礼拝説教要旨


2014年8月3日
日本基督教団信仰告白() 「されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、
全き知識を我らに与ふる神の言にして」 田口博之牧師
詩編119129131節、ヨハネによる福音書1612-13



聖書とは何か

これまでの二回の礼拝で、一段落の第一文「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。」までを学びました。第二文は、「されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」と続きます。この第二文が告げていることを、今月と次月の二回の礼拝で聴きたいと考えています。

ある牧師が、第一文は「聖書とは何であるか」が語られているのかに対して、第二文は「聖書をどのように読むのか」を語っているのだ、と言いました。なるほどと思いました。旧新約聖書は、神の霊感すなわち聖霊によって書かれていて、その内容はキリストが証しされ、福音の真理が示されています。教会は新旧約聖書66巻を正典としましたので、聖書とは別に神の言葉にふさわしいと考えられる文書が発見されたとしても、正典に加えられることはありません。あるいは聖書以上に、信仰にとって素晴らしいと思われる文書が書かれたとしても、正典に加えられることはありません。このように第一文は、聖書とは何であるかを語っているといえるのです。

 

聖書をどう読むか

では、聖書はどのように読まれるものなのでしょう。「されば聖書は聖霊によりて」とあります。「されば」とは、そうであるから、という意味でありポイントは聖霊です。聖書は「神の霊感によって成り」、すなわち聖霊の導きのもとに書かれているからこそ、「聖霊によりて」読むのです。聖霊の助けによって読まなければ、聖書は表面的な字面の部分しか理解できません。

聖書研究やCSの説教に当たったとき、色んな参考書、注解書によって聖書を調べるでしょう。ところが、たとえば旧約の律法の書を読みながら、ああここに、キリストが証しされているとか、ここに福音の真理が示されている。そのような言葉と出会えることはほとんどありません。注解書では、言葉の意味は分かったとしてもキリストとは出会えない。ですから聖書を読むときの真の助けとなるのは、注解書よりも聖霊なのです。

 

真理の霊によって

ヨハネによる福音書の14章から16章には、イエス様が十字架に死なれる前日の夕べ、弟子たちに語られた告別説教が記されています。ここでイエス様が語られていることの中心は、自分が去った後で「聖霊」が与えられるという約束です。1416節では、聖霊を「弁護者」と呼んで(口語訳では「助け主」)、あなたがたに遣わすと約束され、17節では、「真理の霊」と呼び変えられています。

さらに、1612節では、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。」と言われます。まだ聖霊が与えられていないから、何を言っているのか理解できないと言われた上で、13節で「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」と約束されています。悟らせる内容は、8節にある「罪について、義について、また、裁きについて」ということですが、日本基督教団信仰告白の第二文の言葉を用いれば、「神につき、救いにつきて」悟らせるということです。それゆえに聖霊は、「真理の霊」と呼ばれるのです。聖霊によって福音の真理が明らかにされるのです。

 

神の言葉である聖書

さて、「全き知識を我らに与うる神の言にして」と言いますが、「全き知識」といっても、世の中のすべて、科学、政治・経済のしくみなどを、聖書から学び取ろうとしても無理なのです。聖書から得られる知識は、「キリスト」すなわち「神について」であり、「福音の真理」すなわち「救いについて」です。ですから、わたしたちが聖書を読むときには、「神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言」として読むのです。神の言葉であるからこそ、信仰の規範となり得るのです。

そう考えると、聖書について語る第二文の骨格は、「聖書=神の言」であるとの宣言であることが分かります。聖書が神の言葉であることは自明なのですが、聖書は神の言葉として読まれることを求めているということです。それが正しい信仰なのだと日本基督教団信仰告白はうたっているのです。教会の信仰としては当たり前の話をしていると思われるかもしれませんが、聖書は神の言葉として読むのではなく、知識の言葉として読まれてしまうことが案外と多いものなのです。

そのような読み方をしてしまうと、「神について、救いについて」求めなくても平気になるのです。あるいは、求めたとしても、聖書が神について、救いについてどう語っているのか、客観的な知識を得ようという目的で読んでしまうのです。そういう姿勢では、聖書を語る説教も神の言葉としてではなく、一人の人間である牧師の語る言葉として聞くことになってしまうのです。

 

神の言葉として開かれるために

説教の言葉を神の言葉として聞くということについて、それ以前の問いとしてあるのは、人間に過ぎない自分が神の言葉を語れるのかという問いだろうと思います。説教をされたことがある方なら、必ずそういう問いにぶつかります。カール・バルトは初期の講演で、「神学者であるから神について語るべきであるが、人間である以上は語り得ない。この二つをわきまえることによって、神に栄光を帰するのである。」と語りました。これに対して、イーヴァントという神学者は、バルトの出発点を批判しました。イーヴァントは、「聖書から離れるならば、その瞬間にバルトの問いに直面することになるが、聖書を目の前に置けば、もはやそのように問うことはない」と言うのです。人間である自分を見る前に、神の言葉である聖書に関わり続けることを説教の基礎に置いたのです。

第二スイス信条の中に「神の言葉の説教は神の言葉である」というテーゼがあります。聖書を説く説教によってこそ、聖書が神の言葉として立ち上がってくるということです。そこでも欠かせないのは聖霊です。聖霊によって、人間が神の言葉を語れるだろうかという問いを乗り越えるのです。

今日はもう一箇所、詩編119編より、129節から131節を取り上げました。

あなたの定めは驚くべきものです。わたしの魂はそれを守ります。

 御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与えます。

 わたしは口を大きく開き、渇望しています。あなたの戒めを慕い求めます。

この詩編の作者は、神の光の中を歩みたいと切に願っています。そのためには聖書が真に神の言葉として語られ、聴かれる必要があるのです。

詩編の作者が望んだように、現代は神の言葉の光に照らされることが必要な時代となっています。闇が広がっています。悩み多き時代です。争いが絶えません。薬物が蔓延しています。命の尊厳が見失われています。ところが救いを求めても、手にした聖書を読むだけでは分からないのです。エチオピアの宦官をフィリピが助けたように手引きする言葉が必要です。教会はその求めに答える使命があります。求める人を見出す伝道が必要なのです。

 「されば、聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして」第一段落の第二文は、聖書をどう読むかを教えていると共に、聖書をどう語るか、どう聴くかを教えています。

御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与えます。」暗い世の中ですが、まことの光が照らされなければ、その暗さは分からないものなのです。聖書の言葉が開かれることが求められています。わたしたちは、そういう時代に生きているのです。

 

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