礼拝説教要旨


2015年1月4日
日本基督教団信仰告白
() 「御子は我ら罪人の救いのために人と成り」 田口博之牧師
ヨハネによる福音書1章10節〜
14

 

@「クール・デウス・ホモ」

日本基督教団信仰告白は、三位一体の神を信じる信仰を告白した後で、「御子は我ら罪人の救いのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲(いけにえ)として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり」という告白が続きます。この部分は、イエス・キリストの生涯を通して成し遂げられた救いが語られているところです。日本基督教団信仰告白は、この告白によって、イエス・キリストが私たちの救い主であることを言い表します。

神の御子が人となられた目的が、罪人の救いのためであり、私たちの贖いのため、というのですから、この部分は、一息で読む手もあったかもしれません。年末年始に『クール・デウス・ホモ』という本を読みました。著者はスコラ哲学の祖と呼ばれ、1093年にカンタベリー大司教となったアンセルムスです。ラテン語の原著名がそのまま本の題となっていますが、日本語で小さく(神は何故に人間となりたまひしか)と添えられています。「クール・デウス・ホモ」は、神がなぜ人となられたのかを問う書物ですが、その理由を「贖罪」を通して語っています。神が神であられるままでは、贖いとはなりえないのです。

しかし、今日は前半部分の「御子は我ら罪人の救いのために人と成り」を宣教の主題としました。伝統的な教会暦では、今日はまだ降誕節です。東方の博士たちが御子を礼拝したことを記念する1月6日の公現日までは、クリスマスの飾り付けもそのままです。「御子は我ら罪人の救いのために人と成り」とは、クリスマスの出来事をさしています。

 

A受肉

神が人のかたちを取って現れることを、「受肉」という言葉で言い表します。ヨハネによる福音書は、1章14節で「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」という言葉で神の受肉を語ります。ヨハネ福音書には、羊飼いも博士も天使もヨセフもマリアも登場しませんが(後に「イエスの母」は出てきます)、受肉を語ることでクリスマスのメッセージとしています。このときヨハネは、神の栄光を見たのです。それは恵みと真理に満ちた栄光であり、罪ある人間に赦しを与える栄光です。それゆえに、ヨハネにとっては、主の十字架も栄光を受ける時となるのです。

「罪人(つみびと)」という言葉は、信仰者にとっては聞き慣れた言葉となっていますが、聖書を知らない人にとってはそうではありません。金城学院高校で授業を持った時、黒板に「罪人」と書いたら、かなりの生徒が「ザイニン」と読みました。何らかの犯罪に関わった者でなければ、「罪」とか「罪人」というのは遠い話しなのです。誰も自分が「贖われるべき罪人である」とは思いもしないのです。

ヨハネによる福音書は1章10節から11節に、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」とあります。世の中のほとんどすべての人が、御子を受け入れなかったのです。その人たちは、自分たちに罪があるとは思ってなかったからです。「御子は我ら罪人の救いのために人と成り」の「我ら罪人」とは、神に自然に背いてしまっているわたしたちすべての人間を表しています。

アンセルムスは先の書物のなかで、「神は何故に人間となりたまひしか」を、自分の弟子との問答形式によって明らかにしていきます。日本基督教団信仰告白の「御子は我ら罪人の救いのために人と成り」は、「罪人の救いのため」という言葉によって、アンセルムスの問いに答えたものだとも言えます。しかし、アンセルムスはそのことは分かって述べています。アンセルムス自身が日本基督教団信仰告白を知っていたと思うほどです。それは、「罪人の救いのため」ということが、古代教会の時代より広く受け入れられていたことだからです。

 

Bわたしたちのための救いの出来事

今日発行した信徒研修の案内の中で、ニケア信条にある文言を書きました。ニケア信条では御子の受肉について、「主は人間である私たちのため、私たちの救いのために、天からくだり、聖霊によりおとめマリヤによって受肉し、人となり」(NCC訳)と語っています。ここに「罪人」という言葉は出てきませんけれども、「主は人間である私たちのため、私たちの救いのために」と「私たち」という言葉が重ねられています。そのような仕方で、救いの出来事の驚きを語るのです。

自分が罪人であることを知らなければ、聖書の言葉が語られても、舞台の上の台詞のようにしか聞けないでしょう。ニケア信条に「天からくだり」という言葉が出てきます。舞台に立っている人が、観客席に降りてきて自分の目の前に立ったならば、心臓の鼓動も大きくなるでしょう。しかもその人が、自分の手を取って舞台に上げられたとすれば、もう他人事ではいられなくなります。

ベツレヘム周辺の野原にいた羊飼いたちがそうでした。いきなり自分たちにスポットライトが当たり、天使によって栄光のステージへと引き出されたのです。羊飼いたちは、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」と聞いて「主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」と、ベツレヘムへ向かわずにおれなくなったのです。そのようにして、救いの出来事に巻き込まれていったのです。受肉とはそういう出来事なのです。受肉は観念的なことではありません。「御子は人と成り」です。救いの出来事には動きがあるのです。

「我ら罪人」という言葉を、ニケア信条が「私たちのため」と言葉を重ねて表現したように、神はすべての人々の救いのために人となられました。十字架にかけられるため、贖いの犠牲となるためです。罪人の救いは、御子の受肉以外に手立てがなかったのです。

受肉されたということは、神が人間の歴史の中で救いの御業を始められたということです。具体的にある時代のある場所を生きる人間となられたのです。私たちは「イエスさまは2千年前のイスラエルで・・・」と簡単に言ってしまいますが、聖書はもっと克明に伝えています。イエス・キリストは、ローマ皇帝アウグストゥスの時代、キリニウスがシリア総督であった時に行われた最初の住民登録の時に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったことを。ガリラヤのナザレで育ち、皇帝ティベリウスの時代にガリラヤとユダヤの全土で神の国の福音を宣べ伝えたことを。エルサレムでポンテオピラトのもとで十字架にかけられたことを。わたしたちの救いは、この地上における具体的な出来事として始まったのです。救いにあこがれる人間が、自分の頭の中で考えたものではないのです。

 

C神の子とされる恵み

ヨハネによる福音書1章12節に「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」とあります。自分が罪人であることを認め、自分を救うために御子が罪人となられたことを知る時に、神の子としての資格が与えられるのです。13節で「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」と語られているとおり、わたしたちの生まれや育ち、今どんな地位にあるのかなど関係なしに、神によって新しく生まれ変わることができるのです。これをただ信じればいい、そうすれば救われるのです。これが福音です。

聖餐の招きの言葉で、テモテへの手紙一1章15節の御言葉が読まれます。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」と。日本基督教団信仰告白の「御子は我ら罪人の救いのために人と成り」と響き合います。そのために、人となられ、十字架にかけられ、わたしたちの贖いとなられたのです。受肉がなければ、パンと杯が差し出されることはありませんでした。この主が招いてくださるからこそ「我ら罪人」という言葉も恵みの言葉として聞くことができるのです。

 

 

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