礼拝説教要旨


2015年3月1日
日本基督教団信仰告白
(10) 「我らの贖いとなりたまへり」 田口博之牧師
ローマの信徒への手紙3章2126

 

 

@贖いの意味

教会にいると使いなれた言葉というものがあります。その中には、わたしたち自身分かっているようで、分かった気がして使っている言葉や言い回しがあるのではないでしょうか。「贖い」という言葉も、しばしば用いられますが、「赦し」、「救い」「償い」と、ほぼ同じ意味にとらえています。しかし、同じではありません。わたしたちは、厳密な言葉の区別をせずに用いるとことがよくあるのではないでしょうか。

わたしたちの日常会話で、「贖い」という言葉が用いられることは、ほとんどないだろうと思います。しかし、聖書の世界では用いられていました。新共同訳聖書巻末の「用語解説」に「贖い」という言葉が説明されています。そこを読むと「旧約では、1)人手に渡った近親者の財産や土地を買い戻すこと、2)身代金を払って奴隷を自由にすること、3)家畜や人間の初子を神にささげる代わりに、いけにえをささげる意味がある。」と書かれています。

この三つのうちの3)については、先月の宣教で学びました。1)と2)から、贖いとは、お金に関係する用語だということが分かります。「買い戻す」も経済的な用語です。わたしは、牧師になる前の家業を営んでいた時期に、割引して現金化した手形が不渡りとなり、銀行から買い戻して欲しいと言われたことがありました。その手当をするのに大変な思いをしたことがあります。また、会社を閉じるときに、負債の一部を肩代わりしてくださる方が見えました。わたしは、「贖い」という言葉を聞くたびに、その頃のことを思い出すのです。自分で自分を贖うことは出来ないし、他者のための贖いとなるということは、愛がなければできないことを実体験しました。そして、贖われた者は自由になれるということを。

 

A贖いにより義とされる

「贖い」の旧約における用語解説を読みましたが、その続きとして「新約では、キリストの死によって、人間の罪が赦され、神との正しい関係に入ることを指す。」と説明されています。「神との正しい関係に入ること」とは、「義とされる」ということです。今日は聖書テキストとして、ローマの信徒への手紙321節から26節を選びましたが、24節には「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」とあります。そうすると、贖いの業を、赦しとか救いという言葉で言い代えていると話しましたが、「義とされる」という言葉に結びつくことを、よく考えてみたいのです。

ローマの信徒への手紙326節に「イエスを信じる者を義となさるためです。」とあります。神様の目的はここにあり、この目的のために神様が何をしてくださったのかを、パウロは丁寧に述べています。21節には「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」とあります。ここで言う「神の義」とは。キリストご自身です。25節で「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」と語り、26節では「御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」と、繰り返し義について語ります。口語訳聖書では、26節の後半部分を「神みずからが義となり、イエスを信じる者を義とされるのである。」と、リズム感ある言葉で語られていました。

では、神がどのようにして義となられたか、ご自分が正しい方であることを明らかにされたのでしょうか。25節に「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」とあります。ここでキリストの十字架が語られるのです。わたしたちが義とされるために、キリストが贖いの供え物となられたのだと。

 

B贖いの場に立つ

大木英夫という神学者は、25節の「罪を償う供え物」とは「罪を贖う場所」としたほうがよいと語っています。調べてみると、この言葉は旧約の十戒の入った契約の箱の蓋を意味することが分かりました。出エジプト記やレビ記では「贖いの座」と訳されています。この上に大祭司アロンが屠った雄牛や雄山羊の血が振り注がれます。犠牲となる動物の血によって、自分自身とイスラエルの人々の罪を贖う。そういう場所だったのです。

そこで大木先生は、この25節を「神はこのキリストを立てて、その血における神の信実による、あがないの場所とされた。」と訳すのです。キリストが贖いの場所に、犠牲の動物を連れてではなく、ご自身が屠られるために入って行かれる、そういう場なのです。「ひとたび(ただ一度)、己を(自分自身を)、まったき(完全な)いけにえとして、神にささげ」るために十字架に入って行かれたのです。キリストご自身が贖いの場所となられたのです。ここで神みずからが義となられたのです。わたしたちは、この場所に立つことによって、義とされるのです。神様との関係が正されるのです。

義という言葉は、その関係が正常であることを表わします。親子でも夫婦でも、一人では関係は成り立ちません。相手があってはじめて、親子であり、夫婦であるといえるわけです。義とされているとは、その関係が良好だ、という意味なのです。神と人間との関係もそうです。神に似せて造られた人間は、本来は神の前に義とされていた、正しい関係だったのです。ところが、罪によって神との関係が損なわれてしまった、義ではなくなったのです。

 

Cとどまるべきところ

放蕩息子は、自由を求めて遠い国に行きました。父親の支配から逃れたかったのです。しかし、自分の身勝手さからすべてを失ったとき、父のもとには何でもあったことに気付きました。ぼろぼろになって帰って行くとき、とても迎えてもらえるとは思ってなかったのです。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は走り寄って息子の首を抱き接吻しました。この父親の抱擁の中で、息子は義とされたのです。

ローマの信徒への手紙324節「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」とあります。イエス・キリストが贖いの小羊となられた、ご自身の命を身代金として神に献げられたことで、罪と死の奴隷となっていたわたしたちを解き放ってくださったのです。

では、解き放たれたわたしたちはどこにいくのでしょう。どこかに行ってしまえば、過ちを繰り返すだけです。義とされたわたしたちは、神の場所にとどまるのです。そのようにして、神との正しい関係に生きることができるのです。贖いの場に立たれ、罪を償う供え物となってくださった方に仕えて生きていくのです。イエス・キリストのものとして生きるときに、真実の慰めが与えられるのです。

 

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