礼拝説教要旨


2015年2月1日
日本基督教団信仰告白
(9) 「十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ」 田口博之牧師
ヘブライ人への手紙10118

 

@「いけにえ」と「贖い」

日本基督教団信仰告白の第二段落は、「御子は我ら罪人の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり」です。御子の受肉と十字架と贖いとを切り離して語ることはできません。しかしここには、見過ごせないもう一つのことが語られています。それが、「ひとたび己を全き犠牲として神にささげ」です。イエス様はご自身の命をいけにえとして神にささげられたのです。

今日はヘブライ人への手紙 10章1節以下をテキストとしましたが、923節以下の小見出し「罪を贖う唯一のいけにえ」に含まれるところです。この小見出しにあるように、「いけにえ」と「贖い」とは切っても切り離せないことです。ところが、「いけにえ」と「贖い」は、別々の事柄だということも事実です。一人の人間がいけにえとして献げられたからといって、誰かの罪が贖われるということは、普通では考えられないことだからです。

イスラム国に捕えられている日本人が無事に生きて帰ってくるよう、日本でそして世界で祈りがささげられています。ところが、今朝になって「後藤健二さんが殺害されたと見られる」というニュースが入りました。大変残念な知らせです。説明の一例とはしたくないことですが、人質が解放される条件として、初めはお金が要求されていました。途方もない額でしたけれども、次に別の人の解放が引きかえに求められています。捕らわれ人が解放されるためには、贖いとなる何かが必要なのです。その場合にも、誰かがいけにえとなるということはまずありません。いけにえというのは、神様に献げられるもので、祭儀的、宗教的な用語です。ところが、イエス・キリストの十字架においては、別の事柄であるはずの「贖い」と「いけにえ」が一つに結びつけられるのです。

 

A「犠牲」と「いけにえ」

ところで、「いけにえ」という言葉について、日本基督教団信仰告白では、「犠牲」という字を書いて、「いけにえ」と仮名を振っています。ふりがなを付けない限りは、「犠牲(ぎせい)」としか読めません。パソコンで「いけにえ」と入力したら。平仮名か「生贄」という生々しく感じる漢字で変換されます。では、何故ここでは「犠牲」と書いて「いけにえ」と読ますのでしょうか。

「犠牲」という言葉は、戦争とか震災とか、何かに巻き込まれて犠牲者となった。そういう意味合いが強い言葉です。一方、「いけにえ」という言葉には、犠牲以上に主体的な響きがあります。イエス様の十字架の死を「犠牲(ぎせい)」という言葉で言い表すことはありますが、自ら「いけにえ」となって十字架に献げられた。そう言ったほうが、よりぴったりくるように思います。 

そうはいっても、自分から進んでいけにえになる、という人は誰もいないことも事実です。旧約の礼拝では、雄牛とか雄山羊、鳩など自分の命の代わりになるものを、いけにえとしてささげました。しかも、人が直接、神の前に進み出ることはできず、祭司が仲立ちをして、いけにえの動物を神にささげたのです。つまり「いけにえ」という言葉に主体的な響きがあると言っても、結局は自分ではなく第三者に託すしかないのです。

では、イエスさまはどうだったのでしょう。日本基督教団信仰告白は「ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、」と、ここに「己」という字が出てきます。他のものではない、御子が己を、すなわち自分をいけにえとして、神に献げられたのです。

 

B繰り返しでなく、ただ一度

このように、イエスさまの十字架の背景には、旧約の祭儀犠牲の流れがある一方では、別物と言っていいほどの新しさがあるのです。それは、「ひとたび己を全き犠牲として神にささげ」の「ひとたび」も「全き」もそうなのです。これらは、旧来の祭儀ではありえないことなのです。そのことがよく表わされているのが、ヘブライ人への手紙10章の次の言葉です。

11節には、「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を取り除くことのできない同じいけにえを、繰り返し献げます。」とあります。イスラエルの人々は、自分の罪を取り除いてもらうために、いけにえとなる鳩や動物を持ってきて祭司に託しましたが、これは「繰り返し」行われることだったのです。しかも、何だか驚くべきことと思いますが、どれだけ同じいけにえを繰り返し献げても、決して罪を取り除くことができないことが、分かって行われていたのです。

このことを踏まえて1節以下を読んでみます。「いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。」(1節)。ここでいう「律法」とは、レビ記にこと細かく記されてあるような、かつての旧約祭儀です。一方、「やがて来る良いこと」とは、すでに来て下さったイエス・キリストのことです。律法は、キリストご自身が献げられることによって成し遂げられた贖罪の影であって実体はない。そう言われているのです。「完全な者にすることはできません。」とは、罪が赦されることはない。贖いとはならないということなのです。4節に「雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。」とあるように、いけにえとしては不十分なのです。

 

Cひとたび己を全き犠牲として

したがって、「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げ」ねばならなかったのです(11節)。一方で、10節には「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。」とあります。神の独り子が「ただ一度」いけにえとなられたため、もう繰り返し犠牲をささげる必要はなくなったのです。

14節「なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。18節「罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。」と続きます。かつてのような律法の祭儀による献げ物は、「ひとたび」ではなく、「全き」でもなく、「己を」ささげるのでもなかったのです。これに対して、イエス・キリストは、「ひとたび(ただ一度)己を(自分を)全き(完全な)いけにえとして神にささげ」られたのです。こうして贖いが成し遂げられたのです。

それゆえ、教会には祭壇が必要ないのです。祭壇はないけれども、教会にはキリストがただ一度献げられた十字架が掲げられています。教会はキリストの十字架によって贖い取られた群れなのです。キリストの十字架の福音が毎週語られ、しかも月の初めには聖餐においてキリストの体と血とをいただくことができるのです。罪が除かれていないから繰り返しあずかるのではありません。ただ一度の出来事によって、罪赦されている恵みを繰り返し確かめることができるのです。何という恵みでしょうか。

 

 

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