礼拝説教要旨
2014年12月7日
日本基督教団信仰告白(7)
「父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたもう」 田口博之牧師
マタイによる福音書1章20~23節、コリントの信徒への手紙二13章13節
①教会の歴史につながる
日本基督教団信仰告白の第二段落から、キリストの啓示によって聖書に証しされた唯一の神が、「父・子・聖霊なる、三位一体の神」であられることについて学びます。唯一の神が、三位一体の神であるとは、普通に考えればわけの分からないことが言われているように思います。しかし、ヨハネによる福音書1章18節において、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」と明確に告げられています。
けれども、イエス・キリストが神でなかったとしたら、神の啓示は不完全なものとなってしまいます。現代も、キリストは神の子であるが、神そのものではないと主張する論客がいます。肉体を持つ「神」などありえない。イエスが神の子だったとしても、肉を受ける時点で相対化されてしまい、ただの人となったのだという主張です。
2千年のキリスト教会の歴史は、そういうもっともらしい主張との戦いであったといえます。わたしたちの教会が、日本基督教団信仰告白を告白するということは、教団の教会に属するということだけではありません。三位一体の教理も、父と子は同質であるという古代教会に確立した信仰に基礎づけられています。この信仰を告白するということは、世界の教会の歴史につながるということを意味するのです。
②聖霊による受肉
さて今日は、アドヴェント第二聖日という教会暦も考え合わせて、マタイによる福音書1章20節から23節を聖書テキストとしました。ここには、神を啓示する神の子が、聖霊によって宿られたことが語られています。その子は「イエス」と名付けられますが、「この子は自分の民を罪から救うからである。」とあります。イエスという名前に、救い主としての働きが示されています。そして22節以下には、このすべてのことによって、預言者を通して言われていた「神は我々と共におられる」インマヌエルの出来事が実現することが告げられています。神は唯一であると言いつつ、単純に「神様は」という言葉では表せない、神の働きの豊かさが語られています。結論を言うと、その豊かな働きこそが、三位一体の神の働きといえるのです。
何よりも目に留めたいのが「聖霊によって」という言葉です。20節「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」と。また、その前の18節にも、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」とあり、「聖霊によって」と繰り返し語られていることがわかります。
ルカによる福音書でも、天使ガブリエルは「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(1:35)と、マリアに告げています。アドヴェントからクリスマスの出来事は、聖霊を抜きに語ることはできないのです。
③命を生み出す霊の働き
そのように言うと、聖霊が降ったのはペンテコステの時でなかったのか、と思われるかもしれません。確かに、救いの歴史においける聖霊の働きは、イエス・キリストの死と復活と昇天を通して明らかになりました。けれども、旧約の創造物語において、天地創造の初めより「神の霊が水の面を動いていた。」(創1:2)と語られています。土から造られた人間は、「その鼻に命の息(すなわち霊)を吹き入れられた」(創2:7)ことによって、生きる者とされたことが告げられています。
父なる神、子なる神と共に、聖霊も永遠の神であられるのです。そして、聖霊の働きは、創造、命の誕生と密接に関わっています。教会もまた、聖霊が注がれたことによって誕生したのです。神の子が人間として誕生するときもそうでした。イエス・キリストは、処女(おとめ)マリアから生まれましたが、「処女マリアより生れ」の前には「主は聖霊によりてやどり」があるのです。御子の誕生は聖霊のわざ、人間の常識を超えた神の出来事なのです。
イエスは神の子であったが、肉を取った時点で相対化され神ではないという主張も、聖霊の働きを無視しているから言えることです。一人の人間が誕生するということ自体、奇跡的なことです。そこに神が働かれたと信じるときに、一人の子に対する人間の尊厳が生まれます。一人の信仰者が誕生するということもそうです。死すべき人間が洗礼を受けて新たな命に造り変えられ、神様のものとして歩み始める。聖霊の働きなしに成せることではありません。イエス様が洗礼を受けられたときも、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」(ルカ3:22)のです。
④三位一体の神の名による祝福
わたしたちがささげている礼拝も、父・子・聖霊なる三位一体の神への信仰を抜きにしては成り立ちません。礼拝の終わりの讃美歌は、三位一体の神の永遠性を歌う頌栄で結ばれます。賛美の後に行う祝祷では、三位一体の神の名による永遠の祝福を告知しています。コリントの信徒への手紙二13章13節「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。アーメン。」
しばしば、この順序について指摘されます。「父、子、聖霊」と言うように、神の愛がはじめに来るべきであり、その後で主イエス・キリスト、聖霊と続くのが自然ではないか、パウロはなぜ、「主イエス・キリストの恵み」を初めに語ったのかと。しかし、このことも「神の啓示」から考えると分かります。わたしたちは、主イエス・キリストの恵みによって、神を父と呼ぶことができるのです。父なる神とは、正しく言えば、「主イエス・キリストの父なる神」です。主イエス・キリストの恵みなしに、神を父と呼ぶことはできません。
では、「聖霊の交わり」とは何でしょうか。皆さんはどのように聞かれているでしょうか。実は「聖霊との交わり」という考え方と「聖霊がもたらす交わり」二つの考えが可能なのですが、わたしは後者をイメージして祝祷しています。この礼拝に連なった方々が、「主イエス・キリストの恵みと、父なる神の愛と、聖霊がもたらしてくださる親しき交わりに生かされるように」御子の誕生の時に約束され、よみがえりの主が天に昇られる前に語られた、インマヌエルの主の祝福に支えられて、この一週間の旅路を歩めるようにと祈りつつ、「あなたがた一同と共にあるように。」と祝祷します。
⑤三位一体の神の豊かさに支えられて
実は今日は、三位一体についてどうすれば分かりやすく言い表せるのか、ずっと考えていました。太陽と光と熱、液体と固体と気体など、分かりやすいたとえを探しました。でも結局は、どうやっても言い表せないことが分かりました。神様のことを見つめるほどに、「父、子、聖霊なる三位一体の神」という言葉でしか言い表せないことを、あらためて感じたのです。
三位一体という言葉は、聖書に登場しない、人間が造り出した言葉として批判的な見方がされることがあります。ところが、三位一体の信仰を抜きにして、聖書を正しく理解することはできないのです。むしろ、三位一体の神を信じる信仰は、聖書を正しく読もうとした結果として、生まれてきたものなのです。
神は愛です。神が愛であられるのを支えるのは、神ご自身が、父、子、聖霊なる一体の交わりを持っておられるからです。それゆえ神の愛は孤独でなく豊かなのです。豊かでありかつダイナミックな神の愛によって、わたしたちは創造され、和解させられ、聖なる者になるよう導かれるのです。