礼拝説教要旨


2014年9月7日
日本基督教団信仰告白() 「信仰と生活との誤りなき規範なり」 田口博之牧師
詩編119105107節、ペトロの手紙二12021



聖書信仰

 プロテスタント教会、特に改革派教会は、その国あるいは地域の信仰告白を生み出しました。それら信仰告白文書を見ていくと、大きく分けて「神」あるいは「啓示」から始まるものと、「聖書」から始まるものとがあります。わたしたち桜山教会が属していた日本基督教会も1890年に定めた信仰告白では、「我らが神と崇むるイエス・キリストは、神の独り子にして、・・・」と、イエス・キリストを主語に始まっています。

日本基督教団信仰告白は、旧日本基督教会信仰を継承していると言われながらも、根本的に異なるのは「聖書」から語り始めているということです。わたしたちの信仰は、神の言葉である聖書の確かさに基礎を置くことを、初めに言い表すのです。聖書信仰については、これまでの宣教で言い尽くしたようにも思えますが、もう一つ残っていることが、聖書が「信仰と生活との誤りなき規範」であるということです。

二か月に一度「愛知神学会」という有志の牧師による学びの会を持っていますが、ここ4年ほどかけて『キリスト教倫理学』という本を読んでいます。神学としての倫理学というのはピンと来ない面があったのですが、考えてみれば、聖書は倫理・道徳を語ります。わたしたちは聖書によって、多くの生活倫理を学んでいます。聖書で「してはならない」と語られているにも関わらず、これに背くと罪意識にさいなまれるといった、キリスト者ならではの倫理観が根付いています。お酒を飲むのは、聖書に照らすとどうなのか、ということを自然に考えると思うのです。

 

信仰の規範としての聖書

生活倫理と言いましたが、もう少し丁寧に読むと、「信仰と生活との誤りなき規範なり」と言われているように、「信仰」と「生活」の二つのことが語られています。ここで「信仰」というときには「信じることの内容」であり、第一段落の言葉を用いれば、「神につき、救いにつきて」です。 

わたしたちは、聖書から色々なことを知ることができますが、とりわけ「神」について知り、「救い」について知るのです。神については、「主イエス・キリストによりて啓示せられ聖書において証せらるる唯一の神は、・・・」で始まる第二段落で父、子、聖霊なる三位一体の神について詳しく語られます。そして「救い」については、第三段落に「神は恵みをもて我らを選び,ただキリストを信ずる信仰により,我らの罪を赦して義としたまふ。この変らざる恵みのうちに,聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ,その御業を成就したまふ。」とあるように、「選びと義認と聖化」について知ることができます。わたしたちは、聖書を「信仰の誤りなき規範」としてよく読むならば、誤った信仰に陥ることはないのです。

 

「誤りなき規範とならない」聖書の読み方

ところが、聖書をよく読むと言っても、「信仰と生活との誤りなき規範とならない」読み方、解釈がされることがあります。聖書を独りよがりに読んでしまうと、「聖書にはこう書かれてあるから、こうでなければ」と決めつけてしまうことがあるのです。聖書の言葉は、その言葉だけをつまみ食いするのでなく、全体を通して読まないと、おかしな解釈を生むことになってしまいます。

ペトロの手紙二1章20節以下に、「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。 なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。 」とあります。ここでペトロは、聖書の預言は人間が語った言葉であることを認めています。けれども、それは自分の意志に基づいてではなく、聖霊に導かれて神からの言葉を語ったのだと証言するのです。

聖書は千年以上の時代を越えて、たくさんの人の手によって書かれたのですから、矛盾したところが出てくるのは当然です。福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと四つありますが、イエス・キリストの復活、特に復活後の顕現について、福音書記者の書き方はかなり異なります。けれども、そこに深い真理が示されているのです。聖霊の導きを求めて読んでゆくときに、そのことが分かってくるようになります。

「信仰と生活との誤りなき規範とならない」読み方として、「わたしは聖書のこの言葉が好き、でもこの御言葉は気に入らない」そういう感覚的な読み方も危険です。それは信仰だけの話しではなく、普段の生活にも現れてしまいます。信仰と生活とは切り離せるものではないのです。

 

人生を生かす規範

日本基督教団信仰告白の中で、「生活」という言葉が出てくるのは、「信仰と生活との誤りなき規範なり」と言われるここだけです。聖書が「信仰」の絶対的な規範であるとともに、「生活」においても絶対的な規範であると告白されているのです。注意すべきことは、「信仰生活の誤りなき規範なり」ではなくて、「信仰と生活との誤りなき規範なり」と言われていることです。「父母を敬え」という御言葉一つをとっても、それは信仰の規範であるし、生活の規範であるはずです。わたしたちは信仰生活と現実の生活との間を行き来しているのではありません。聖書は日曜日の信仰生活の規範だけれども、月曜日から土曜日までのウィークデーは、社会生活、学校生活、家庭生活を営んでいるのだから、聖書は規範とならないということはありません。

日々聖書に親しむことは大切ですが、多くの人は時間に追われています。ウィークデーは日曜日ほど聖書に集中するのは難しいでしょう。であればこそ、週のはじめの礼拝が大切となるのです。神さまを礼拝して始める生活が、神さまと離れがちとなる一週間の生活を規定するのです。神さまと離れてしまって生きた一週の歩みを悔い改めつつ、神さまのもとに帰り、御言葉に新しくされて、週の歩みを始めて行くのです。

信仰と生活との誤りなき規範である聖書の言葉は、信仰者に高い倫理性を求めます。ヨハネによる福音書15章12節は、十字架にかけられる前の夜にイエスさまが語られた言葉です。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」ここでイエスさまは、ただ「互いに愛し合いなさい」と命じておられるのではなく、「わたしがあなたがたを愛したように」なのです。イエス様が先に愛してくださっている。目に見えるかたちで規範を示してくださっている。この御言葉を語る直前に、イエス様は弟子たちの足を洗われました。そして、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ1314-15)と言われたのです。

わたしたちは信仰と生活をふり返る時、愛のない自分に気づかされます。聖書を前にして祈る時、何と罪深い者であるかに気づかされ苦しみます。しかし聖書はわたしたちを罪の闇に閉じ込めることはせず光を与えます。その光は罪をさらすのではなく、赦しの光です。詩編119編の詩人は、「あなたの御言葉は わたしの道の光は、わたしの歩みを照らす灯」と歌いました。本当に必要な光は、人生のその一瞬を輝かせるような光ではありません。ろうそくの灯のように、わたしたちの信仰と生活の足もと一歩一歩を照らしながら、命の灯が消えても、その先まで灯し続ける光なのです。

聖書の言葉こそが、わたしたちの人生の道しるべとなるのです。御言葉の光に照らされたわたしたちの信仰と生活は、律法主義的な正しさに縛られるのでも、罪を赦され義とされた恵みにあぐらを欠くのでもなく、よき業を行える聖霊の実を結ぶ生き方へと導かれるのです。一般倫理からは見いだすことのできない、信仰と生活との誤りなき規範性が聖書にはあるのです。

 

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