同様に、「日本基督教団信仰告白を告白します」と答えて、現住陪餐会員となるのです。

信仰者一人一人に個性があります。年齢も社会的な背景も性格も多様です。違いのあるわたしたちが一致して礼拝を捧げることができるのは、同じ信仰を持っているに他なりません。日本基督教団信仰告白とは、違いのあるわたしたちを、一つに結び合わせる絆なのです。

 

聖書信仰

日本基督教団信仰告白の特質は、「聖書」信仰を語るところから始めていることにあります。一人一人を結ぶ絆は、何よりも神の言葉である「聖書」であるという信仰が表れています。そして、日本基督教団信仰告白が、聖書に対する告白から始まるのは、広い意味で改革派教会の伝統に立っているからです。

改革派教会の基礎を作ったのは、ジャン・カルヴァンです。カルヴァンの神学は、神認識から始まります。人間にとって一番大切なものは、神を知ることであるのだと。ところが、人間は罪のために、神さまの方からご自身を啓示してくださらなければ、神を知ることができないのです。神がどういう方であるのかを示してくださったのは、神の言葉であられるイエス・キリストですけれども、イエス・キリストがどういうお方であるのかは、聖書によってしか知りようがないことなのです。

先月は「旧新約聖書が、神の霊感によりて成り、教会の拠るべき唯一の正典」であることを学びました。そこではお話ししなかったことですが、皆さんの中で「逐語霊感説」という言葉を聞かれた方があると思います。聖書の一語一句が、神の霊感によって書かれたものであるがゆえに、絶対に誤りがないのだという考え方です。

逐語霊感説によれば、神の霊感を受けた聖書の書き手は、半分意識が失った状態のようになっていて、筆記用具のようになっていたことになります。しかしながら、わたしたちが聖霊を受けたときに、恍惚状態になるのではなく理性の人となります。聖霊を受けたときにこそ、神に造られた本来の自分を回復するからです。

 

キリストを証し

聖書の記者もまた、聖霊を受けたことで意識が鮮明になり、神の言葉を書き記しました。「神の霊感により」、「キリストを証し、福音の真理を示す」ように書いたのです。イエスさまは、ヨハネによる福音書53940節で、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」と言われました。

これは、イエスさまがユダヤ人たちに対して、主にはファリサイ派の人々に向けて語られた言葉です。彼らは聖書の中に永遠の命があると考えて、一生懸命に聖書を研究していました(ここでの聖書は旧約聖書です)。イエスさまは、彼らの考え方が間違いだと言われているのではありません。永遠の命を求めながらも、わたしのところに来ようとしないという問題を、イエスさまは語られたのです。

イエスさまは、ヨハネによる福音書の173節で、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と語られています。永遠の命を、死んでからいただく命と考えるとすれば不思議な言葉ですが、この言葉は、先ほどお話しした改革派教会の「神認識」と響き合ってきます。永遠の命とは、神を知り、イエス・キリストを知ることだというのです。

そして、ヨハネ5章39節において、イエスさまは、「聖書はわたしについて証しをするものだ」と言われました。これらのことは、わたしたちが聖書をどのように読むのかを教えます。それは、聖書から命をいただくために、イエスさまと出会わせてくださいと祈りつつ読むということです。旧約聖書には、イエス・キリストは直接出てきませんが、預言として証しされています。新約聖書にも、いつも出てくるわけではありません。しかし、旧約においても新約においても、聖書の中心にはいつもキリストの救いの出来事がある。聖書には全体としてイエス・キリストが証言されている。そのことが、「旧新約聖書は、キリストを証し」という言葉で告白されているのです。

 

福音の真理を示し

さらに日本基督教団信仰告白は、聖書が「キリストを証しする」と共に、「福音の真理を示す」と言い表しています。「福音の真理」とは、どういう意味なのでしょう。新共同訳聖書で「福音」という言葉と、「真理」という言葉は何度か出てきますが、「福音の真理」という用例は、ガラテヤの信徒への手紙2章5節と14節の二回しか出てこないのです。「福音の真理」という言葉は、「信仰者の自由」と共に、ガラテヤの信徒への手紙の主題となっています。

「福音」とは、「良い知らせ、喜びの知らせ」という意味ですけれども、福音の内容は、イエス・キリストによる救いの知らせです。「真理」とは、変ることのない神の愛を示しています。神は変ることのない真実な愛をもって、罪人を深い淵の中から救いだしてくださいました。イエス・キリストの十字架に、救いの出来事が集中しています。

ゆえに、「福音の真理を示し」とは、旧新約聖書には、イエス・キリストによって実現された救いが示されているということなのです。すると「キリストを証し」という言葉も、キリストによって救いが実現したという「福音」が証しされていることに他ならないのですから、「キリストを証し」と「福音の真理を示し」の二つは、同じ内容を、言葉を変えて表現しているのだということになります。旧新約聖書は、「キリストを証する」書物であり、「福音の真理を示す」書物なのです。

ですから、わたしたちが聖書を読むとき、聖書は旧新約全巻を通して、「キリストが証しされ、福音の真理が示されている」という信仰を持って読み、そのように解き明かされることが大切なのです。そのような説教が語られたとき、説教が、神を知らせる言葉として響き、永遠の命を与える言葉として聞かれるのです。

 

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