礼拝説教要旨


2014年10月5日
日本基督教団信仰告白() 「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において
証せらるる唯一の神は」 田口博之牧師
ヨハネによる福音書118節、172526



わたしたちが信じる神

日本基督教団信仰告白の第二段落は、「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。御子は我ら罪人の救ひのために人となり、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり。」です。

ここも第一段落と同じく、二つの文から成っています。ここで語られている内容を易しい言葉で言い表せば、前半の「主イエス・キリストによって啓示せられ、聖書において証しせらるる唯一の神にていましたまふ。」は、わたしたちが信じる神さまが、どのような神さまであるのかということ。後半の「御子は」以下では、わたしたちが信じる神さまが、わたしたちの救いのために何をしてくださったのかが、語られているところだといえます。

今日はその前半部分を主題とします。第一段落でもお話ししたことですが、一つの文章の内容をよく理解するためには、主語と述語をつかんでおくということが大切です。そうすると、前半部分の主語は「唯一の神は」であり、述語は「三位一体の神でいましたまふ」となります。では、「唯一の神は三位一体の神である」とは、どういうことでしょうか。何だか矛盾した二つのことが言われているようで、普通に考えるとわけの分からないことのように思えます。そのためにも、今日の主題となる第一文の前半をよく理解することが大切になります。ここには、三位一体の神とも呼ばれる唯一の神のことを、どうすれば知ることができるのかが、語られているのです。

 

聖書によって神を知る

わたしたちは、日本基督教団信仰告白が聖書信仰から始まっており、聖書によって神と救いについて知ることができることをすでに学びました。ところが、第二段落の前半部分に、あらためて「聖書に証しせらるる唯一の神」という言葉が出てきます。わたしたちが信じる唯一の神は、聖書に証しされていることが、念押しするように語られているのです。

これは当たり前のことのようですが、とても大切なことなのです。なぜなら、神さまは聖書に証しされているという信仰に生きていなければ、わたしたちは「どうすれば神さまを知ることができるでしょうか?」と問われたとき、正しく答えることができないのです。案外「聖書によって」と答える前に、大自然に触れたときに天地を創造された神さまの偉大な働きを知ることができるとか、試練に遭ったときに神さまの助けを知った。そのような答え方を簡単にしてしまうことはないでしょうか。

ところが、素晴らしいと思っていた大自然は、形を変えてしまうことがあります。地殻変動によって、美しい山が噴火したり津波が起こる。そこで命を亡くされる人があり、悲しみに暮れる人を目の当たりにすると、素晴らしいと思っていた神さまに疑いを持ってしまうことがあるのです。自然災害一つで疑いを持つような信仰が、果たしてキリスト教信仰だといえるでしょうか。信仰深いと思っていたのに、日本の古来の山の神、海の神、を信じるような信仰でしかなかった。自分の思いの中で、神を造り出してしまっていたことが、明らかとなってしまうのです。唯一の神は、聖書によって証しされています。三位一体の神は、聖書を通して知ることができるのです。

 

キリストによる啓示

ところが、日本基督教団信仰告白は、「聖書において証される」という前に「主イエス・キリストによりて啓示せられ」と教えています。「啓示」という言葉は、「覆いを取って、それまで隠されていたものが明らかにされる」という意味の言葉です。ヨハネの黙示録の「黙示」も、ほぼ同じ意味だと考えて構いません。今日は聖餐の用意がされており、今はパンと杯の入った器の上に布の覆いがかぶさっています。中に何があるのかは、覆いが取り除かれてはじめて分かる。それが「啓示される」ということです。

神さまはわたしたちの目には見ることはできないお方です。旧約の時代には神のみ顔を見ると死んでしまうと考えられていました。神さまという存在は分かっても、ベールに覆われていたのです。その神さまが「主イエス・キリストによりて啓示される」のです。イエス・キリストは、隠されていた覆いを取り去って、神さまがどのようなお方であるかを示してくださったのです。

ヨハネによる福音書118節は、そのことを明確に告げています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」と。わたしたちがいかに努力しても、どれほど一生懸命に聖書を読んだとしても、神ご自身が示してくださらなければ、誰も神を知ることはできないのです。目に見ることのできない神を示してくださったただひとりのお方が、イエス・キリストです。

