礼拝説教要旨


2015年5月3日
日本基督教団信仰告白
(11) 「神は恵みをもて我らを選び」 田口博之牧師
申命記768節、コリントの信徒への手紙一126節〜31

 

 

@神の召しによる選び

宣教に先立ち、長老任職式、執事任職式が行われました。先週の教会総会で、わたしたちは新たに一人の長老を選びました。また総会後に行われた臨時長老会で、一人の執事を選びました。神の御前に行われる教会会議において、わたしたちは信仰をもって長老と執事を選び、礼拝において行われた任職式において、この選びが人によるものでなく、主の召しであることを確認しました。お二人とも、先週の礼拝の時点では、長老また執事に選ばれるなどとは、全く考えていなかっただろうと思います。神の選び、神の召しは、人の思いや計画を、はるかに越えているのです。

そういう中で、今朝の礼拝宣教の主題が「神の選び」となっていることも、神の不思議な導を感じています。わたしが考えてそのようにしたわけではなく、昨年度より毎月第1主日の礼拝に、日本基督教団信仰告白を順に学んでおり、今日は第3段落の「神は恵みをもて我らを選び」が主題となったのです。

 

A救いの出来事となるために

第2段落の後半では、御子の受肉と十字架によってもたらされた救いの出来事が告白されていました。しかし現実には、救われた者と救われていない者が存在しています。人が救われるためには、イエス・キリストの救いの恵みに与るような出来事が必要なのです。この第3段落は、イエス様によってもたらされた救いの出来事が、どうすればわたしたちの救いの出来事になるのかが語られているところなのです。

その最初に「神は恵みをもて我らを選び」が語られているのです。キリストの救いの出来事がわたしたちの救いになるといっても、それはわたしたちの側の功績によるものではないのだということが、はじめに語られているのです。「わたしたちが」何かをしたかではなく、はじめに「神の選び」があるのです。

日本基督教団信仰告白は、この後で「ただキリストを信ずる信仰により」と続きます。来月お話しすることになりますが一言だけ言うと、信仰を語るときにも主語の転換がないことに気がつきます。第3段落は二つの文章から成っていますが、前半は「神は」、後半は「聖霊は」が主語になっています。すなわち、わたしたちの持つ信仰も、「神のわざ」だということです。そうでなければ、「信仰によって救われる」といったとき、信仰すらわたしたちの功績、人間の良きわざになってしまうのです。わたしたちが神様を信じる前に、神さまがわたしたちを選んでくださったのです。日本基督教団信仰告白は、神様の側にわたしたちの救いの根拠があることが告白されているのです。

 

B選び、それは価値があるから?

しかし、神の選びは、必ずしも分かりやすいとはいえないのではないでしょうか。教会に通い始めた頃、お祈りのときに「神に選ばれた」という言い回しがよくされていましたが、わたしは違和感を覚えたものでした。今考えると、聖書をよく読んでなかったからに他ならないのですが、神に選ばれたなんて、自分が価値あるものと見なしているから言えるのであって、傲慢ではないかと思い、反発していたのです。

もう一つ、今日教会に来たのは、自分が選ばれたからではなく、自分で選び取ったからという自覚していたからでした。友人は「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ1516)と聖書に書かれてあると言いましたが、納得できませんでした。自分がここに来たいと思ったから来ている。他の誘いを断って選びとったのであって、神様が選んだからではないのだと。

そんなわたしが、神の選びについて、ああそういうことかと、腑に落ちたのが、今日の宣教の聖書テキストとした二つの箇所でした。神の選びを主題とするときに引用される聖書テキストはいくつも挙げることができるのですが、今日はわたしが出会った箇所から選ばせていただくことで、いや神が選んでくださったと信じて、御言葉を分かち合いたいと思いました。

 

C神様の価値基準

旧約聖書は、神の民イスラエルの選びを語っています。申命記76節から8節をもう一度読んでみます。

あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

多くの説明は必要ありません。友人たちは、このことを言っていたのかと、後になって分かりました。優秀だったから選ばれのではなく、神の選びには神の愛が貫かれていることを、御言葉をもって知らされました。

もう一箇所、新約聖書のコリントの信徒への手紙一から、1章26から28節を朗読します。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。

ここでパウロは、選ばれたことへの誇りを否定します。「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(29節)、「「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」(31節)とあります。

これらの言葉を聞いて、わたしたちは選ばれている自分を卑下する必要はありません。神様が人を選ばれるときと、人間の間で選ぶときの価値基準は違うのです。ゆえに教会でも、人間的な価値基準が持ち込まれることはないのです。神の選びは、人間の側の条件ではなく、ただ神の恵みによるのです。

 

Dただひたすらに神の選びの恵みを

こういうことが問われることがあります。「神の選び」については分かったが、選ばれなかった者はどうなるのかと。教会の歴史をひもとくと、救われる者と滅びる者とに分けられる二重予定説というものが生まれました。二重予定については、改革派教会の中でも考え方が分かれます。その教会がどのような信仰告白を持っているかによって、分かれるのです。

わたしたちの教会も改革派の流れを汲んでいますが、どうなのでしょう。この問いに関して、日本基督教団信仰告白は一つの明確な答えを持っています。それは「選ばれなかった者への滅びは語られてない」という答えです。語られていないことに、日本基督教団信仰告白の特質があるといっていいのです。合同教会であるがゆえの幅の広さとも言えます。

ですからわたしたちは、「信じない者は滅びにいたる」そのような宣教はしないのです。そうでなく「神の御心はひとりも滅びないこと」と宣べ伝えるのです。日本基督教団信仰告白は、「神の選び」を語るときに「神は恵みをもて我らを選び」と、神の恵みのわざとして語るのです。わたしたちの教会は、選ばれていない者の滅びは語らず、ただひたすらに選ばれた者の恵みを伝えるのです。そこに神との出会いが生まれます。神の選びが救いの出来事として見出されるのです。

新年度。長老と執事が新たに選ばれました。ここにも神の恵みがあります。選ばれた本人だけでなく、教会が神の選びの出来事に巻き込まれています。今わたしたちの教会に神の恵みが豊かに注がれています。

 

 

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