ヨハネによる福音書は、キリストのことを「父のふところにいる独り子なる神」と呼んでいます。「父のふところにいる」とは、小さな子どもがお父さんに抱かれている、そのようなイメージです。わたしがはじめての子を抱っこしようとしたとき、右腕でなく左腕で抱えるようにと教えられました。その方が、赤ちゃんはお腹の中で聞いていた心臓の音を聞けて安心するのだと。父なる神のふところに抱かれていたイエス・キリストは、神さまがどれほど愛と恵みに満ちたお方であるのかをご存知なのです。そのイエスさまが人となってくださったことによって、ベールに包まれた神さまの性質を示してくださったのです。

 

神と同質だからこそ

使徒信条と並んで重要かつ最古の信仰告白文書に、ニケア信条=ニカイア・コンスタンティノポリス信条があります。ニケア信条も使徒信条と同じように、父、子、聖霊なる三位一体の神について告白しています。その中に、「またただひとりの主イエス・キリストを信じます。主は神のみ子、御ひとり子であって、世々に先立って父から生まれ、光からの光、まことの神からのまことの神、造られたのでなくて生まれ、父と同質であって、すべてのものは主によって造られました。」とあります(『讃美歌219342より)。

わたしたち人間は、他の被造物と同様に神さまによって造られたものです。ところが、イエス・キリストだけは「造られたのではなく生まれ、父と同質であって」と告白されています。もしイエス・キリストが造られたものであるとすれば、父と同質ではなくなってしまいます。この「同質」=ホモウシオスという言葉をめぐって、古代教会において激しい神学論争が繰り広げられました。ニケア信条はその結晶です。イエス・キリストが、造られたのでなく世に先だって父からお生まれになった。神と同質であられる。それゆえにイエス・キリストは、神のみ子、御独り子と呼べるのです。

イエスさまが神を啓示してくださらねば、誰一人として神さまの本質は分からないままでした。旧約聖書を読んで多くの方がそういう印象を持つように、神は愛の神でなく裁きの神と受け取られてしまったのです。神に裁かれることのないように、正しいと認められるように、ユダヤ人は一生懸命に律法を守ろうとしたのです。神さまの本質が分からなかったから、そのようにしたのです。そのように神を見失った世界に、イエス・キリストは来てくださり、ご自身をもって神を示してくださいました。

ところが、啓示された神は、人々が思い描いていた神とは異なっていたのです。「暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ15)、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」(ヨハネ112)それゆえ、しかし、教会に生きるわたしたちは理解できます。聖書のキリスト証言を通して理解できるのです。聖書を語る説教によって、神を知ることができるのです。もう一言いえば、聖霊の助けによって理解できるのです。そこにも三位一体の神の豊かな交わりがあります。

 

見える御言葉をもって

今日はもう一箇所ヨハネによる福音書172526節を読みました。イエスさまが十字架へと向かわれる直前、送別の祈りの最後の部分です。「正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。

「わたし」とはイエス・キリストご自身であり、「あなた」とは父なる神のことです。「この人々」とか、「彼ら」と言われているのは、弟子たちのことであり、わたしたちも含まれます。聖書を通して、キリストと神が一つであることを知った者たちが、神と一つとなって生きるようにと、イエスさまは執り成してくださっているのです。

10月第一主日は、WCC(世界キリスト教協議会)で世界聖餐日と定められています。キリストを信じる者たちが、キリストにあって一つとされている恵みを覚えつつ聖餐を受ける日です。聖餐は、今覆われている布が外され、パンと杯の入った器の蓋が開けられても、まだ信仰が与えられてない方にしてみれば、ただのパン切れであり一口のぶどう液でしかありません。しかし、信仰者にとっては、パンを取って食べ、杯をいただく時にキリストの恵み深さを知り、聖書に証しされたキリストご自身が、私たちの身に宿っていただく時となるのです。

わたしたちは聖書を語る見えない御言葉を通して、また聖餐において表される見える御言葉を通して、キリストと共にある喜びに生かされます。唯一の神は三位一体の神として、わたしたちの信仰と生活に具体的に関わり導いてくださいます。イエス・キリストによって啓示された信仰に生きる慰めと豊かさがあるのです。

 

礼拝説教要旨のページへ